第5話 生活安全の距離――守るべき境界
春の朝。
曲町東交番の倉庫。
「物価高で仕入れに困るよなぁ」
段ボールを前に、肥田が腕を組む。
黒城が真顔で言う。
「値上げするのか?」
「そこは企業努力で何とか頑張るよ」
朝倉がツッコむ。
「会話が業者なんですよ」
棚にはカップ麺と飲み物。 空き缶に百円。
「最近、黒城君の消費が多い」
「補給は戦術だ」
「戦場じゃないです」
いつもの朝。 いつもの空気。
※※※
トゥルルルル。
電話が鳴る。
肥田が出た。
「はい、曲町東交番……」
沈黙。
「分かりました。向かいます」
受話器を置いた瞬間、空気が変わった。
「同居カップルの喧嘩。物音激しい。女性が泣いてる」
朝倉の喉が乾く。
黒城が帽子を手に取る。
「距離が崩れた」
「距離?」
「生活安全も呼んである」
※※
アパート二階。
怒鳴り声。 何かが倒れる音。
肥田が強くノックする。
「警察です!」
ドアが乱暴に開いた。
酒の匂い。 赤い顔の男。
室内には、涙目の女性。
「なんだよ。関係ねぇだろ」
朝倉の背中に汗が流れる。
黒城が一歩出る。
「壁一枚で世界は繋がっている」
「意味わかんねぇよ!」
その時、階段を上がる足音。
生活安全係。
飯田巡査部長。 そして――脇俣遥香。
朝倉は息を呑む。
(え……)
いつも笑顔で恋バナしている脇俣先輩が、 まったく違う顔をしていた。
目が鋭い。 表情が削ぎ落とされている。
「状況は?」
低い声。
飯田が男の前に立つ。
「おい」
それだけで、男の声量が落ちた。
脇俣は女性の前にしゃがむ。
「大丈夫。ゆっくり呼吸できる?」
声は柔らかい。 でも、隙がない。
朝倉は思う。
(怖い……)
違う。
(頼もしい)
事情を聞く。
男は酒を飲み、口論。 腕を掴んだ。 壁に押し付けた。
赤みはあるが、怪我は軽微。
「被害届出しまょう。」
脇俣が静かに促す。
「出せば、正式に事件として扱えます。」
女性は首を振る。
「大ごとにしたくないんです……」
男が鼻で笑う。
「ほらな」
飯田が睨む。
「笑うな」
脇俣は女性の目を見る。
「今日で終わらせることもできる。今なら」
沈黙。
女性は涙をこぼす。
「……無理です」
朝倉の胸が苦しくなる。
脇俣の説得は続いたが、女性の意思は変わらなかった。
※※※
男は注意のみ。 その場は収まる。
女性は実家に帰ることになった。
「住所は?」
「教えてません」
脇俣が深く頷く。
「それならとりあえず大丈夫」
アパートを出た後。
朝倉は小声で言う。
「……どうして逮捕しないんですか」
肥田が答える。
「暴行は成立してる。でも本人が拒否すれば難しい場合もある」
黒城が静かに言う。
「選択もまた、尊重だ」
朝倉は唇を噛む。
脇俣が横に立つ。
「悔しい?」
「……はい」
脇俣は少しだけ笑う。
「私もだよ」
その顔は、もう少しだけ柔らかかった。
※※※
三日後。
夜。
再び通報。
「女性の実家に男が押しかけている」
全員が走る。
実家前。
怒号。 泣き声。
ドアを開けると――
男が女性の腕を掴み、振り上げていた。
「やめろ!」
飯田が叫ぶ。
男が振り返る。
その瞬間。
白石と赤瀬が入ってくる。
白石の目が、冷たく光る。
男が笑う。
「お、きれいな姉ちゃん」
白石は一瞬だけ笑った。
その目は、笑っていなかった。
白石は一歩近づく。
「あなた、彼女さんいるんですよね?」
男が怯む。
次の瞬間、女性の腕を強く引く。
女性が悲鳴。
白石の声が落ちる。
「現行犯」
赤瀬が即座に腕を取る。
飯田が体を押さえる。
手錠の音。
男が暴れる。
「離せ!」
白石は目を細める。
「よかったわね」
低い声。
「取調室で、ゆっくり話を聞いてあげる」
男の顔色が変わる。
※※※
署。
女性は震えながら言う。
「……もう、無理です」
脇俣が静かに頷く。
「別れましょう」
「はい」
「接近禁止命令、申し立てましょう」
女性は力強く頷いた。
朝倉はその横顔を見る。
最初の現場では、迷っていた。
今は違う。
※※※
女性が帰った後、脇俣が小さく息を吐く。
「距離はね、守らなきゃいけないの」
朝倉は問う。
「生活安全の距離、ですか?」
「うん」
少し笑う。
「近すぎてもダメ。遠すぎてもダメ」
黒城が呟く。
「越えてはならない線がある」
「出ました」
肥田が笑う。
「でも今回は、ちゃんと保たれたな」
朝倉は女性の姿を思い出す。
(守れた)
完全じゃない。 完璧でもない。
でも、確かに守れた。
※※※
朝倉が脇俣に聞く。
「……さっき、怖かったです」
「私が?」
「はい」
脇俣は少し考え、
「そういう仕事だから」
そして、いつもの顔に戻る。
「で、朝倉ちゃん。好きなタイプは?」
「切り替え早すぎません!?」
夜風が吹く。
曲町は静かだった。
だがその静けさの裏で、 守られた距離が、ひとつあった。




