森におたまじゃくし
やたらと丁寧な口調で、女はユエ、と名乗った。
「はじめまして、主様」
黒蜥蜴は主様と呼ばれたことを不思議に思って目を瞬く。
「……ぬし、ではない」
今度はユエが不思議そうに首をかしげる。
「そうなのですか。トカゲにしては大きいですし、森に住むという守り主様かと思ったのですが」
おしゃべりもされますし、となぜか彼女は嬉しそうに付け加える。
どうして嬉しそうなのか、黒蜥蜴には理解できない。
森に入る人間の言葉を聞くうちに彼らの言葉を理解するようになったが、無用な勘ぐりを避けるために、これまで会った人間に話かけることはしなかった。
その理由は明快で。そう、ふつうのトカゲは人間の言葉をしゃべったりしない。
「ことば、しゃべる、ぬしとは、かんけいない、…とおもう」
歯切れ悪く答えて、考えた。
いつから森にいるのか、黒蜥蜴自身はもう覚えていない。大きさだって、脱皮を繰り返してこのサイズになっただけのことだ。ただ、同じトカゲたちはことごとく寿命を迎えていくのに、自分は死ななかっただけで。
……ああ、あとはこの力がある。
「おまえの、それと、いっしょ」
ちろり、と長い舌を出してユエの前掛けを舐める。彼女は一瞬驚いたように身を引いたが、少し考えた後前掛けに縫いつけられた袋――後から知ったが、それはポケット、というらしい――の部分に手をいれる。
「これ、ですか」
差し出されたのは、鈍く輝くもの。ユエの手のひらに収まる程度の大きさのまるい楕円部分に、継ぎ目無く同じ素材で柄がついている。
「なんだ、これは」
自分と同じ、と言った矢先におかしな話ではあるが、それは初めて見るもので。
森に入る人間はそれなりにいるが、黒蜥蜴は同じ物を見たことがなかった。色は石ころと同じ鈍色だが、表面はつやつやと黒蜥蜴がうっすら映り込むほど磨かれていた。
「おたまです」
「……おた、ま」
やはり聞いたことも、見たこともない、と黒蜥蜴は思った。
「料理に使う『おたま』です。ぬし……ええと、あなた、はこれと同じなのですか」
呼び方に少し迷いながらユエが問うた。
その丸いものは使うものなのか、新しいことを知ったと思いながら「そうだ」というように黒蜥蜴は瞬きする。
「ん……それ、おきている、のだろう。だから、いっしょだ」
別に、姿形が同じと言っている訳ではない。中身が同じなのだ。力を与えられ、そのあるがままの姿を歪められたさまが。
「あなたは……霊代、なのですか」
目を見開いたユエは、納得した、というように頷く。そして、おもむろにそっと『おたま』の表面を撫で、優しく声をかけた。
「ムッカ。大丈夫みたいです、『お話し』しても」
その声に呼応するかのように、ふるり、とおたまの表面が揺れる。そして、くんっと勢いをつけてユエの手の平の上で自立すると、挨拶をするかのようにぺこりと楕円部分を下げた。
「……こんにちは」
いささか緊張したかのような、声。高い音だ。
黒蜥蜴は目を細める。自分と同じ存在と接するのは珍しい。ムッカ、といったか。これに力を与えているのはこのユエという人間だ。黒蜥蜴にはその繋がりが視えていた。
「ムッカは私の祈りが生んだ霊代です。あなたは、どなたに祈られたのですか」
ユエは黒蜥蜴の目線に合わせるように膝をつく。大事そうにムッカを抱え、また嬉しそうに表情をゆるめていた。
「いの、る」
黒蜥蜴は考えた。力を与えてくれる存在はいるが、祈られたことはない。
「ムッカ、ユエから、ちからを、もらう。じぶんは、『もり』から、もらっている」
「森、から」
驚いた表情、それからユエは少し考えて笑った。
「やはり、あなたは森を守っている存在なのかもしれません。お名前はあるのですか」
黒蜥蜴は、ない、と答える。これまで必要だと感じたこともなかった。
ユエがまた少し考え、伺うように言葉をつむぐ。
「……それでは、『ティハ』というのはいかがですか」
ティハ、と黒蜥蜴は復唱する。自分の図体に似合わぬ繊細な音だと思った。
「はい。私たちの間では、この森を『ラガルティハの森』と呼んでいます。そこから、ティハ、と」
森と同じと聞いて、先ほど似合わぬと思った音が急に身近になった気がした。
いつも独りでいるうちは名前など考えたこともなかったが、この少女――ユエと話すには、きっと必要なのだろう。
この少女はユエ、おたまはムッカ、そして自分はティハ。そう頭の中で何度も復唱してみる。
――なぜだろう。どうしてか、ふくふくと湧き立つような嬉しさがこみ上げたのが分かった。
「それで、いい。じぶんは、ティハ、になった」
そう言って、黒蜥蜴は満足したように目を閉じた。
おたま=レードルです。
森としゃべるおたま。