6.一粒の愛、情熱の万倍
古くから人族が住まってきた大陸、ラグリス。
その中でもラクサ王国が特別な地位を築いているのは、何と言っても大陸で唯一、勇者召喚を可能としているためだ。
では、なぜラクサだけなのか――。
王都ラクサミレスから北へ、馬車で数日。
王家が所有する古代遺跡の中に、その答えがあった。
遺跡の名は知られていない。ただ「青の城」と呼ばれる。実際の城……貴人の住まいや要塞とは異なる構造だが、壮麗な外観からこの名があった。
石に似ているが全く異なる、青みがかった素材でできた建物で、奥まった一角には、謁見の場を思わせる広間がある。
だが、そこに在るのは玉座ではなく、一基の魔術装置であった。
これも青色で透明な、謎めいた素材でできている。中央部には巨大な水晶に似た、透き通った柱が十二本、床から天井まで貫いてそそり立つ。柱に囲まれて円形の台座があり、その表面には複雑な紋様が刻まれている。
水晶柱の内部には、ちらちらと小さな星、あるいは蛍のように瞬く光の粒がいくつも浮かび、ゆっくりと不規則に動いているが、その意味を読み解ける者は居ない。
この不可思議な構造物こそ、異世界召喚を行える魔術装置なのだった。
この魔術装置が、ここにしか無い。
言ってみれば、ただそれだけのことだ。
だが、ラクサ王国以外に、この装置を扱える国が存在しないのも事実だ。ラグリス文明の後継たる魔術国家だからこそ、多額の予算を投じて優秀な魔術師を多数養成し、「青の城」の維持管理と研究を続けることができる。
「しかし、再び生きてこの装置を動かせるとは……さすがに思っていませんでしたね」
水底のような景色の中で、ロジオンはつぶやいた。
異世界からの勇者召喚は、およそ二百年に一度。
いくらロジオンが長命でも、次の機会は無かったはずだった。
当代の勇者トールが種籾を召喚したい、と言ったために、あり得ない状況が生まれたのだ。
ロジオンは魔術師として、この機会を最大限に活かすつもりであった。
「フェン、準備は終わりましたか?」
フェニックスことフェンは、赤毛が逆立ちそうな勢いで辺りを駆けずり回っている。前回は参加していなかったが「後学のためにやってみなさい」というロジオンの一声で、召喚の取り仕切り役を担うことになったのだ。
装置の周り、水晶柱の前に一人ずつ魔術師を配置するのだが、魔力量や得意属性によって細かな調整を施さなければならない。ロジオンやフェン自身を含めた十二人のバランスを整えるのは中々に難題で、フェンは汗だくになっている。
「……後は師団長とオレの配置だけだと思います」
フェンは額の汗をぬぐいながら、そう答えた。
「承知しました。では君も位置について、少し息を整えなさい」
「了解です」
いつもはふざけ合いの多い師弟だが、こと魔術に関しては真剣だ。フェンも今日ばかりは軽口をたたくことなく、自らが担当する水晶柱の前に立った。
「では、試しに魔力を流してみましょう。総員、ごく弱く出力してください」
ロジオンのかけ声で、魔術師達が一斉に、柱へと手をかざす。
魔力は肉眼で見ることはできないが、彼らの前にある柱がほのかに光り始めた。ロジオンは自分も魔力を流しながら、目を細めて部下達の様子を観察している。
「三番、四番、少し強過ぎます。絞りなさい。八番、乱れていますよ。十番はそのまま維持を」
短くも的確な指示が飛び、魔術師達はそれぞれ魔力を調節した。やがて水晶柱の明滅が揃い、同時に円形の台座もうっすらと輝きだす。
「良いでしょう。一時停止を」
ロジオンが再び声をかけ、魔力の放出を止めた。
フェンをはじめ、ロジオン以外の全員が大きく息をつく。へたり込むような軟弱者は居ないが、体力よりも神経を削られる作業であった。
ロジオンだけは涼しい顔で、いくらか休憩するよう指示した後、円形台座に上って本番の準備を進めている。
まず小さな盆を台座の真ん中へ載せ、ぐらついたり傾いたりしないようにぴったりと置く。それから、ローブのポケットから取り出した物を盆の上へ並べる。
一つは魔力を通しやすい薄布でできた袋で、中にはトールに切ってもらった髪が一房入っている。
もう一つは、この世界にはまだ無い、白くて薄くて、つるつるした紙……トールいわく「ルーズリーフのノート」を折り畳んで作った手紙であった。
(この手紙は苦労しましたねぇ……)
ロジオンは唇の端に苦笑を浮かべた。
元の世界に居る家族へ手紙を書くよう勧めた時、トールはかなり渋った。
家族を嫌っているからではなく、その逆の理由だ。
トールの故郷では、魔法はおとぎ話にしか登場しない空想の産物なのだそうだ。魔法がある異世界に召喚された、などと言ったら頭がおかしくなったと思われる。家族に余計な気苦労をさせてしまうと考えたらしい。
(普通の親ならば、どんな手紙でも欲しいものだと思いますが)
が、親子というのは複雑なもの。人生経験豊富なロジオンは、そこは触れずに「種籾召喚の成功率を上げるため」だと言い通し、ついに手紙を書かせることに成功した。
(別に、嘘をついてはいませんよ?)
異世界召喚というのは、真っ暗な夜の海を航海するのに似ている。何かしらの道標がなければ、目的を果たす前に魔力が尽きてしまうだろう。
勇者召喚の際は「魔王を倒す強き力を宿す者」という条件で、最も高い素質がある者を連れてくる仕組みだ。
そして今回はトールの髪に含まれる血縁の情報、そして故郷と家族への愛、稲作をしたいという「想い」を辿ることで、日本へと召喚魔術を飛ばすという目論みであった。
出来上がった手紙は、ロジオンも知らぬ文字「ニホンゴ」で書かれており、内容は分からない。この手紙をトールの家族が読んだとして、どう思うのかも……。
(分かっていますよ。これは私の――我々の自己満足に過ぎないと)
苦い思いを、いつもの笑顔の下へ押し込めてロジオンは立ち上がり、部下達に休憩の終わりを告げた。
「――君達も知っての通り、今回は勇者召喚ほどの膨大な魔力を必要としません。それゆえに、フェニックスをはじめ術者の半数を入れ替えています。これは私が魔術師団長として、より多くの魔術師に貴重な経験をしてほしいと考えたからです」
ロジオンが改めて説明を始めた。
「本番では、先程と比べ物にならない魔力を吸われますが、一定の出力を保ってください。計算上、魔力切れにはならないはずですが、もし枯渇する者が出た場合は中止します。ですが」
ロジオンは一度、言葉を切り、強い眼差しで部下達を見渡した。
「トール君……当代勇者が与えてくれた無二の機会です。くれぐれも無駄にせぬよう、皆の力に期待していますよ。――では、始めます」
魔術師達は一斉に魔力を注ぐ。水晶柱は強く明滅し、やがて円形台座も輝き、目を開けていられないほど、まばゆく光る。
どこからともなく、キィ――ンと甲高い音が響いた。
そして――。
✳︎✳︎✳︎
「――それで、どうなったんだ?」
トールは身を乗り出して尋ねた。
王都にあるトールの屋敷――辺境伯に必要だからと、王国側が用意してくれていた――その応接間でのことである。
屋敷は、トールの感覚からすると我が家と言うには馬鹿でかくて豪華過ぎる。が、せっかくもらったものにケチをつけにくい庶民根性が出てしまい、屋敷の主なのに、借りてきた猫のように小さくなって暮らしているのだ。
重厚な内装の応接間で、トールの向かいに座っているのはフェンだった。何故か、かなり不機嫌な顔をしている。
「――そうだな、順番に言っていくか。まず魔術師が二人、魔力切れでぶっ倒れた」
「えっ」
「こら待て、なんて顔しやがる。また分かりやすく落ち込むんじゃねえ」
「や、でも魔力切れの人が出たってことは中止だったんだよな?」
「そこがそうじゃねえから、オレがわざわざオハナシしに来てんだよ。最後まで聞け」
「焦らしプレイかよ……」
「あ? なんか言ったか?」
「何でもないです……続けてくれ」
フェンが今にも火花を出しそうな目つきをしているので、トールはとりあえず話の先を促した。
「じゃあ続きな。二人が脱落した訳だが、その時点で召喚はかなりイイトコまで行ってたんだ」
「おお」
「んでロジオン師団長が、いきなり二人の魔力を肩代わりして続行しやがった」
「へっ……できるのか?そんなこと」
「普通できねえ。オレも今回初めてやったが、冗談抜きで魔力を根こそぎ持っていかれるんだ。それを三人分だぞ? やっぱ化けもんだよ、あの若造りジジイ」
相変わらず口が悪いフェンである。
「そ、それで?!」
「ああ。召喚は成功した」
「おお……!」
「だが、師団長が倒れた」
「ええっ!?」
「魔力切れでふらついて、コケたせいでギックリ腰になりやがった。二十年ぶりだとよ」
「情報量が多過ぎる」
「かついで帰るの大変だったんだぞ?」
「それはその……悪かった……」
種籾召喚などという無茶を言った自覚はあるので、トールは素直に謝った。
フェンはフンッと鼻息を吹き、ローブのポケットから手のひらサイズの小箱を取り出す。
「開けてみろ」
「ああ」
ごくりと唾を飲み込んで、トールは小箱の蓋に手をかけた。
もしも、稲の種子ではなかったらどうしようかと思ったが、女神はそこまで意地悪ではなかったようだ。
中には黄金色に輝いて見える、懐かしい種籾が入っていた。
「やった……!」
トールはまぶしくも爽やかな笑顔でフェンを見る。
「これだ!これだよフェン!!マジでありがとう!」
「お、おう。良かったな……」
やや腰がひけるフェン。
「どうしよう俺、魔王を倒した時より嬉しいかもしれない!」
「やめろ、とんでもねぇもんと比較すんな! とにかく落ち着け」
「だってホラ種籾だぞ? 稲作できるんだぞ? やばいだろこれ!」
「やべーのはお前だ! いいかトール、セレストの『清心』魔法かオレの特大火力か、今すぐどっちか選びやがれ」
ぶわっ、とトールの顔に熱風が吹き付けた。言うまでもなくフェンが発した怒りの魔力波動である。
火属性を得意とするフェンは、文字通りの意味で「熱い男」なのであった。
「あ、うん。少し待ってくれ。屋敷が炎上とかシャレにならないし」
熱気を浴びたはずが、逆にトールの頭が冷える。
フェンが本気になれば、この広大な屋敷を灰にすることも可能だからだ。
もっともフェンがそんな非常識な行動をするはずはないが。勇者は魔法防御力も優れているので、トール自身は衣服が焦げる程度であろう。
トールはさらに、口を付けずに冷めていた茶を飲み干して「ふう」と溜息をつく。
種籾を見るとまたどきどきしてしまいそうだったため、そっと小箱の蓋を閉めた。
「すまない。ちょっと取り乱した」
「ちょっとじゃねえだろ。まあいい、見ての通り召喚はできたが、分量はこれだけだ」
「うん。だけど元々、一粒でも充分だと思ってたからさ」
トールは横目で小箱を見た。
「ヒポネス遺跡へ増やしに行くんだったな?」
フェンが尋ねた。
「ああ。そのつもり」
「オレも行くぜ」
「いいのか?」
「師団長の命令でな。せっかくだから、あっちの魔術装置もよく観察して来いだとさ。ベッドから動けねえもんで退屈らしい」
「そっか。フェンも来てくれるなら安心だな。よろしく頼むよ」
「おう。日程が決まったら教えてくれ」
「了解」
フェンは帰っていったが、トールが大変だったのはそこからだった。
屋敷の使用人らにも手伝ってもらい、種籾が何粒あるか数える。結果は、九百九十……およそ千と言ってよいだろう。
「えーと、最初だし田んぼは10アールくらいにしようと思ってるから、苗は25箱、いや疎植にすればもうちょい少なめで行けるかな?田植え機ないから手植えだし。じゃあ必要な種籾の量は……」
計算を繰り返すトールだが、祖父に教わった記憶を頼りにやっている上、計量単位が全く違うので難しい。
当たり前のことながら、この世界の単位はグラムやメートルではない。基本的にラグリス文明で使われていた単位が引き継がれているが、国や地域によって違う場合もあってややこしい。
「じいちゃんも一反とか一俵とか、そういう言い方してたもんな。欧米だとエーカーやポンドだったっけ?」
唸りながら計算式を書いていく。電卓ももちろん無いので、これも手書きだ。
「多分だけど、だいたい13万粒?百三十倍か。ヒポネスの装置って、最大で何倍増殖だったかなぁ」
トールは真っ黒になった計算用紙を眺めた。
「本当に一粒万倍やるよりは、だいぶマシだけど」
かなり気合を入れていく必要がありそうだ。
トールは異世界で農業革命を起こそうだとか、そういう大それたことは考えていない。まず自分が食べる分くらい取れればいい、という気持ちだ。
それでも結構大変なのだが。
「……やりがいがあるな!」
勇者のやる気は増す一方である。
✳︎✳︎✳︎
ヒポネス遺跡は忘れられた存在だった。
王国南部の小さな集落、ヒポネス村からやや離れた山中にある。
遺跡と言っても小規模なもので、財宝も見当たらず、うまみが無いので長年放置されていた。
だが、人目が届かない場所ゆえに、かつてラクサで暗躍する魔族の根城になっていたことがあったのだ。
トール達、勇者パーティーは魔族を追ってヒポネス遺跡にたどり着き、潜んでいた魔族と戦闘になり……そしてトールが放った聖剣イクスカリバーの一撃で床が抜け、地下へ続く抜け穴が出現した。
そこで初めて、地上にあったのは遺跡のごく一部であり、地下に広大な未踏破部分が隠れていたことが分かったのだ。
逃げた魔族を追ってトール達も地下遺跡を探索し、最深部で一基の魔術装置を発見する。
その機能は「無限複製」――装置に入れた物品をいくらでもコピーして増やすというものだった。
まさしく夢のような装置であったが――。
魔族の討伐後に王国から調査団が派遣され、得られた結論は……
「性能が尖り過ぎていて使えない」
というものであった。
まず、複製できる物のサイズが最大で成人男性の握り拳程度しかなく、大きな物は装置に入らない。
また、動かすのに恐ろしく魔力を消費する。「異世界召喚」よりはましだが、並の魔法使いでは起動すら厳しいレベルだ。
さらに最大の欠点は、複製した物に魔力が無いことだった。これは、魔力が基本のこの世界では致命的である。
貴金属や宝石類でも、珍重されるのは魔力を含んでいる物だ。魔力が無い複製品を大量に作っても、ほとんど価値が出ない。
他の問題もあった。
地下遺跡の内部は、暗くてじめじめした場所を好むスライムが多く生息していたのだ。
スライムは魔法でないと倒せず、武器防具を腐蝕させてしまう上に素材も取れないので、冒険者に嫌われる厄介な魔物の筆頭であった。
もっとも、
「もし制約無しに完璧な複製が無限にできる、となったら王国どころか、大陸全土の経済が崩壊するであろう。欠点の多い装置でむしろ助かった」
というのが、ラクサ宰相オルトラの弁であった。
そんな訳でヒポネス遺跡は、一通りの調査が行われた後に閉鎖された。場所が田舎の小村ということもあり、オルトラや国王ネマトの意向で、魔術装置の詳細は箝口令が敷かれ、発見者である勇者パーティーの他は、魔術師団長ロジオンらを含む王国上層部だけの機密となったのである。
役立たずとされた魔術装置。
だが、増やすのが異世界召喚した稲の種子、種籾ならば話は違う。
小さいので、装置に入れるのは問題ない。
勇者の豊富な魔力で、装置の稼働もできる。
種籾はもともと魔力が無いのだから、複製に魔力がなくても当然である。
さらにトールの愛剣はイクスカリバーであるから、スライムを攻撃しても腐蝕どころか刃こぼれ一つしないのだ。
「ほんと、俺のためにあるような遺跡だよな。女神様ありがとうって感じ」
聖剣イクスカリバーを一振りして鞘に収め、トールは白い歯を見せて笑った。
「そんなことで至高神を引き合いに出すんじゃねぇよ」
ぶちぶち言いながらもついていくのは、魔術で作った明かりの球を浮かばせているフェンである。
セレストは今回、ルリヤ神殿で行われる祭祀に参加するそうで、珍しく不在だ。トールとフェン、男二人の探索行となっている。
前衛のトール、魔術で支援するフェンの組み合わせで、探索は問題なく進んでいた。
「トール、左奥の通路から来るぞ」
魔術による索敵も行っているフェンが警告する。
地下遺跡は迷路状になっていた。天井、壁、床ともに、石に似た素材でできており、うっすら光る苔のようなものが生えている。だが明かりはなく、かなり暗い。
フェンの操作で魔術光球が前方へ泳いでゆき、どろりとしたスライムの姿が見えた。
不定形のゲル状の身体が、ぶよぶよと震えている。
「結構デカいな」
通常のスライムは、大人の膝くらいの大きさだが、この個体はトールの肩ほどまである。
トールは小走りに接近し、イクスカリバーで斬り付けた。じゅうっという音とともにスライムの身体の一部が溶けて蒸発する。
だが、倒すには至らない。スライムは身体の奥にある核がある限り動き続ける。 ゲル部分を攻撃し、ある程度削り取った上で、コアを破壊しなければならない。
スライムの身体が大きいと、削るのも手間がかかる。トールはスライムに呑み込まれないよう立ち位置を変えながら、小刻みに攻撃を当てていった。
「あー、早く農作業がしたい」
勇者にとって、スライムは面倒ではあるが強敵とは言えない。こんな台詞を吐く余裕すらある。
「妙なことを抜かすんじゃねえ。〈炎弾〉が行くぜ」
フェンの指先にぽつりと紅い光が生じ、見る見る拳大の球体を形作った。高温の炎を凝縮して放つ魔術である。フェンが指を弾くとレーザーのように高速で〈炎弾〉が飛び、スライムの身体と、その真ん中にあるコアをたやすく貫通した。
もうもうと白煙が立ち上り、巨体だったはずのスライムがあっけなく消滅する。
「おー、さすが一撃」
「当たり前だ。素材も取れねえし、とっとと進むぞ」
あちこちで蠢いているスライムを掃除しながら、二人は遺跡の奥へ向かった。
「やっと着いたようだな」
「ああ。マーシェに地図をもらっといて良かったよ」
ニ刻(一時間)ほどかけて、二人は目的地にたどり着いていた。
以前、遺跡に入った際は、逃走する魔族を追いかけて随分回り道をしている。今回は、何事もそつのないマーシェが作ってあった地図を頼りに、真っ直ぐ魔術装置を目指した形だ。
「起動するぞ」
フェンが装置の中核――円形台座の縁に触れ、魔力を注ぐ。
どこからかキィンと音がして、辺りが明るくなった。光源ははっきりせず、壁や天井が柔らかく光っている印象だ。
ヒポネスの魔術装置は、「青の城」とは違って地味な見た目をしている。全体はベージュ色で、磨りガラスのような半透明の素材で構成されていた。
水晶柱はなく、円形台座の真ん中にあるくぼみへコピー元の物品を入れ、直接魔力を流し込むシンプルな造りだ。
「魔術装置の中でも、かなり初期のタイプなのかもな。やり口が原始的っつーか」
フェンはまぶしいのか、少し目を細めた。
「トール。そのタネモミとかいう種子を設置してくれ。オレは装置に異常がねえか調べとく」
「了解」
トールは円形台座に乗り、中心のくぼみへ進んだ。
「袋かなんかに入れておけよ。あんな細けぇもん拾い集めるのは面倒だからな」
「確かに」
トールはポケットから布袋を出し、種籾を箱から移し替えてくぼみに入れた。
「こんなものかな?」
「よし、魔力を流すぞ。トールも手伝え」
二人で円形台座の前に立ち、手のひらを押し当てる。
「こいつは異世界召喚と違って、細かい調整は必要なかったはずだ。取り込んだ魔力の強さに応じて複製していく単純な仕組みだな。とりあえずテストするぞ」
トールはうなずき、フェンに合わせて魔力を放出した。
魔力の無い地球の言葉では表現しがたい感覚が、身体を通り抜けていく。
魔術装置が再び、キィィンと甲高い音を発し――円形台座が閃光に包まれる。
「複製はできたみてぇだが、思ったより少ないな……」
現れた複製は三つだけであった。
フェンが渋い表情をつくる。
「おい、トール。どのくらい増やす計算なんだ?」
「えーと。百三十倍」
「正気か……?」
「残念ながら、俺に精神系の魔法はほとんど効かないよ……」
「お前を燃やせば済むなら楽なんだが。そうか、マジか……」
勇者と魔術師はしばらく黙り込んでいた。
だが、ややあってトールが顔を上げる。
「さっきは試しに軽くやったから、複製も少ないんじゃないか?次は、思いっきり魔力を入れてみたらどうかな」
「しゃあねえ、やってみるか」
二人はもう一度、魔術装置に向き合った。
「最大火力のつもりで行くぜ」
フェンの全身から、ゆらりと熱気が立ち上った。
「魔王に使ってた技と同じくらいってことか」
地面を豆腐のように切り刻んだ大規模魔術を思い出し、トールも久々に本気の顔つきになる。
「じゃあ俺も、魔王を倒した最終奥義くらいの感じで――」
――ここに常識人のセレストか、マーシェが居れば止めたであろう。
もう少し様子を見て出力を上げていけば良かったのだ。
しかし、この場に居るのは手加減の苦手な異世界人の勇者と、短気で火力重視の魔術師だけ。
二人は魔術装置に手を添えて、各々の全力で魔力を叩き込む。
「骨まで熱くしてやらぁ!」
「死んだじいちゃんとの約束なんだッ!」
意味もなく暑苦しい台詞を叫ぶ二人。
魔術装置が、悲鳴を思わせる残響とともに稼働する。
閃光が生まれ、遺跡の最深部を白く染め上げ――。
その結果。
「……誰だよ、全力とか言いやがった馬鹿は」
「……フェンだって最大火力って言ってたじゃないか」
「畜生、いつかこのアホを消し炭にする魔術を開発してやる」
二人は動けなくなっていた。
――大量に増殖された種籾の袋に埋もれて。
ヒポネスの魔術装置は「もう無理」とでも言いたげに、完全に沈黙していた。
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