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さわさわと風が吹き抜け、心地良い。地面は細く柔らかい草に覆われ、茣蓙みたいだ。
風は少し湿っている。雨が降っていたのか、これから降るのか。からっからに乾いた風よりも、やや肌寒さを感じるこの風の方が克己は好きだ。
風に乗って、獣の臭いがする。不快ではないが、良い匂いでもない。
「いつまでボケッとしてんだお前! さっさと起きろよ!!」
ガラの悪い少年の声が、克己の耳元で怒鳴る。
ぱっと顔をそちらに向けると、
「! あっぶねーな、てめぇオレを突き刺す気か!?」
「?」
さっと声の主は避け、また怒鳴った。
突き刺すも何も、頭には何も被っていない。
そう言い返そうとして頭に手をやると、硬い感触がある。辿っていくとそれは兜のようで、確かに角のようなものが両脇から生えおり、角の先端は鋭く尖っていて、勢いをつけると刺さりそうだ。
「よぉ、お前がオレのマスターか? ぼけっとした顔してんな!」
声の持ち主は、克己の真正面に戻る。
体長20センチ程、透明なトンボのような羽を持つ、小さな角が生えた妖精だ。
見慣れた顔だが、しかし信じられない。
「……あなたは?」
「お前のナビ妖精様だよ! 見てわかんだろ!!」
ナビ妖精。
『ドラゴンマスター』ではナビ妖精も初めから決まっており、知的で優しく可愛ければ尚良いな、という克己の期待から大きく外れたこの妖精には、大層がっかりした。名前は好きに決められたので、『ラビ』と命名した。
ひひん。
すぐ横で馬が鳴く。
目をやると、小さな馬車が傍にある。
茶色い牛が引いている馬車だ。牛に見えても、異界アレカイルでは馬に分類される種で、スタインと言う。
短距離を高速で移動するのは苦手でも、三日三晩走り続けれる程の持久力を持つ馬だ。
「……私の、スタイン?」
戸惑いがちに、そのつぶらな瞳を見つめながら小さく克己が言えば、
ひひんっ。
目を細め、スタインは鳴く。
獣の匂いの元だ。
このスタインは小柄で、克己のちょうど肩辺りの背丈だ。他のスタインはずっと大きく、力も強い。小柄なこのスタインは使い物にならないと、格安で売られていたのを克己が買い取ったのだ。どこにでも付いてきてくれる、克己の相棒だ。
克己は立ち上がり、スタインの頭から背中を撫でようと手を伸ばす。
「……なにこれ」
伸ばした腕には、見慣れていると言えば見慣れている、革製の籠手が装備されていた。
身体を見下ろすと皮の軽鎧、腰当て、ブーツとフル装備。克己の『ドラゴンマスター』プレイ時の、装備と全く同じだ。
「ナニ、って、お前が自分で装備したんだろ」
スタインの背に降り立ちながら、ラビが小馬鹿にした調子で説明する。
「……そうだけど、そうなんだけど、今ひとつ実感が」
「お前の実感なんか知らねぇよ! それよりもコイツはお前の連れか?」
「……なんかあるの?」
スタインの背の上で、ラビが引っ張る仕草をしきりに繰り返しているが、克己には何も見えない。
「お前の連れだよ!! さっきまで一緒に居たヤツが居るだろ!!」
「三木さん? そういえば居ない――」
「お前に見えてないだけで、そいつはここに居る! あとお前、コイツの名前を言うな! コイツは今、人間っつーよりはオレ達寄りの存在だ、名を知られると呪いをかけられるぞ」
「……えーと」
「名前をつけてやれ。このオレ様にラビってつけたみたいにな」
厳しい状況のようだ、ラビの顔は険しい。
「…………えーと」
スタインをなでなでしながら、克己は考える。
今、克己の頭は軽く混乱している。
嬉しいような、怖いような。
楽しいような、不安で恐ろしくてたまらないような。
梓は居ないのに、ラビは居るという。ラビはゲームの中の、ナビ妖精だ。ゲームというのは、さっきまでやってた『ドラゴンマスター』。変な仮面の男が飛び出してきて――。
大人しく撫でられているスタインは、とても暖かい。それだけは確か。
「……じゃ、コウで」
後輩だから、コウ。
そう名付けると、ふわっと梓がラビの前に現れる。
体長はラビと同じくらい、随分と小さくなった。ぼんやりと霞がかかったような、朧気で不透明な姿だ。目は開いていて立っているものの、焦点は定まっておらず、口も半開き。服は着ていない。
「……何か、着る物……」
自分がどこか、とぼけた心配をしている気がする。
素っ裸な事よりも、梓の大きさとかぼやけている姿とか、大事な事はきっとそっちだ。
「人間の服はダメだ、とりあえずは薬草があっただろ、あれでも巻いとけ。無いよりはマシだ。存在も安定する」
薬草。
いつも何個かは常備している、体力回復の基本アイテムだ。
反射的にポケットを探して腰当てに手を当てると、がしゃんと金具がこすれた。
「馬車の中だよ阿呆!」
慌てて馬車の中に駆け込む。
克己の馬車の大きさは普通自動車と同じほどで、荷台は丈夫な木の板、黒っぽい皮の幌も完備。寝泊まりする事も可能だ。
馬車の中は綺麗に整理されている。多分水が入っている大樽、野菜が入った麻袋、寝袋等が整然と並べられ――薬草入れはどれだ?
手近にあった箱を開けると、ミントのような清涼感溢れる匂いが溢れる。中には小さく白い清潔な袋がいくつか入っていて、多分これだろうと当たりをつけて、その一つを取って克己はラビの元に戻る。
「薬草って、これ?」
袋から取り出した葉っぱは一枚一枚大きく、ラビや梓を一枚で隠せる程大きい。克己も手首なら楽に巻けそうだ。
「……」
黙って葉っぱを受け取ったラビは小さく、克己には理解不能な言語で呟く。
すると葉っぱは薄く輝き、梓の身体に巻き付いていく。
葉っぱが巻き付いていくのに合わせ、徐々に梓の身体がはっきりと存在し始める。全身に巻き付くと、梓の身体ははっきりと現れ、スタインの背にぱたりと倒れた。
「三木さん!」
「コウだ。不用意に名を呼ぶな、女の妖精は珍しいから狙われやすい。名を知られると、名で縛ってすぐに捕らえられるぞ」
「え、っと……」
スタインの背の上で、静かに梓――コウは眠っている。表情は安らかで、呼吸も安定している、ひとまずは安心だ。
「……これからどうしたら良い?」
「一旦家に帰る、そこなら休めるしな」
「分った」
目標が決まれば、途方にくれていた心も落ち着く。
ひとまず家に帰る。分り易くていい。
と。
がらがらがらと、けたたましく何かを引きずり回す音がする。
「な、何?」
音に驚き嘶くスタインを、同じようにびっくりしつつ克己はなだめる。
「……ち、面倒なのが来やがった」
素早く倒れている梓を抱きかかえ、ラビは克己に言った。
「ビビるなよ、お前の腕ならあんな奴らは屁でもねぇんだ」
「……えーと」
たらりと、克己はこめかみの辺りに、かいてもない汗が流れるのを感じつつ、音がする方に顔を向けた。
見晴らしの良い草原では一目瞭然。
二台の小さな馬車が猛スピードでこちらに向かってくるのが見える。
克己の馬車が自動車なら、向こうの小さな馬車はまさしくバイク。荷台は最小限で、一人乗り。
引いている馬もスタイン種よりも小柄で、しかし速さはあるロバン種。見かけは黒い山羊で、小さいが立派な角を持つ。
克己も見覚えがある連中だ、あくまで画面越しにだが。
「盗賊、か……」
画面越しには勿論、何度もやり合っている。草原を歩いているとたまに出会う、少々手強い奴らだ。
大抵先制を取れて、最初の攻撃は弓。
弓は攻撃力が高く、うまくいけば一撃必殺となる。しかし矢は消耗品であり、一本一本の値が少々高いので、いつもなら最初の一撃を放った後は剣での斬り合いへと移行する。途中で逃げられる事も多いが、無事に倒せれば金貨を持っている事もあるし、装備している武器はお金になるし、薬草も持ってたりして、かなり美味しい敵だ。
画面越しで見る分には。