73.放っておけない、諦め切れない浪漫が多過ぎる(四)
マーシェが、平らな箱を卓上に出した。
箱の中に、鈍い銀色をした棒状のものが並んでいる。
「これは……印章ですか?」
シファーにも見慣れたものだ。
工房の屋号や、貴族の家紋を意匠化した判子を押す際に使う。
しかし見たところ、この印章はずいぶんと小さくて細い。子供の小指以下である。
あれでは一文字くらいしか入らないのではないだろうか。
「何が刻んであるか見るかい?」
「はい」
マーシェの許可を得て、一つ摘んでみる。
印章の先にある凹凸は、やはりというか見慣れた形――左右が反転しているものの、大陸共通語の最初の文字である。
二つ目も同じ。ただし共通語の二文字目。
シファーは箱に視線を戻した。
「――三十本ありますね。共通語の三十文字が一つずつ刻まれているのですか?」
「そういうこと。これをもっと、たくさん作って並べ替えると色んな文章を書き表せる。で、印章みたいにインクを付けて紙に押す」
「……それはまさか」
彼女にも理解できた。
「そう。たくさんの紙に、同じ文章をいくらでも写し取れるのさ……魔法がなくてもね」
「この小さい一文字の印章を並べ直せば、別の文章にすることもできますね?」
「だね。トールの国では、この活字と印刷で作った色んな書物がいっぱいあって、誰でも普通に買えるものだったらしいよ」
「誰でも……!」
シファーは衝撃を受けた。
「そうさ、凄まじい話だよねえ?」
マーシェも肩をすくめている。
「あたしらも、トールに聞き出すまで全然想像してなかったよ。トールはトールで、その辺まるっきり無頓着だしさ。あんたが来なかったら、今も印刷技術の話は埋もれたまんまだったかもね」
図らずもシファーが押しかけたことがきっかけとなり、明るみに出たのである。
だが……彼女を焚き付けた魔術師マイカは――
シファーの脳裏に、目をきらきらさせて喋り倒す女性の面影が浮かんだ。
『――勇者君の故郷では、ふっつーによくある紙だったみたいだよ。束になってバサーッて出てきたもん。バサーッて。しかも勇者君たら適当に切って使ってて、欲しいって頼んだら簡単にくれたし』
シファーがいた工房のお得意様。
子供のように単純で好奇心旺盛だが、飛び抜けて頭の回転が早い人。
そんなマイカに呼び出され、紙飛行機を見せてもらった時の言葉が思い出される。
『……それでねえ、向こうで勇者君はノートと、キョウカショっていう本で勉強してたんだって。あんな高品質な紙や書物が庶民でもふんだんに使えちゃうってことだよ? 絶対になんかカラクリがあると思うんだぁ』
正直に言えばシファーはその時、生まれて初めて見た素晴らしい紙を観察するのに夢中で、半分ほどしか話を聞いていなかった。
だが、マイカは印刷技術の存在を予測していたのかもしれない。
「マイカ様のおっしゃる通りでしたね……」
「そうなのかい?」
「誰でもふんだんに上質な紙を使っているなら、その裏に何かがあるはずだと」
「ははぁ、なるほどね。これだから頭の良い人は怖いんだよ。一を聞いて十を知るってやつだねえ」
マーシェは参ったとばかりに頭をかく。
「今まで、こういうことはなかったのですか? その、勇者様は隠し事をなさる方には見えませんが」
「なくはなかったさ。でも魔王を倒すって至上命題があったし、ほら例の、勇者の過去を聞かないって不文律もあるだろう? 深入りしなかったって言うかできなかったって言うか」
「あっ、申し訳ありません! 皆様に世界を救っていただいた功績を軽視するつもりは決して!」
もちろん、魔王を討つ以上に大切な使命などありはしない。
ただ惜しいと思ってしまうのは職人ならでは、の未練だろう。
ここまで並外れた技術の知識を放っておけない。
それを切り捨てるなんてとんでもない、という気分である。
誰も気付かなかったのが不思議なのだ。
「ご存知の通り、うちの魔術師は攻撃魔術が専門でね。あと、あいつなりにトールとパーティーのことを考えて、見て見ぬふりしてたみたいでさ。ま、根が面倒くさがりってのもあると思うけど」
「いえいえ、まさか!」
シファーは慌てて首を振った。
魔術師フェニックスの悪口を言ったつもりではなかった。
つい二、三日前――試作した紙で紙飛行機を折ってみようとなった際。
彼が魔力の操作だけで紙飛行機を完成させてしまったのは忘れられない。
マイカとタイプは異なるけれども、フェニックスもまた隔絶した使い手である。
「か、過去のことは置いておきましょう! それで……勇者様の知識の詳細が知られないまま、ここまで来てしまったのですね」
「うん。トールも引退して目立たずひっそり暮らす気だったんで、派手なことしたがらなくってね」
「――ひっそり……?!」
聞き間違いかと思った。
――眼前のマーシェをはじめ、錚々たる面子をこの地へ集結させ。
――数百年は不毛の地のままだと言われていた大地を蘇らせ。
――「白の女王群」や、魔族領から押し寄せた魔物の大群を撃破するという輝かしい戦果を挙げておきながら。
ひっそり?
「うん、本人としてはひっそり。まあ勇者サマにしちゃ地味ってことでいいんじゃないかい? 最近になってからだよ、遠慮しなくなってきたのは」
「謙虚なお方なんですね……」
「自覚がうっすいよねえ。てな訳で、今後もトールをつつくと色んなぶっ飛び技術が出てくると思うのさ。とりあえず、印刷にも使える紙の開発と量産は割と優先順位が上がってる。よろしく頼むよ」
「そんな……わ、私で良いのでしょうか……?!」
マーシェはふいっと眉を上げた。
「シファーは紙漉き職人だろう? 他に誰がいるんだい?」
「ですが私はその、まだ修業中の身で。女ですし……」
「さっき言ったろ、トールは気にしないって。シャダルムだって騎士道精神が服を着た熊になって歩いてるようなやつだ。フェンも魔術師だから、男でも女でも使えればいいって言うに決まってる」
「それはそれで何やら恐ろしいんですが……?!」
口ではそう言ったものの、断れないのは分かっている。
シファーがきっかけだったのだから。
――本当はまだ、少し怖いけれど。
きっと、このためにここに来たのだろうと思えた。
✳︎✳︎✳︎
さらに翌日。
満を持して井戸を掘ることになった。
今までなかったのか、と言われそうだが、実はその通りだ。田んぼの水は魔道具と川から引いている。
勇者屋敷は何しろ常駐している魔法使い二人が規格外で、マーシェやシャダルム、ネイも人並み以上の魔力持ち。
トールも魔力量だけは豊富。
魔法がやや苦手なランも、日常生活に必要な水くらいは問題ない。
つまり〈水生成〉魔法で十二分に賄えていた。
しかし職人達は、ヴァンス以外にも井戸の需要があった。
紙漉きを行うシファー、魔道具の部品の冷却や洗浄に水を使う場合があるコルトとカッソも「あればありがたい」となった。
そこで職人達がまとまって住む一角に井戸を掘り、ついでに排水設備なども整備することになった。
「水が関わるものは、ちゃんと設計しないとマズいっすよ! あふれたり、妙なところに溜まったり臭ったり虫が沸いたりしたらヤバいでしょー!」
そこでコルトがヴァンスやシファーの要望を聞いて図面を引いた。
「まだまだ、これから職人が増える可能性あるっすよね。そーゆーところも計算しといた方が良いっす」
コルトやカッソは魔道具職人であり建築は専門外だが、ダンツ工房では簡単な増改築くらいなら自分達でやっていたそうだ。鼻歌交じりにさらさらと書き上げた。
――そして出来上がった図面がこの日、フェンに手渡されたのである。
「ふん……分かった。問題ねえ、半日も掛からねえよ」
一瞥してフェンは断言した。
実際の工事を請け負うフェンも、従軍中にこの手の作業は飽きるほどやった。最近も勇者屋敷の増改築やら、トールの水田整備やらを手伝っている。専門は攻撃魔術ではあるが、戦が終わった現在では何でも屋に近い。
「地下水脈まで縦穴を掘るだけなら馬鹿でもできるが、勾配を付けるだの何だのはそもそも聖剣に向いてねえぞ」
水は低きに流れる――つまり、わずかでも傾斜を付けて流れていくようにしなければいけない。
川から田んぼに水を引いた時も、トールが大まかに地面を削って水路を造成したものの、細かい部分を手掛けたのはフェンであった。
「酷いなぁ、そりゃフェンみたいには行かないけどさ」
トールもいるが、今回は立ち会い兼、出てきた土砂の回収係である。
工事そのものはフェン一人で十分間に合うので、手は出さないつもりだ。
「んじゃ始めるぜ」
杖を握って、土属性魔術を行使するフェン。
魔術陣が描かれ、光ると同時に地面の一部が粘土のように変わって動き出す。
井戸はトールの感覚で直径一メートル弱。地面は結構硬いのだが、フェンの魔術は問題なくザクザクと掘削していく。
掘り出された土は深くなっていく穴の横に積まれていき、フェンが時々、別の魔術で簡易的に固めてブロック状にする。
トールがそれを空間収納で回収する。あとで近くの空き地に置いてくる予定だ。
「な……なんだか恐ろしい速さで進むッスね……?!」
トールの隣で、コルトが顔を引きつらせていた。
その横にいるカッソ、ヴァンス、シファーも似たような表情である。
「……同時行使だな……四つ、いや五つか……」
カッソは魔力が多く魔法も得意で、フェンの魔術もある程度、見分けがつくようだ。
土を粘土状に軟らかくする術、縦穴を掘る術、削った土砂を地上へ運んでくる術、井戸の内壁を押し固めて硬化させる術。これで四つ。
運び出した土砂をトールが回収しやすいよう固める術も発動しているので、合計五つだという。
「五つ! にわかに信じられません……」
シファーはちょっとぷるぷるしている。
「フェンはだいたい、いつもこんなだよ。人間重機だよなー」
のんびりしたトールの声音は、通常通りであった。
「……ジューキって何すか?」
尋ねたのはコルトである。
「俺の故郷にあった、土木工事用のでっかい道具」
「おお〜、何でも道具っすね〜!」
「魔法がなかったからな。俺からすると、こっちは何でも魔法でスゲーなって思うけどね」
「まー、あんなに何でもできる魔法使い様も珍しいですがね。滅多にお目に掛かれるもんじゃありませんや」
ヴァンスが口を挟む。
「……そういう道具……制御はどういう……ものでしょうか」
ぼそっとつぶやいたのはカッソだ。
「え? 制御?」
「あーアレです。カッソ兄が言いたいのはですね、異世界のでっけー道具はどうやって命令を聞かせてるのかってことです。そいつぁ俺も気になるッス!」
「自動で動くやつもあったけど、基本は人間が操作して使ってたよ。ハンドルを回したりレバーを動かしたりさ。鉄道もそうだな」
「……そこのところを、詳しく」
「そうっすよ! 魔道具でも、複雑な命令を聞かせるのが難しいんすよ! それで結局、魔法使い様を呼んだ方が早えわ〜ってなっちまうッス」
「ええー……それは……どっちかって言うとコンピューターとかプログラミングの問題? 全然知識ないぞ……」
トールは首をひねった。
「俺の父親なら知ってただろうけど。エンジニアって言って、その手の専門家でさ。でも向こうは親の仕事を子供が継がなきゃいけないって決まりはないから、俺も弟子入りとかしてた訳じゃないんだ。ほとんど分っかんない」
と、言ってはみたが。
コルトもカッソも、そう簡単に諦めそうにない目つきになっている。
「……そこを何とか……」
「何でも良いっす!」
またしても無自覚に、勇者は魔道具職人の地雷を踏んだ模様である。
そしてトールは頼み込まれると弱い。
魔王を倒しに行ったのも、元をたどれば頼まれたからだ。
お人好し過ぎると言われても仕方ない。
「えええ……」
しかし今回は魔王と違って、しばき倒せばいいというものでもない。
「とりあえずその、さっき言ってた『こんぴうたー』ってのは何もんっすか」
コルトが言った。
「凄く高性能な計算機……かな?」
大きく間違ってはいないはずだが。
「どーやって計算してるんで?」
「んんー?!……魔法が基本の異世界でコンピューターを説明するって、専門家じゃないし頭が良い訳でもないのにすっげえ難題だぞ……魔王を倒すよりムズいんじゃないか?!」
「うわあ大袈裟っすよ! すんません、勇者様を困らせるつもりじゃあないっす」
コルトの眉が残念そうに、へにょっと下がった。
「悪いな、でもなんか間違ったこと言っちゃっても訂正できないじゃん。責任も取れない」
そう言いつつ、コルト達が悩んでいるなら力になりたいとは思うのだが……
トールはあれこれと日本の記憶を掘り返す。
「あ、そう言えば……」
そしてその昔、父親が言っていたことを思い出した。
「確か……うん、機械は人間と違って二つ以上の数字を数えられないから……突き詰めれば二進法だって言ってたな」
「にしんほう……っすか?」
「数字が0と1しかないってこと」
「へえっ?! じゃあ二や三はどうするんっす?!」
「二は10、三は11。んで四は100で、五は101な。位を上げて対応する」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ?! それが魔道具とどう……」
「んー」
トールは少し考え、指先にほんの一瞬だけスキルを発動する。
ぱちんと青い電火が弾けた。
「俺の故郷だと、コンピューターや複雑な機械を制御するのは主にこの、電気ってやつでさ。電気が通ってる状態が1で、通ってない状態が0。電気の明滅を二進法に置き換えて指令を出す仕組みになってた……と思う」
「…………」
「…………」
コルトとカッソが無言で顔を見合わせる。
「それ……魔力でも同じ仕組みができるってことっすよね……?」
「どうだろ? 俺、魔道具の仕組み知らないんだけど。それこそコルト達が専門じゃないのか?」
「正論……だ、な。今のはコルトが悪い……」
「うー! 分かってるッスよ! 頭が混乱してるんす〜!!」
がりがりとコルトが頭をかきむしる。
「大丈夫かコルト?! セレスト呼ぼうか?」
元凶になった勇者が、見当違いの狼狽え方をした。
「や、平気っす。しっかし、こいつぁ……よっくよく考えねえと」
そろって悩み出してしまうコルトとカッソ。無理もない。
地球で言うところの産業革命を飛び越えて、いきなりIT革命を喰らわされたのだ。
「……やぁれやれ。門外漢のおれでも分かりまさぁ。実現すりゃあ魔道具職人にとって一大革命が起きるってぇのがね」
ヴァンスが顎を撫でながら言い、シファーも無言でこくこくとうなずく。
「――オレがあくせく働いてる間に、ずいぶん面白え話をしてたようだな?」
フェンがすたすた歩いてきた。
「あ、フェン。終わった?」
「ああ。図面通りになってるぜ」
「じゃあ土砂を回収してくるよ」
「ついでに自分がいくつ墓穴を掘ったのか、指折り数えて反省しやがれ」
魔術師は今日も辛辣であった。
「うぐ……聞いてたのかフェン……何げに地獄耳だよな」
「勇者サマほどじゃねえよ、〈遠耳〉含めて常時発動の魔術が三つ四つある程度だ……ガタガタ抜かしてねえで行って来い」
フェンは、聞いていた職人達が青くなるようなセリフを言い放ち、トールを蹴り出す勢いで追い払った。
大人しく追い払われたトールの背中が小さくなったところで――と言っても勇者は真の地獄耳なので、ばっちり聞こえているはずだが気分の問題だ――コルトとカッソへ向き直る。
「……で? 魔道具界隈に激震が走りそうだってことで良いんだな?」
「……検証してみないと、分からないですが……恐らく」
カッソが珍しく、重い口を開いた。
「ちっ、また息するように常識を破壊しやがったなトールめ……分かった。マーシェにはオレから言っとく」
「……うちの者が、失礼しました」
太い首を曲げ、カッソが頭を下げる。
「馬鹿勇者の自業自得だ。気にすんな」
フェンがひらひらと手を振ったところで――
「馬鹿の自業自得ってなんだよー」
回収を終えたトールが戻ってくる。
「自分から仕事を増やす馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。ちょうど今、セレストから〈伝書〉だ。ジョーの部下がガッコウの詳細を聞きたいって押し掛けてきたらしいぜ」
フェンが杖を持ち上げて〈伝書〉の文字列を目の前に出してみせた。
「あー、学校の話か、それもあったな……」
ジョーはどうやら、本気でイナサに学校を作るつもりであるらしい。
と、なればまたもトールの異世界知識の出番である。
「追い返してもいいと思うぜ?」
「せっかく聞きに来てくれたのに悪いだろ! いいよ、話をするくらい。俺が日本で勉強したり、誰かに聞いたりしたことがさ、無駄にならないで済む」
甘い奴だ、と言いたそうにフェンは肩を揺らしたが。
「……じゃあ、とっとと帰るぞ」
口に出したのは、それだけだ。
「了解。みんな、井戸は使ってみて万一、問題があれば言ってくれよな。フェンがやったんだし大丈夫だとは思うけど」
トールは暢気に言って、フェンを引き連れて屋敷へ戻っていく。
――恐らくイナサからの客人も、これから異世界のぶっちぎりな知識を披露されて魂消る羽目になるのであろう。
「……ほんと、とんでもねえところだわなァ。勇者様のお膝元はよ」
ヴァンスが長い溜息をつき、おもむろに腕まくりをした。
「まあ、ここまで準備していただいて、結果を出さン訳にゃいかねえ。早速、酒の仕込みに入るぜ! シファー、あんたも井戸水の水質を確認しといてくれや」
「は、はい! もちろんです!」
「うっし、気合を入れ直すっスよ。俺とカッソ兄で排水路の不備がないか見ておくっす」
「……任せておけ……」
職人達はそれぞれの目的に向かって動き出した。
――勇者トールの元へ集った数多くの職人達。
その中でも特に先見の明に優れた彼等が最初の四人と呼ばれるようになるのは、そう遠い話ではない。




