学校とは、無駄の塊である
俺は小学校の頃から『全校朝会』という通過儀礼が大嫌いであった。なぜなら、実に無駄な時間だからである。校長の無駄話は退屈でイラつかせ、体力気力の無駄消費につながる。しかし、学校というのはこうした無駄な活動が必要だと思っている狂った機関である。人間が滞在する空間とは、改善して進化をとげなくてはならない。しかし、学校とはただ、無能な生徒たちに勉強を教え、集団行動を覚えさせる。考え方を変えれば、それだけであり、学校自体の成長は存在しない。この全校朝会がその象徴の一つである。
俺は今、その学校の悪しき伝統である全校朝会を行っている。学年、クラス別に男女一列に並ぶ月一回の行事である。しかし、小学生の頃から思っていたことであるが、並ぶスピードが遅すぎる。俺の数少ない長所としてメリハリだけは身についている。そのため、並ぶ時はすぐに並び、ことを早く済ませる性格だ。しかし、他の生徒たちは無駄話を続けてしまい、全校朝会が遅く始まることなどしばしばあった。しかも、この高校の生徒は学級崩壊を起こす幼稚なやつらである。すぐに並ぶはずもなく、三学年すべてが互いのエゴをむき出しにして、しゃべっている。
俺と波野だけは所定の位置に立っており、早く並んでくれないかと願っている。早く、全校朝会を終えたい俺としては、この光景がもどかしく、イラつかせるものであった。
使えない学校に育ちの悪い生徒たち。こんな学校にしか入れなかった自分の頭脳を恨む。そして、そんな俺を作った両親をも恨んでしまう。だから、結婚や恋愛は嫌いなのだ。それらを正当化することはやはり、俺にはできない。
遅れた全校朝会が始まった。しかし、最初に必ずやってくる校長先生の挨拶。これは拷問以外の言葉が思いつかない。『春の季節は・・・・』で大抵始まる校長先生のありがたいお言葉は実に退屈で眠気を誘うものであった。その耳から耳に通りぬけてしまう意味のない言葉のために時間を浪費する。そんな無駄な行事に一体何の意味があるのだろうか?
五分経過してもまだ校長先生のお説教は続く。しかし、聞いているものなどほとんどいない。仮に聞いていたとしても少し時間が経てば、皆忘れてしまう。これが現実だ。例え、校長先生がためになる言葉を言っていようとも、それは無意味で時間の無駄遣いなのである。だから、俺は全校朝会が大嫌いなのだ。
しかし、これだけで終わらないのが全校朝会の悪しきところだ。次に行われることもまた、俺には関係のない無意味な行事なのである。
「次に表彰式を始めます」
そう、この表彰式もまた俺にとって、別の意味を持った拷問なのである。
「テニス地区大会優勝、長岡良太」
「はい」
一年上の先輩であり、名前がかなり似ているテニス部所属の長岡良太。俺とは親戚でも何でもないのだが、毎回彼が名前を呼ばれるたびにドキッとしてしまう。まるで自分が呼ばれたのではないかという一瞬の錯覚に陥ってしまう緊張感と自分ではないという失望感。この感覚は同じ苗字を持った人間なら味わったことのあるはずだ。テニス部のエースと万年帰宅部で最近になって秘密結社的部活の『モテない組』を結成したばかりの俺。まさにヒエラルキーの天と地以上の差がある。しかも、一番の苦痛は彼を俺がよく比べられるということだ。
「あ、そこにいるのはできの悪いほうの長岡君かな」
俺の前に並んでいる波野から嫌味の言葉を言われたのである。
「うるさい、人を比べるんじゃない!」
そう、日本人にとって、大好きでたまらない『人比べ』である。
中学校時代からあっちの方の長岡とはいっしょなので、表彰式のたびに俺は比べられ、見下され続けてきた。同じ高校に入ってしまったことは、俺の不運以外の何物でもないのだ。そして、俺と先輩の決定的違いは、中学時代から先輩の恋の噂は耐えなかったのである。運動神経だけではなく、身長は高く、天性の顔立ちをしている先輩は学年問わず、女子たちから人気であったのだ。一方の俺は帰宅部で何の取り柄もない男子生徒。当然モテるわけがない。そのため、一部の女子生徒たちから『駄目な方の長岡』だとひそひそ話をされたことも数多くあった。
駄目なほうの長岡。そして、俺の人格を形成した決定的一言が発せられたのである。
『モテない方の長岡』
その一言で俺の何かが完全に壊れたのかもしれない。それは決して悪い意味での『破壊』ではない。常識という日本人にまとわり着いて、離れようとしない殻を破壊したのだ。
モテなくて何が悪い。運動神経が悪くて何が悪い。できる人間がいれば必ずできない人間も出てくる。上がいれば、下もいる。それはごく当たり前であり、必然なのである。しかし、人間とは下の者を馬鹿にし、いじめる習性がある。それは非常に悲しいことであり、愚かなことである。否定する権利は誰にもないはずだ。
しかし、そういう思考の持ち主たちが多けれな、それは常識となり、正しいことであると認識されてしまうのが日本人の特徴である。
俺たちモテない組が壇上に上がることはきっとないだろう。全員帰宅部で自由人であるから。俺自身、功績を残したいとは思っていないし、そんなことに意味を感じてはいない。学校の功績だけで人生が大きく変わることはない。そんな人間は本当に才能を持った一握りの人間たちだけである。
たいして、才のない生徒は功績を残したとしても、それは高校時代の『いい思い出』になるくらいである。俺の考えが仮に間違っていたとしても、俺には関係ない。そんな記憶など必要ない。もちろん、彼らのように功績を残すことに対し、否定することもできない。表彰されること自体は決して悪いことではないのだから。
しかし、全校朝会という無意味で時間の浪費をしてまですることではないと俺は思う。教室で配られる情報誌に添付すればいいだけなのだから。
出来る生徒の長岡良太は慣れた様子で壇上の上に登り、賞状とトロフィーを受け取った。そして、盛大な拍手が沸きあがった。俺は気分が悪かったので手を叩くことはしなかった。これは嫉妬ではない。彼の成績を否定する行為でもない。ただ、面倒なだけであったのだ。
非公式であるモテない組での表彰など絶対ありえない。その前にどのような大会があるというのだ?
縁の無い壇上を眺めながら、俺はただ考える。
早く終わらないかなと。しかし、学校は俺の都合など考えてはくれない。
「では、次に生徒指導からお話があります」
出た、俺には一切関係ない生徒指導のお説教タイムだ。
体育会系オーラ全開の生徒指導担当の坊主頭の教諭は壇上を登っていく。生徒指導が現れたとしたら、この学校の馬鹿な生徒が何かをやらかしたのだろう。
いつだってそうだ。俺は何もしていないのにどこかの馬鹿が何かしらのことをすると生徒指導が現れ、更なる時間の無駄が発生する。とばっちりもいいところだ。
そして、生徒指導によるお話がはじまったのである。
「生徒指導から報告します。最近、服装の乱れが酷くなっているな。ネクタイがだらけているやついるだろう。今すぐ直せ!」
すると、大勢の生徒たちがネクタイを直し始めたのである。この高校の制服はブレザーなので必然的にネクタイを必要とする。しかし、この学校は進学校のなり損ないのため、まじめの服装を着ている生徒はほとんどいない。俺たちモテない組は、全員服装は完璧であるが、この学校ではそれがマイノリティとなってしまう。
まじめにしていても、いいかげんにしていても何も変わらない。実におかしな話だ。
「入ってきたばかりの一年生まで最近はどんどん服装が乱れてきている。上級生がだらしないからだ」
その考え方に対し、俺は、半分はあっていると考えている。しかし、その程度の生徒しかいないということではないかと俺は思う。非常に冷たく、見下した考えであるのは分かっているがそれがこの高校の現実である。学級崩壊を起こしてしまうような生徒たちなのだから上級生に何を言ったところで水の泡なのだ。
「服装の乱れは心の乱れだ!」
この言葉はよく使われるが、だからといって、服装を正したところで生徒個人の人格を変えることなど出来ないのだ。なぜなら、服装の乱れもまた生徒たちにとっては一つのファッションであり、極端に言えばアイデンティティなのだ。それを否定されて、言うことを聞く生徒はどのくらい存在するだろうか? 答えは誰もいない、だ。一時的に服装を直してもまた元の姿に戻ってしまう。それが生徒であり、学校なのである。服装を正したところで心を正すことなどできないのだ。これが生徒指導の限界である。学校が何も変わらないのと同じだ。
俺は高校にきて、高卒という肩書きだけを手にするために勉強をしている。しかし、そんなことをしても無駄ではないかという考えが頭から離れない。
「お前たちはやれば出来る連中なんだからさ」
生徒指導の教諭は諭すように言葉を発している。
『やれば出来る』
他の先生たちもよく使う言葉だ。しかし、ここの生徒はできないのではない。『やる気がない』のである。それは結果的にできないに等しい。この高校の生徒たちはある意味でこの高校で完結しているのかもしれない。もし、何かしらの向上心があるのなら、学級崩壊など起きないはずである。彼らは自らの人生をある意味で悲観しているのかもしれないし、ただ、その場を楽しめばいいのだという狭い考えなのかもしれない。
何が正しくて何が間違っているのかが分からないのが人生だ。
俺の考えだって正しいとはいえないかもしれない。とてもネガティブでさびしい考え方しかできないのが俺だ。
この全校朝会だって、何かしらの意味があって行われているのかもしれないはずなのに、俺は否定することしかできない。
だから、俺はモテないのだろう。
物事を損得でしか考えられない不器用な人間だから。
しかし、それもまた俺のアイデンティティだ。完全に否定する必要はない。自分で自分を殺してしまう考え方こそ、真にさびしい人間の姿なのだから。