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第1話 惜しい巡査長 ――報告書は叙事詩だ

超能力はある。だが惜しい。

※※※

春の風は、思ったより冷たかった。

朝倉陽菜は、曲町東交番の前で背筋を伸ばした。

(今日から警察官。今日から社会人。今日から、人を守る仕事。)

小さな建物だった。想像よりもずっと古く、ガラス戸のサッシは少し歪んでいる。看板には控えめに「曲町交番」と書かれていた。

(……ここが、私の職場。)

深呼吸を一つ。

ガラス戸の向こうで、誰かがカップ麺をすすっているのが見えた。

(え)

意を決してドアを開ける。

「お、今日からの子?」

湯気の向こうから声がする。

ぽっちゃりとした体型の男性が、割り箸を片手にこちらを見た。柔らかい目をしている。

「本日付で配属になりました、朝倉陽菜です! よろしくお願いします!」

思わず声が大きくなる。

「固い固い。ここは交番だよ。肩の力抜いて」

男性は笑った。

「肥田正晴。巡査部長。ここじゃ一番年寄りってことになってる」

「そんなことないでしょ」

低く、静かな声が奥から返ってきた。

朝倉はそちらを見た。

窓際に立つ、黒いコート姿の男。

腕を組み、こちらをまっすぐ見ている。

視線が、妙に鋭い。

「朝倉陽菜。十九歳。高卒。警察学校成績は中の上」

「な、なんで知ってるんですか!?」

「均衡だ」

「何がですか!?」

男は微動だにしない。

「黒城蓮。巡査長。君の指導係だ」

(この人が……?)

怖い。ちょっと怖い。

※※※

その日の午前中、最初の来訪者が現れた。

「財布を落としてしまって……」

三十代ほどの女性だった。少し焦った様子で、バッグの中を何度も確認している。

黒城が前に出る。

「触れてもいいか」

「は、はい……?」

黒城は女性のバッグにそっと手を触れた。

数秒。

沈黙。

朝倉は息を呑む。

黒城の能力のことは、簡単に説明を受けていた。

――触れた物の“記憶の断片”が見える。

「白い皿」

「え?」

「ラテアート。犬の絵」

女性が瞬きをする。

「……あ。カフェ」

「木のテーブル。窓際」

「商店街の奥のカフェ!」

「赤いネクタイの男性。笑っている」

「同僚と行った帰り……!」

女性の表情が明るくなる。

「そうだ、あそこ! 会計の時に置いたままだ!」

黒城は頷く。

「あ、でも。どこだったかな。同僚に連れていかれたから」

「恋愛運は良好だ」

「場所を教えてください!」

「北東方向」

「具体的に!」

「誤差三百メートル」

肥田「広いなぁ」

朝倉(惜しい!!)

黒城は真顔のままだ。

「均衡が乱れている」

「乱れてません!」

朝倉は必死にメモを取る。

(すごい……のかな?)

断片的。でも、確かに役に立っている。

女性は何度も頭を下げて交番を出ていった。

黒城は静かに椅子に戻る。

「惜しい」

ぽつりと肥田が言った。

「え?」

「能力はすごい。でも、ちょっとだけ足りない」

黒城は窓の外を見たままだ。

「惜しいとは、可能性の証明だ」

「始まったよ」と肥田が笑う。

黒城は続ける。

「完成された存在に成長はない。未完こそ至高」

「何を言っているんですか」

「真理だ」

真顔だった。

(やっぱりちょっと変な人だ……)

※※※

午後。

高齢の女性が道を尋ねに来た。

黒城は椅子から立ち上がると、迷わず膝をついた。

女性と同じ高さになる。

「ゆっくりでいい。急がなくていい」

黒城の声は、さっきまでのそれとはまるで別人のように柔らかかった。

丁寧に、地図を指でなぞりながら説明する。

女性は安心したように何度も頷いた。

去った後、朝倉は小声で聞いた。

「どうして、座ったんですか?」

黒城は答えない。

代わりに肥田が言った。

「同じ高さの目線だと、安心するでしょ。そうすると届く言葉もあるんだよ」

朝倉は黒城を見る。

黒城は何事もなかったかのように机に戻っている。

※※※

夕方。

机の上には書類の山。

「……これ、全部ですか?」

「まだ増えるよ」

「日報は叙事詩だ」

「何を言っているんですか!」

「事実を刻む。それが我々の使命」

「普通に書けばいいですよね!?」

肥田が肩を震わせて笑う。

黒城は真面目な顔でペンを走らせている。

一日の終わり。

交番の外に出ると、空は薄暗くなっていた。

朝倉は小さく息を吐く。

(この人は、すごいのか。すごくないのか。)

能力は本物だ。

でも、どこか惜しい。

そして――

迷子の女性に向けたあの目。

(ちゃんと、警察官だ。)

黒城が隣に立つ。

「均衡は保たれた」

「何がですか」

「世界だ」

「規模が大きいです!」

黒城は真顔のままだ。

(やっぱりよく分からない。)

でも。

(……嫌いじゃない。)

曲町交番での最初の一日が終わる。

――この人のことを理解するには、きっと、もう少し時間がかかる。

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