2.王と宰相、そして愛娘へと
ラグリス大陸で唯一、勇者召喚を可能とする国――ラクサ王国。
その三十七代目国王、ネマト六世は困惑の最中にあった。
「農業をしたいだと?」
「は。面妖なことですが、間違いではないようです」
王の前に控える男――宰相オルトラが肯定する。
王は眉をしかめながら報告書を読み進めていたが、やがてバサリと机の上へ投げ出した。
ネマトは自らを平凡な王であると思っていた。賢君ではないが暗愚でもない、そこそこの君主である、と。
だが、そのネマトをして全く理解できない内容が、報告書には書き連ねてあったのだ。
ひょっとしたら余は途轍もなく頭が悪いのか――そう思ってしまうくらいに。
「しかも人を使ってやらせるのではなく、自ら土を触るとあるが」
「勇者殿は農業魔法〈マギ・カルチュア〉を使えぬはずなのですがなぁ」
「ううむ。何から何まで余には理解できぬ」
「小生も左様です。聖女セレストも説得を試みたものの、勇者殿の決意は固く、翻意させることはできなかったとありますな」
「……勇者殿にとって、農業というのはそこまで尊い職なのか? 異世界のことは分からぬが」
勇者トールが異世界人であり、こちらの常識という常識が通じないことはネマトも知っている。
……知っているつもりではあるのだが、いまだに精神的な衝撃を受けることも珍しくない。
「はっきりとはしませぬが、その可能性はあるやも知れませんな。何でも勇者殿の祖国では、君主である皇帝も自らイナサクとやら言う農業を行うのだとか」
「皇帝たる身分の者がな……にわかには信じられぬが」
「どうも皇帝と言っても、我らの理解で言えばアプロードス聖王国の『聖王』のような、祭司を主とする者のようですな。国政は聖王国の枢機卿や、我が国でいう宰相に当たる者達が担っており、皇帝が直接関わることはないそうです」
「では皇帝がイナサクを行うのも、豊作を祈る儀式のようなものか」
「恐らくは。それに『あいどる』なる者も、イナサクをはじめとする農業を行うことで、民からの人気を得ているという話もありましたな」
ネマトの眉間の皺が深くなる。
「何やつだ、その『あいどる』とやらは」
「は。何でも見目の良い者達で構成され、歌や踊りで民の心を慰撫する劇団のような存在だとか」
「……それがなぜ農業をするのだ? 歌や踊りをしておればよいのではないのか」
「さて……」
切れ者と名高い宰相オルトラも、こんな専門外の件については無力である。
かくして王の執務室では、ただの中年男と化してしまった王と宰相が、二人して首をかしげる事態になるのであった。
――勇者に、召喚される前の過去を尋ねてはならない。
これはラクサ王国の古来からの取り決めである。勇者が自発的に、あるいは世間話程度に話すのは良いが、勇者が嫌がった場合はもう訊いてはいけない。
勇者を元の世界に戻せない以上、いわゆる里心がつかないようにという配慮である。
魔王を倒すだけの力を持つ勇者はすなわち、もしも悪意を抱けば、魔王を超える脅威にもなり得る者だ。
トール自身が気付いているかは不明だが、彼は農業云々がなくても、取り扱い要注意人物なのである。
ゆえにセレストら勇者パーティーの仲間達にせよ、王と宰相にせよ、トールが暮らしていた元の世界……地球・日本については、彼本人が語ったごく断片的な情報しか持っていないのだった。
「……まあ、それはよい。問題は、勇者殿の希望をどう叶えるかということだ。そうであろう、オルトラよ?」
ややあって、気を取り直したネマトが言った。
「御意。今の我らには、勇者殿が元の世界に戻りたいという願いを退けてしまった負い目がございます。その次の願いは、万難を排して実現すべきところでありましょう。突拍子もない願いではあるものの、農業のできる土地を与えること自体は、さして難しくはありませぬ」
「そうだな、先代勇者の逸話のように後宮を建設し、国内外の美女をかき集めるよりは簡単と言える」
「ハハ、まさしく左様ですな。国の予算としても助かります」
王と宰相は低い声で笑い合う。
「後は、あの我が儘娘を何とかせねばならんか」
ネマトはふっと息をつき、オルトラも僅かに苦笑を浮かべた。
「リディア様と勇者殿のご婚約はどうなさいますか」
「どうもこうもあるまい」
広げたままの報告書を、ネマトはトントンと指で叩く。
「勇者殿は後宮も王位も要らぬ、わずらわしいと言ったそうだからな。我が娘を娶り、王族になるつもりも無いであろうよ」
王は、トールが魔王討伐を成した際は、自分の娘である第四王女リディアを降嫁させ、王族に迎えるつもりだった。
だがトールが地位も名誉も興味が無いのなら、勇者である彼に無理強いはできない。
「ではリディア様は?」
「別に嫁がせることになるだろう。聞き分けてくれればよいが」
ネマトの顔に、父としての表情がよぎった。しかしそれは一瞬で、すぐさま王としての冷静さが戻る。
「まあ、嫌ならば色仕掛けでも何でも、勇者殿を引き止めろと言っておくか。案外、うまく転がるかもしれん」
「陛下。僭越ながら、リディア様に嫌われてしまうのではありませんかな」
「ふん、今更であろうよ。あの年頃の娘だぞ? 野良犬より汚らしい物を見る目で、始終にらまれておるわ」
冗談半分に言いながら、ネマトは椅子に座り直した。
「全く、昔から『魔王の次は勇者』などと言われているのは、実にその通りだな。面倒な時代に即位したものよ」
王の軽口に対し、
「それもまた、至高なる女神の采配なのでは?」
宰相の返答もまた、この男には珍しい軽口であった。
米の名は…「まなむすめ」(宮城県)
「ひとめぼれ」と同等の良食味、耐冷性を備え、いもち病抵抗性も持つ。