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春とは、絶望の始まりである。

 春、それはすべてが始まる季節。入学式、新しい教室、新しいクラス。新しい友達。そして、新しい恋の始まり。そんな、すべてが始まる春が俺は・・・・・大嫌いだ!

 何が、すべてが始まる季節だ。聞くだけで虫唾が走る。学校なんてずっと夏休みでいいんだよ! しかし、学歴で人生が決まるこの時代では高校に行かざるをえないのが現実だ。高卒以上と書かれた求人票をよくとあるデパートなので見かけるのである。そして、ほとんどの親が必ず思っていることは『高校は卒業しておけ!』である。

 まったく、ふざけた話だ。学歴なき人間は人ではないかのような社会を作りやがって。行きたくもない高校に行かなくてはならなくなった。中卒ではどうしても就職に不利であり、採用されたとしても、ブラック企業の末端で、劣悪な環境でサービス残業をするだけの使い捨て労働者になるのが落ちである。ヴィジョンや凡人にはない才能があるなら別であるが、そんな人間はマイノリティの中のマイノリティだ。

 少なくとも、俺にはそんな才能はない。金儲けはもちろん、芸術的才能も皆無である俺は凡人のレールの上に便乗する人生を送るしかない。

 しかし、その高校生活と言う名のレールにあるのは、学力、功績、そして我らが敵である『恋愛』である。

 高校生活の基本はまず学力であろう。国語、数学、英語を基本とし、物理、化学、生物、地学、日本史、世界史、政治経済などなど。これらの授業で高得点を取れば、学校を実質支配している教師たちから評価され、親からも評価の対象になるだろう。学校のヒエラルキーの上位にいることができるのだ。学校は所詮、ヒエラルキーの象徴である会社という概念を植え付けるためにあるようなものなのだ。日本人は所詮、平等を唱えていてもランク付けしたがる国である。

 しかし、学力が低いという勝手な烙印を押されてしまった生徒のために用意されているのが『功績』である。その代表的例の言葉として『筋肉馬鹿』がある。

 筋肉馬鹿、つまり勉強はできないが運動神経は抜群という生徒を指す言葉である。野球、サッカー、バスケットボール、剣道、柔道等々。とにかく何でもいいのだ。スポーツの大会で優勝などの『功績』を残す生徒は学力の次か同等のヒエラルキーを得ることができるのだ。それは運動部に限ったことでもなく、書道や放送部などの芸術的功績も当然反映される。それは学校のヒエラルキーの上位に行ける権利があるということだ。

 しかし、今までの学力や功績はあくまで教師たちや学校側に対するヒエラルキーの考え方である。生徒たちのヒエラルキー、いわゆる学級階級はまた違ったものになるのだ。

 その大きな違いはやはり『恋愛』であろう。学校側にとっては、恋愛などどうでもいいことであり、むしろ面倒を巻き起こす厄介ごとでしかない。生徒たちにとって、学校生活は勉強することは最大も目標ではないのだ。ただ、楽しみたい。そう、学校を一種の娯楽として楽しんでいるだけなのだ。楽しみ方はいろいろあるだろう。部活に精を出すことがその一例に当てはまるだろう。現に、部活に参加するためだけに通っている生徒も大勢いいる。部活の推薦入試で合格生徒などは特にそうであろう。

 友人との会話を楽しむこともまた娯楽。授業中のおしゃべりも同様である。

 そして、その延長線上にあるのが『恋愛』という名の娯楽なのだ。

 恋愛に発展する過程はいろいろあるだろう。美形であること、性格があること、部活で活躍し、人気者になったことでの発展。

 『恋愛』=『青春』といっても過言ではない。もし、それが片思いに終わったり、失恋したとしても、『苦い思い出』という開き直りで記憶に残る。

 では、もし何もない生徒が一人いたらどうなるだろうか? 

 顔は悪い、性格もいまいち、勉強も苦手、得意なものがない。異性に縁がない。

 その生徒はヒエラルキーの低下層に行き着いてしまうのだ。それが学校だ。しかも、そんな生徒は周りから馬鹿にされ、本人もそのことに悲しみ、絶望してしまう。そんなことはおかしいのだ。何もなくて何が悪いのだ。学校は本来勉強するべき場所だ。何もない生徒を否定したり、自身をさげすむこと自体がおかしいことであり、それこそ、悪なのだ。

 しかし、そんな低下層に堕とされた生徒のほとんどは片思いを抱きながら、卒業するものらしい。それで、苦い思い出を作って、高校にいたことを自分の心に刻み付けるのだ。それがどれだけ、惨めで悲しいことかを上位者は知らない。恥じる必要のないことを恥じてしまうこと。悪しきコンプレックスを抱くことは間違っているのだ。

 そんな学校社会の中を俺たちモテない組は必死で生きている。俺たちは低下層中の低下層に位置していることは分かっている。特に、俺のように恋愛できない体質は何も生み出すことは学校内ではありえないのだ。ましてや、集団生活が苦手で行事が大嫌いな俺は低下層の頂点に位置している。日本人というのは口には出さないが何かしらのランク付けをしているものだ。

 俺はこの高校生活で『青春』と呼ばれるものを送ることはできないだろうし、送りたくもない。俺は自分のペースで生きているだけのことだ。

 この学校で行われる行事などのも消極的にしか参加せず、数少ない親しい人間以外と関わることはしない。当然、モテない組以外の部活には入部していないので何の活躍もできないだろう。

 俺の学校生活はまさに低下層そのものである。

 しかし、俺はそれをまったく恥じていない。恥じる必要はないのだ。そのことを全国民に知ってほしい。

 青春をネタにしたドラマや映画、CMなどを見ると、虫唾が走ってしまう自分がいる。告白がどうのこうのとか、何かの音楽にはまりながら、憧れの異性を思ってしまう的なものを見ると、どうしても一言言いたくなる

『勉強しろ!』と。

 何が青春だ。何が恋愛だ。学生は勉強して何ぼのものだ。テレビはそういった大切なものを排除し、娯楽的要素である恋愛をネタにする。まるで、それが正しい高校生活かのように・・・・・そんなことを俺は許すことは出来ない。

 ああ、そうさ。俺はどうせ、低下層の以下の人間だ。学校自体が嫌いで何事においても超消極的な人間だ。この高校生活も無意味な三年間を迎えるだろう。何の思いでも残さず、何もない無の三年間。

だからこそ、俺はモテない組を結成したのだ。いろいろな意味で低下層にいるメンバーを集めた集団を結成し、悪しき価値観を変えるために。

無の三年間を悲観する必要のない社会を作る。それが俺の最終目標だ。

 すべての始まりである『春』

 この俺にとって春という季節は『鬱』なのだ。俺にとって春夏秋冬という概念は存在しない。春=鬱が俺の季節。だから、今は鬱の季節なのだ。

 俺にとって青春という悪しき考えは存在しないのだ。

 と、そんなことを考えながら俺はこのクラスの生徒たちを恨みながら授業を受けている。

 別にクラスメイトが楽しい青春を送っていることに対して、歪んだ嫉妬心を抱いているからではない。理由はいたって簡単だ。

『うるさいのだ!』

 この学校は進学校とう肩書きはあるが、それは名ばかりの偏差値の五十未満の痛い高校なのだ。授業の進みは遅く、内容も簡単である。こんな勉強では実力で大学入試をした所で受かるはずもない。そして、何より癇に障るのは、高校生になって学級崩壊が起こっていることだ。授業中のおしゃべりはもちろん、ゲームをしていたり、教室でキャッチボールをしている有様だ。そのため、俺のように普通に授業を受けている人間はいい迷惑なのである。先生たちも弱腰で、生徒たちを更正する気はまったくなく、勝手に授業を行っている有様である。

 しかも、性質の悪いことに学級崩壊を引き起こしているメンバーはクラスの中心人物たち、つまりヒエラルキーの上位者たちなのである。不良とは違う性質を持った彼らはただ、学校を娯楽施設にしているだけなのである。

 彼らのような悪しき存在が上位者になってしまう高校に入学した俺は非常に残念な存在なのである。もう少し、俺に学力と偏差値があれば、一つ上の学校にいけたのかもしれないが、所詮後悔先に立たずとうやつである。過去に戻ることはできない。人は進むようにしかできていないのだから。

 今、俺は国語の授業を受けているが、国語担当が新米教師のため、いつも以上に騒音が教室内に響いている。

 これはもう、うるさいを通り越して、公害である。しかし、階級の低い、まじめに勉強している連中は何も言わず、ただ我慢している。上位者に反抗する低下層や中間層の生徒たちは、上位者たちから粛清される運命だ。いわゆるいじめであるが、上位者の行動はどのような内容であり、それが絶対であり、正義になってしまう。それが学級というものである。

 学校とは実に歪んだ世界である。その歪んだ世界を卒業しなければ、高卒という肩書きを得られることができないのだ。そんなくだらない肩書きのために努力しなければならないと考えると実に不愉快で馬鹿馬鹿しい。日本人をやめたくもなる。

 けれど、この国で生まれてしまった以上、受け入れなくてはならないこともある。もし、俺に融通心があれば、この騒音を受け入れ、むしろ自分もこの騒音を引き起こす一人になってしまえばどれだけ楽であろうか? もし、それができたなら、俺はヒエラルキーの上位者になることができる。しかし、それは俺の許すところではない。

 その行為はある意味で自分を捨て、魂を悪魔に売ることと等しいのではないだろうか? 確かに俺は変わりもので取り柄のない人間である。だからこそ、自分のアイデンティティだけは捨てたくないのだ。

 もし、これがどこかのくだらない青春学園ドラマであったらな、熱血教師が現れ、生徒を一人ずつ更正していくというストーリーであろう。しかし、現実世界でそんなことは不可能と言っていいだろう。なぜなら、教師たちは非常に忙しいからだ。青春学園物と呼ばれているドラマや映画は俺にとって、ただの『ファンタジー』なのだ。何より、教師たちの仕事は生徒たちに勉強を教えることなのだ。更正させる仕事は本来、親の仕事だ。親が非人格者であるから、子供は腐り、腐った子供がいずれ腐った大人へと成長し、腐った子供を作る悪循環を生み出す。そして、今俺の目の前で起こっている学級崩壊は繰り返される。それが歴史だ。過ちは繰り返される。

 学級崩壊を起こす生徒の授業料を高くするという法案があれば変わるのかもしれない。事実、こいつらのような人間は勉強をまじめにしている人間からすれば『邪魔』なのである。しかし、その邪魔な人間が学級を支配しているこの現状ではどうすることもできない。

 駄目な子供に使えない大人たち。

 こんな悪しき生徒たちのために税金を使うなど片腹痛い。

 しかし、これが彼らの青春なのだろう。この騒々しく、そして授業を妨害してまで得られる興奮。

 俺は絶対認めない。もし、それが本当に青春なら俺はそれを否定する。青春という踏み絵があったとしたら、喜んで踏んでやる。踏んで、踏んで打ち砕いてやる。

 そんな、くだらない妄想をしながら国語の授業を受けている俺も税金で養っていく価値のない人間なのかもしれないな・・・・・とほほ・・・・

 国語担当の教師はこの状況を納めることなく、黙々と黒板にチョークの文字を書いている。新米教師とはいえ、赴任してきた高校が非常に悪かったと俺は思う。国立大学卒業で肩書き的には社会の上位者のはずが、こんな存在してもしなくてもいいような高校に回されるとは・・・・・

 今の子供は不況を作った大人を攻め、その大人は子供を『ゆとり世代』というレッテルを貼って否定する。ゆとりを作った大人がいう台詞ではないはずなのだが・・・・

 俺は大学ノートに黒板に書かれている文字をシャーペンで写している。しかし、実に退屈な作業である。正直辛いし、早く終わらないかなとちょくちょく時計を見ている。しかし、時の流れは退屈な時間であればあるほど長いものだ。

 俺は時々、何のために勉強しているか分からなくなる。高卒の肩書きを得るため以外に知識を増やすためなどがあるだろうが、俺みたいに頭の悪い生徒はすぐに知識を忘れてしまう。この時間が非常に無駄ではないかと思ってしまう。

 勉強も駄目、功績は残せない、青春というものを謳歌することもできない俺に残された唯一の場所がモテない組なのであろう。そのために作ったのかもしれない。自虐的な空間を。しかし、それを自虐的にしたくないという矛盾した考えを含んでいることもまた事実だ。モテない組は一体どこへ進んでいくのだろうか・・・・・・創設者の俺がこのような状態であるから存続も危ういかもしれないな。


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