第9話 境界線の向こう側 ――熊田隼人
春の夕方。
曲町東交番。
「なあ」
肥田が真顔で言った。
「カップ麺って野菜に入ると思う?」
朝倉が顔を上げる。
「入りません」
黒城は湯呑を置いた。
「具材が存在する以上、定義上は野菜だ」
「スープでもあるよな?」
「合理的だ」
「味方しないでください!」
肥田がため息をつく。
「奥さんがさ、“健康診断近いんだから控えて”って」
「それで今食べてるんですか?」
「今ならまだバレない」
黒城が淡々と続ける。
「観測されなければ事実は確定しない」
「量子力学を家庭に持ち込まないでください!」
交番は平和だった。
だからこそ、その音は唐突だった。
トゥルルルル。
電話が鳴る。
肥田が出る。
「はい、曲町東交番――……」
沈黙。
空気が変わる。
「……分かりました。今から向かいます」
受話器を置く。
「コンビニ万引き。中学生」
朝倉の顔が引き締まる。
黒城が立ち上がる。
「軽い行為ほど、重い後悔を生む」
「だから言い回し!」
だが、もう笑ってはいなかった。
※※※
コンビニ
制服姿の少年。
熊田隼人、十五歳。
学生証で身分確認。
ポケットから出てきたのはイヤホン。
視線は床。
逃げない。
叱られる覚悟はしている目。
だが――助けを求める目ではない。
※※※
取調べ室
室内には二人。
生活安全係の飯田。
補助の朝倉。
熊田は机を見つめている。
飯田は穏やかに言う。
「隼人くん。怒鳴らない。落ち着いて話そう」
沈黙。
「どうして取った?」
「……なんとなく」
早すぎる答え。
朝倉のペンが止まる。
飯田は声色を変えない。
「“なんとなく”で、そんな顔はしない」
熊田の指先が、わずかに震える。
※※※
マジックミラー越し
黒城と肥田。
肥田が小さく言う。
「固いな」
黒城は目を閉じる。
断片が走る。
・体育館裏
・三人の影
・「ダサい」
・突き出されるスマホ
・「取ってこいよ」
黒城が目を開く。
「……交友関係か」
肥田が息を吐く。
「押されてるな」
黒城はドアへ向かった。
※※※
室内
黒城は正面に座らない。
横に立つ。
低い声。
「体育館裏」
熊田のまぶたが、わずかに動く。
黒城。
「三人」
沈黙。
熊田は鼻で笑う。
「は?なにそれ」
強い。
まだ強がる。
黒城。
「“ダサい”と言われたか」
熊田の顎が固まる。
それでも言う。
「言われてねぇ」
飯田が静かに口を開く。
「隼人くん」
「強がるのは悪いことじゃない」
熊田の目が揺れる。
「でもな」
「一人で抱えると、余計にしんどくなる」
「別にしんどくねぇよ」
「俺が勝手にやったんだよ」
否定しない。
飯田はうなずくだけ。
「そうか」
一拍。
「じゃあ聞くけど」
「本当に一人でやったなら、なんでそんなに悔しそうなんだ?」
沈黙。
熊田の拳が震える。
黒城が静かに言う。
「押されたな」
それだけ。
決めつけない。
断罪しない。
事実だけ。
熊田の呼吸が乱れる。
「……」
それでもまだ言わない。
飯田が前に出る。
「言わなくてもいい」
熊田が顔を上げる。
「今日は全部言わなくていい」
「でもな」
「俺たちは、君が一人じゃないって分かってる」
長い沈黙。
やがて、かすれた声。
「……金、貸せって」
朝倉の胸が締め付けられる。
「断ったら……ダサいって」
そこまで言って、止まる。
飯田はゆっくりうなずく。
「そこから先は、ゆっくりでいい」
熊田の肩が、わずかに落ちる。
涙はまだ落ちない。
でも、強がりは崩れた。
※※※
その後
母親到着。
被害弁済。
店舗は処罰を求めず。
厳重注意。
だが。
飯田が言う。
「お母さんの承諾をいただければ、学校に連絡します」
母親が驚く。
「万引きのことを?」
「いえ」
一拍。
「交友関係の問題の方を」
母親は迷い、そして頷く。
「……お願いします」
熊田は母を見る。
初めて、ほんの少しだけ安心した顔。
※※※
交番前
夜風。
朝倉が言う。
「万引きより、怖いですね」
肥田が頷く。
「孤立は静かに進む」
黒城が静かに言う。
「境界線は、押されて越えることもある」
「分かりづらいです」
「一人で越えたわけじゃないということだ」
朝倉は熊田の背中を思い出す。
(今度は、ちゃんと呼び止めたい)
黒城が交番の灯りを見る。
「光は当て続けなければ、また影になる」
交番の明かりが、夜に浮かぶ。
小さくても。
確かに、境界線のこちら側を照らしている。
※※※
数日後
夕方の交番。
朝倉が書類をまとめていると、飯田がやってきた。
「学校、動いてる」
朝倉が顔を上げる。
「もうですか?」
「ああ。担任と学年主任、事実確認中だ」
一拍。
「圧力かけてた側も、把握してる」
朝倉の肩から、少し力が抜ける。
「よかった……」
肥田が静かに言う。
「学校は学校の領分だ」
黒城が湯呑を置く。
「光は一つでなくていい」
「だから分かりづらいです」
「照らす場所が違うということだ」
朝倉は小さく笑う。
(ちゃんと、繋がってる)
※※※
夜。
交番の灯りが、道路を照らしている。
その向こうには、学校の校舎の灯り。
どちらも小さい。
だが、確かに同じ方向を向いている。
黒城がぽつりと呟く。
「境界線は、越えさせないだけが仕事じゃない」
「戻すのも、仕事だ」
朝倉はうなずいた。
まだ、間に合う。
まだ、越えていない。




