第三話 ミューズ
帰宅した後、雀野が古本屋で見つけたという本を手に取った。
大学生は学内での活動と学外での活動をどう結びつけているのか、ということを取り上げた本だった。古本屋の本の最後のページには基本、鉛筆で値段が書いてある。しかし、そこには何もなかった。代わりに、本の中ほどにはスリップと呼ばれる、売り上げ管理のための短冊状の紙が挟まれていた。
簡単にバレるような嘘を、と思う。バレることを見越して彼女が嘘を吐いたのか、それとも気づかれないと思って言ったのかは分からない。ただ、その気遣いが、俺の胸に伝播した。
「今度会ったとき、飯でも奢るかー……」
この縁を、大切にしたいと思う。この関係を、取り返しの付く物にしたくはなかった。
ページをめくり、彼女の厚意を噛み締めるように読み進めていく。おそらくこの本は、俺のように大学で何をしたらいいか悩んでいる人と、大学で大学生が何をしているのかを知りたい人が手に取るような本だった。教授に加え、編集代表に学生が参加したというこの本は、様々な活動を行う大学生が取り上げられている。
バイト戦士、バックパッカー、キャバ嬢、起業家、オタク、小説家、たった一言で表せる言葉で括られた彼らが、紙面上で語っている。その姿と、雀野の姿が心の中で重なった。
やはり俺と彼女は、似ていると思いながらも、別の人間なんだと確信する。もし俺であれば、こんな本は人に渡さなかったし、勧めなかった。
彼女が精力的で素晴らしい人間であることに変わりはないが、彼女はバイトにせよ何にせよ、物事を達成し知ったという回数でしか見てないし、それを支えにすることで形容しがたい不安に抗っているのだろう。
(『だって、誰かにバカにされるようなことでも、くだらないと思われるようなことでも、私はその意味を肯定できるから』)
俺の月葉は、大学生という生き物をそう評した。
この本は、他者からの理解を得るために、自分たちはこんなことをしているのだと喧伝をして、説明を試みている。
きっと、月葉の世界には彼女しかいなかった。そして、俺の世界には月葉しかいない。
肯定できると彼女は言った。雀野が持ってきたこの本の目指しているところは、自分が肯定できるようになることじゃなくて、事例を引っ提げてきて、他者から肯定されることだった。自分はこんな体験をして、こうなったから良かったんだと他者に語り、本という権威的存在にその説得力を託しているだけだ。
だから雀野は、自身がした体験というのをよく語る。他者にとって特異な体験を特異なままに語り、彼女は自分がどう思ったとか、どう自分に変化があったとか、そんな話をしない。
彼女からは、心の奥底に繋がる道が見えなかった。宵原瑞規には夢があり、丹波茉美耶には劣等感があって、堀江光人には高揚があり、鹿崎りんには逃避がある。しかし雀野には何もない。
でもそれはきっと、彼女にとっての俺だって同じだ。雀野だって、俺のことを同じように思っているから、この本を寄越したのだろう。彼女は頭が良いから、自分の矛盾を理解している。分かっている。だから俺に、この本をあえてぶつけたんだ!
俺には疑うことさえできない女神がいる。
君にはいったい、何が在るんだろうか。
しかし、雀野のくれた本が、複数人の手で、商業出版のハードルを越えて刊行されたものであることに変わりはない。
精読し、それがどのようにして作られたかを考察しながら、自分の文章を書き始める。この本のフォーマットは役に立ちそうだから、真似をしよう。
まずは学生研究会の沿革を記し、その主な活動内容について触れた。そこから自分たちが抱いていた疑問や不安などを記して、自分はこの場所から何を得たかを記そうとする。
「クソがッァ!」
思わず叫んで、パソコンを勢いよく閉じた。こんなものじゃない。こんな文章で意味があるとかなんとか言い聞かし突き動かす社会があったから、月葉は消えた。月葉はそれに殺された。自分がそれに加担してどうする!
どうかいるなら、答えてほしい。月葉。
君はどうして、俺にそんな聖典を残した?
悪い、詰まったとだけサークルのサーバーに連絡し、一度仕切り直そうと、課題に手を付ける。学部生レベルのレポートには、想定される答えがあって楽だった。自分を苛ませ続ける問いは、いつまで経っても消えないのに、数学や経済の問題なんていうものは、AIに式を投げるだけで解決する。しかし本当に解決したい自分の問いには、いろんな答えがありますねという答えしか返ってこない。
死ぬ気で答えを探し求めて、誰かと誰かの戦争の果てに、いろんな答えがあるという妥協を得るのはいい。でも、最初からいろんな答えがありますね、なんて言って、答えを求めることから逃げるやつは、俺は大嫌いだ!
迸れ、俺!
「なんで、俺はここにいるんだ、分からん。分からん分からん分からん分からん分からん」
一人暮らしになってから、独り言が増えた。
「あああああああああああああああもおおおおおおおおおおおお」
一人暮らしになってから、煙草をベランダで吸い始めた。
窓を開けて、外に出る。
「チッ……クソが……」
安いからという理由で買い始めた手巻き煙草を手に取った。ペーパーとフィルターを用意し、細かくカットされたたばこ葉をベランダのフェンスの上で詰め、最後に糊を舌で舐めた後、巻いて作る。
「……あ?」
もう、暗くなった外を見てみると、街灯の下でうろうろしている女の子の姿があった。大学のすぐ近くだから、学生の通行人は多いけれど、俺は彼女に見覚えがある。
一人で辺りを歩き回っていた少女は、ふと立ち止まり、空を仰いだ。三階のベランダ、柵に寄りかかり煙を燻らす男と目が合う。
「あっ……」
「えっ……雀野?」
雀野栄楽が、俺の家の前でたむろっていた。
「お前……何してんの?」
「え、ちょ、あ、う、え、いや、そのさ……」
真っ赤になった顔を右手で隠し、そうじゃなくて、と左手を忙しなく動かしている。
「その、あの後大学で勉強してたんだけど、ちょ、ちょうど終わって、そういや何してるかなって。なんかさっきさ、随分柄でもないことしちゃったなあって思って、また、話したいなって」
「……次、部室で会ったときとかでいいんじゃないか?」
「煙草吸いながら回答してんじゃないわよ、つか、上から見下ろすな」
「仕方ないだろ、俺の部屋、三階なんだから」
「前宅飲みしたから知ってるし。だからなんとなく来たんだけどさぁ……はー。なんでたまたま出てくるのかね」
「いやあ……まあ……煙草吸うから……」
「そんな見りゃ分かる質問なんてしてないわよ、なんなの?」
「え……ごめんて……」
せっかく会ったので家に上げてお茶くらい出してってもいいが、複数人ならともかく、サシではあまり良くない気がする。
灰皿に煙草を押しつけ、火を消した。
「ちょ、適当にサンダル履いて今そっち出るわ。待ってて」
「えーっ!? ちょ、いいって」
「うるせ」
鍵と財布だけ持って、家を出た。




