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18.祝え、星の子等の再会を

 イナサーク辺境伯領に、代官がやってくる。


 フェンを経由した王国からの〈伝書〉で、トールはその知らせを受け取った。


「別に良いけど。決まるのはもっと先って話じゃなかったか?」


 朝食を終えたトールは、茶を飲みながら尋ねた。


 魔王軍を退けた今、多くの領地が戦後復興のただ中にある。王国そのものも人手不足に陥っており、いわゆるお役所仕事がなかなか進まない。

 代官のなり手を探すのも一苦労で、しばらくは居ないものと思ってほしい。


 ーーそういう説明を受けたはずだが。


「どうも風向きが変わったみてえだな」

「貴族の間で何かあったのでしょうね。あまり縁がなくて分かりませんけれど」

「…………」


 自覚の薄いフェンとセレストの横で、シャダルムが難しい顔をして沈黙している。


「シャダルム、どうしたんだ。眉間にしわができてるぞ」

「うむ……私は伯爵家の出でも次男だからな……騎士団所属だし、華やかな社交界には馴染みがないのだが……」


 それでも何となく、彼が思うことは。


「……この領地の非常識さが、段々と隠し切れなくなっているのではないか……?」


 そんな気がしてならないという。


 貴族というのは噂話が好きだ。イナサーク辺境伯領は領民が存在せず、近隣の領地との交流も最低限だが、特に情報通を名乗るような貴族は搦手(からめて)も含めて、さまざまな手段を使うものである。


「むしろ限定的な情報しか出回らないために……余計に噂が膨らんでいる可能性すらある……」

「うーん、隠してるつもりもないんだけどな……あれ?」


 トールはふと窓の外を見た。


「誰か来たみたいだ」


 勇者は、視覚聴覚とも強化されている。仲間うちで一番の地獄耳はトールなのだ。


「何だよ、最近は客が多いな」

「……三騎だな……足が速い。乗っている人間は三人。体重は軽い……」


 騎士であるシャダルムが次に気付き、近付いてくる足音から判断する。


「代官さんが来るには早過ぎるよな?」

「〈伝書〉が今朝だからな。さすがに違うはずだが。そもそも代官なら三人どころか、もっとゾロゾロ引き連れてきそうなもんだ」

「いずれにせよ、出迎えた方が良いですね」


 セレストが杖を手に取った。


 四人で屋敷を出て、客人を待ち受ける。

 最初に相手を視認したのは、やはりトールであった。


「マーシェがいる。でも後ろの二人は知らない顔だ」


 彼女なら少なくとも敵ではないだろう。そう判断し、少しだけ肩の力を抜くトール。仲間達も同様だ。 

 マーシェも弓使いで目は良い。トール達を見つけたのか、気軽な感じで手を振ってきた。


「後ろの人は何だろうな。冒険者の後輩かな? 敵意は感じないけど」


 後続はローブをかぶっていて分かりにくいが、恐らく若い男女。セレストより年下のようで、少年少女と言ってもいい。マーシェほど余裕はなく、疾走する馬を必死に操っているのが見て取れる。


「こないだの土産をここで使ってるな、ありゃ」


 フェンが呆れた口調で言う。


 以前にマーシェが滞在し帰還する時、セレストとフェンは土産……と言っていいのか、馬の身体能力向上や高速移動に役立つマジックアイテムをいくつか渡していた。

 マーシェはそれを帰路で使わずに取っておき、今回の騎馬行で投入したらしい。


「いつ使うのもマーシェの自由ですけれど、よほど急いでいるのでしょうか」


 三騎は瞬く間に接近し、マーシェが速度を落とし始めた。


 ーーが。


「と、と、止まれませぇぇん! マーシェさぁぁん?!」

「うわぁあぁ?! 助けてぇぇ!」


 何やら、そんな悲鳴が風に乗って聞こえてきた。


「……使いどころは、もうちょっと考えてほしかったですね」

「あいつら何やってんだかな……」


 マーシェを追い越し、爆走してくる二騎を見て、魔法使い達が杖を持ち直した。


「…………」

「フェンとセレストがやり過ぎたんじゃないのか、あのお土産……っと!」


 シャダルムが無言で走り出し、トールが続く。

 熊騎士は道の真ん中で仁王立ちすると、口に指を当てて鋭く吹き鳴らした。


 ピィーーッと指笛が響き、同時に彼のスキルが正しく発動する。「ゼータの恩恵」は、こういう使い方もあるのだ。

 馬達の速度が、がくんと落ちた。だが、まだ足りない。シャダルムは再び走り、一頭とすれ違いざまに手綱を掴んで、ぶわりと鞍の後ろへ飛び乗った。

 曲芸師のような動きである。

 同時にトールも、もう一頭に駆け寄って飛び移り、手綱を握っている。


「ひぇえええ?!」

「わぁーーッ?!」


 少年と少女が再び絶叫する。

 普通なら飛び乗るどころか振り落とされるが、この二人は最強の勇者と騎士である。元々の乗り手が小柄なこともあり、シャダルムとトールはそれぞれ彼等を抱えるようにして、どうにか二人乗りで馬の制御を始めた。

 と言っても、馬は急に止まれない。ひとまず走る方向を変えさせ、屋敷の前をぐるぐると走らせる。


 風が緩く吹いた。


 セレストとフェンがそれぞれ、マジックアイテムの効果を解除したようだ。


「よーし、よし! 良い子だ、散歩は終わりだ! 止まるんだ!」


 シャダルムも馬が相手だからか、ちゃんと喋っている。

 もう何周かして、ようやく二頭は停止した。

 シャダルムとトールはひょいと飛び降りる。

 その後から本来の乗り手二人が、半分ずり落ちるように下馬した。


「い、い、生きてるのか僕達……?!」

「おおお兄ちゃん、私、足がぷるぷるして動けないよ……」


 地面にうずくまっている少年と少女は、よく見ると同じ茶色の髪をしており、顔立ちも似ているので兄妹であるらしい。


「えーと、二人とも大丈夫か?」


 シャダルムがまた黙ってしまったため、トールが声を掛ける。


「す、すみません! 勇者様がたに助けていただくなんて?!」

「ももも、申し訳ありませぇん!」


 土下座しそうな勢いで二人が謝っている。


「謝らないでいいから! とりあえず怪我はなさそうかな」


 自分の馬から降りたマーシェも走ってきた。


「や、ごめん! ここまでとは思わなかったよホント」

「マーシェは、久しぶりってほどでもないか。何があったんだ?」

「うん。色々と話さなきゃならないことがあるんだよね。でも、ちょいと休憩させてくれるかい?」


 見れば、マーシェもうっすらと汗をかいていた。

 兄妹らしき二人も、まだ立ち上がれずにいる。


 事情を聞くのは、もう少し待たなければならないようだ。



 ーーちなみに。


「何であの二人だけ、馬が暴走状態になったんだ?」

「まあ、体重差だな」


 女性としては長身で体格の良いマーシェと、小柄な少年少女。その違いで、想定以上にマジックアイテムの効果が現れた。


「マーシェなら使いこなせるだろうと思ったのも、正直に言ってありますね……」


 多少速度が出ても何とかするはずだという、仲間への信頼感も裏目に出てしまったようだ。


「だから、あたしはごく普通の凡人なんだってば」


 マーシェは、肺の中をひっくり返すような溜息をついてみせたが。


「この際、普通の定義から話し合った方が良くないか?」

「……トール、それは……」

「あんたが言うのかい?」


 せっかく五人の仲間が再集結したというのに、締まらない感じになってしまったのだった。



✳︎✳︎✳︎



 突然の客人三人は屋敷へ案内し、旅の埃を落としてもらうことにした。

 馬はシャダルムが引き受けて厩舎へ連れていき、水や餌を与える。


 食堂に全員が集合したのは、昼近くになってからだった。

 屋敷には応接間も一応あるのだが、大人数が入れない。おまけにトールをはじめ仰々しいのが苦手な人間ばかりで、ほとんど使われていなかった。


「大所帯だな……」


 トールとセレストとフェン。

 滞在中のシャダルム。

 そして、そこに加わったマーシェと、新顔の二人。

 しめて七人になっている。食堂も、いつにないにぎやかさだ。


 セレストが茶を淹れて回った。新顔二人が、やたら恐縮しながら受け取っている。


「さて、どこから話したもんか……」


 マーシェが頬をかいてから言った。


「ま、分かりやすいところからかね。じゃあ改めて、トール」

「うん?」

「事後承諾で悪いね。あたし、男爵位をもらって貴族になったのさ。んで、正式にあんたの家臣になったからよろしく」

「なんで?!」

「駄目かい?」

「いや、良いけど……唐突だな」

「そこで『良いけど』って言っちゃうのがトールなんだよねぇ。あんたの長所でもあるけど。かえって心配になるんだよ」


 苦笑いするマーシェ。


「それはありますね」

「……うむ。そうだな」

「何も考えてねえからな、こいつは」


 仲間達がそれぞれ同意した。


「全員ひどくない?」

「ふふん。これがパーティーの総意ってやつさ。そんなお人好しがね、万魔殿みたいな貴族社会を泳いでいける訳ないだろ。それで、あたしが行くことにしたんだ」


 魔王討伐に貢献したマーシェには、褒美で爵位を得る権利があった。


 これは実を言えば、仲間達の皆が同じ条件だ。ところが、素直に貴族になった者はこれまで、トールしかいなかった。

 そのトールにしても農家になる都合上、辺境伯位も引き受けただけで、貴族らしく振る舞う気は一切無いと来ている。

 マーシェも似たようなもので、自由を好むからこそ冒険者という職に就いていた。爵位なぞもらうつもりはなかった、のだが。


「ちょいと貴族身分が必要になったんでね。保留にしてあった権利を使ったのさ」

「身分が必要って?」

「そこが話の肝だよ。今度、ここに代官が派遣されるのは知ってるね?」

「今朝、フェンに〈伝書〉が届いてたな」

「そうかい、間に合ったようだね」


 マーシェは、ほっとした様子を見せた。


「この代官さんがねえ……ちゃんとこっちの言うことを聞いてくれりゃ、何の問題もないんだ。ただ、大貴族につながりのある人になりそうだってのがある」

「ふん。貴族以外は人族じゃねえと思ってる、御大層なやつらは多いからな」

「どちらの貴族家なのですか?」

「ヨーバル伯爵家。バイエル侯爵家の分家だね。で、そこのご令嬢が来る」

「……令嬢?」


 嫌な予感がするトール。


「そう、あんたにしちゃ勘がいいじゃないか。前にも言った嫁さん候補と合わさって、こうなっちゃったのさ」

「うわ、そう来たか。悪魔合体だな」

「言っとくと、社交界でもお色気美人で有名なご令嬢らしいよ?」


 マーシェはにやりと笑ったが、トールは渋面のままだった。


「貴族の女の人って、何を考えてるか分からないから苦手なんだよ」


 トールも女性が嫌いという訳ではない。

 が、常に微笑を貼り付けている貴族女性というのはどうにも理解できない。

 貴族同士なら、わずかな表情の変化や言葉遣いから相手の心情を読み取れるらしいが、トールには無理であった。


「ま、そういう教育を受けてるみたいだから仕方ないよね。感情を表に出さない『静謐な微笑』だっけ?」

「うむ……高位貴族の令嬢になればなるほど……そうだな」


 貴族出身のシャダルムが肯定する。


「代官に任命されたのは、ヨーバル伯爵令嬢。でも事実上、バイエル侯爵家の姫君みたいな立場だそうだよ。普通なら代官なんかにはならない」


 高位貴族の女性は、やはり淑女であることが求められる。男爵や子爵レベルならともかく、女性が家の当主になったり、商売や領地経営を担ったりする事例はかなり珍しい。稀にあっても、ほとんどは一度結婚してからだ。

 未婚の姫が代官、というのは異例中の異例で、実務は別の人間が行うのではないかという。


「代官の下に、さらに代官みたいな人がいるのか……訳が分かんないな」

「だから、やっぱり用心が必要さ。あたしが名ばかりとは言え男爵になって、辺境伯の家臣ですって格好くらいは付けないとね。とてもじゃないが対抗できないよ」

「いいのか? 貴族になるなんて性に合わないって言ってたのに」

「今更だね、もうなっちまってるよ。事後承諾だって言ったじゃないか」

「そうだった……」

「ふふ、よろしくお願いしますね、マーシェ」

「こっちこそ、またセレストと一緒で嬉しいよ。とりあえず時間はいくらか稼いだからね、迎撃準備をしようじゃないか。それと、この二人だけど」


 マーシェは、身を寄せ合って茶を飲んでいた少年少女の方を見た。

 二人は先程から一言も喋らずに、トール達の会話を聞いていたのだが、慌てて立ち上がる。


「これもいきなりで、すまないんだけどね。この屋敷にも使用人が必要だと思って連れて来たんだ。これから慌ただしくなりそうだし、代官に対する体裁だの何だのもあるし。構わないね?」

「分かった。顔が似てるけど、兄妹?」

「うん。こっちが兄貴のネイ。妹がラン。二人とも星一の冒険者だったから、自分の身を守るくらいはできるよ」


 マーシェの視線を受けて、兄妹がそれぞれ頭を下げた。


「ネイです。よろしくお願いします!」

「ランですっ! 頑張ります」


 ネイは恐らく十三、四歳。声変わりはしているが、体格はまだ小さい。顔立ちも妹に似て可愛らしい一方で、大人びた目をしている。


 ランはさらに一回り小柄で、茶色の髪を三つ編みにして背中に垂らしている。弾むような身体の動かし方をするので、おさげもぴょんぴょん跳ねるのが印象的だ。


「うん。よろしく」


 マーシェが選んで連れて来たならいいだろう、とトールは二人を受け入れた。


「では、わたくしが屋敷の中を案内しましょう」


 セレストも席を立つ。

 現在、屋敷を主に管理しているのは彼女である。仕事を教えるのも、一番の適任だ。


「あたしは領地の状況をもう一回、頭に入れておかないとね。地図ってある?」


 マーシェが言うと、シャダルムがうなずいた。


「……大まかなものでよければ、作ってある」

「いいね、シャダルム。んじゃ、現地の確認に付き合ってもらえるかい?」

「分かった。私もここで世話になっている以上、役に立てれば本望だ」

「オレも行った方が良さそうだな?」

「そうさね、魔法的な防衛体制はフェンの担当だろうね」

「ああ。セレストも一部やってるが、あいつはあいつで忙しいからな」


 本領発揮とばかりに、仲間達が動き出す。


「……俺はどうしよう?」


 そしてリーダーのはずが、トールは置いていかれそうになっていた。


「あんたの出番はまだ先だからねぇ。今のところ特に無いよ」

「俺だけいいのかな」

「お前は自称農家だろうが。大人しく農業やってこい」

「フェンに農業やれって言われる日が来るとは思わなかったな」


 トールは微妙な表情をしつつも、念のためマーシェ達三人とは別の方角へ出掛けた。



✳︎✳︎✳︎



 水田の景色は変わらない。

 よく観察すれば稲は少しずつ成長し、雑草も生え、水位も含めて変化はあるのだが、流れている空気はそのままだ。


「平和なのが一番良いんだけどなー」


 トールは独り言をこぼした。

 彼としては、こうして農業をやっていられれば十分なのだが、どうも放っておいてもらえないらしい。


「ま、愚痴を言っても仕方ないか。できることをやろう」


 仲間達が再び集まり、力を合わせて困難に立ち向かってくれるのはーー。

 トールが農業を続けるためなのだから。


 トールは気合を入れ直して、田んぼの見回りを続行した。

 水位を調節したり。

 追肥として魔力を流してみたり。

 草が多いところは除草したり。

 ついでに少し遠くへ足を伸ばして、セレストとフェンが抜けた代わりに開拓もやっていくことにする。


 遠慮なく勇者スキルを活用しながらーー。



✳︎✳︎✳︎



「あのぅ……セレスト様?」


 屋敷の庭先を歩いている途中で、ネイがセレストに声を掛けた。


「何かありましたか?」

「いえ、その。遠くで雷みたいな音がしたんですが」

「空もピカっとしましたっ」


 ランは首を縮めて、目をきょろきょろさせている。


「ああ、あれですか。大丈夫ですよ、よくあることですから」


 セレストは平静そのものの顔で答え、遠くへ視線を送った。

 トールが出掛けていった方角である。


 すると上空を閃光が走り抜け、地平線の向こうで、青白い稲妻をまとった衝撃波が飛んでいくのが見えた。


「ーーはわわわっ?!」


 ランが小さな悲鳴を上げて、兄の背中に隠れる。


「……少しやり過ぎですね。あとでトール様に申し上げておきます」

「トール様があれを?! というか今ので少しなんですか?!」


 妹をかばうネイの顔も青ざめている。


「見た目が派手なだけで、威力はさほどありませんから。慣れれば平気かと」

「慣れる?!」

「わたくしも最初は信じられませんでしたけれど、意外と何とかなりますよ。それでは次に……ラン? どうしました?」

「はう……申し訳ありませぇん。びっくりして腰が抜けまひた……」

「ラン! しっかりして」


 へたり込むランを、ネイが引っ張る。

 セレストが横からすっと近付き、ランの背中を軽く撫でた。


「ふわぁ……あ、あれ?」

「立てますか?」

「は、はいぃ」

「では行きましょう」


 何事もなかったかのように踵を返して、歩き出すセレスト。兄妹が急いで後を追う。


「お兄ちゃん……」


 ランがごく小声で囁いた。


「思ってたより、とんでもないところだね……?!」

「……そうだね」

「トール様もすっごいけど、セレスト様の魔法もすっごいね。一瞬で治っちゃった、あんなの見たことないよぅ」

「本当にな。頑張ろうな、ラン……」

「うん……」


 うなずき合う兄妹であった。


「あの、ところで、あれはトール様が魔物退治でもしてるんですか?」


 ネイはセレストに質問した。


「いいえ、農業です。気にしないで構いません」

「農業って、あれがですか?」

「ええ。トール様の故郷には魔力が存在していませんので、ああやって魔法を使わない農業をするのが普通なのだそうです」


 日本の農業関係者が聞けば白目を剥くような内容を、セレストがさらりと話す。


「うわぁ……怖いなぁ」

「異世界って意味不明ですぅ……」


 口々に本音を言ってしまう二人。


 トールは確かに農業魔法を使っていない。

 だが勇者スキルは使っている。

 物理的な農業だと思っているのは本人だけで、そのせいもあって勘違いが加速度的に拡大しているのだがーートール自身は未だ、それを知らない。



✳︎✳︎✳︎



 「ここで働かせてください」ではないが、新顔であるネイとランの兄妹が、その覚悟を試されていた頃ーー。



 いたいけな少年少女を巻き込んだ張本人であるマーシェは、シャダルム、フェンと共に開拓地の外れまでやってきていた。


「スピノエス方面はここから先、ずっと手付かずだってことだね」

「うむ。馬でさらに二日ほど進むと、川がもう一本流れている場所があったと記憶している……。多分、以前は集落があったのだろうな」


 シャダルムが答える。


「代官さんの拠点は、その辺りに作ってもらうのが良さそうだね。魔法がなけりゃ、馬で三日ってところか。いいんじゃない?」


 代官側の思惑はともかく、べったりとこちらにくっついて来られるのは困る。

 トールが嫌な顔をしているのもあるが、それ以上に、ここで起きているあれこれが非常識に過ぎるからだ。


 名ばかりの領主と、訳ありの代官。

 一定の距離をとって礼儀正しく、互いに原則として不干渉を貫くのが、もっとも無難であろう。


 事実上の嫁候補として送り込まれてくる令嬢が、そう言った事情を理解してくれれば良いのだが……。


「いっそトールのやつが本気で『農業』やってるところを見せた方が、大人しくなるんじゃねえか?」

「フェンは相変わらず過激だねェ……一理なくもないけど、まあ最終手段で取っておこうか」


 シャダルムの見合いでもあるまいに、そんなことをすれば令嬢が気絶して大問題になってもおかしくない。



 三人はさらに周辺を確認した後、屋敷へ戻ることにした。



「ところで、シャダルムは随分と喋れるようになったじゃないか。修練の成果ってやつかい?」


 マーシェがそんな話を持ち出した。


「そうだな。トールのおかげだ。父上や皆には、迷惑を掛けてしまったが……」


 シャダルムの会話はまだ完璧とは言えないものの、かなり滑らかに話せるようになっている。

 かつての旅の間や、ここへ来た時の萎れっぷりからは見違えるような進歩であった。


「ま、考えようによっちゃ、あんたが今ここに居るのは心強いよ。あたしだって、なりたての男爵サマだからね。高位貴族の姫君なんて、手に負えるかどうか」

「バイエル侯爵は、最大派閥の顔役だからな……私の実家程度で対抗できるとも思えんが……。できる限りのことはしよう」

「いつまでこっちに居られるんだい?」

「期限は決めていない……。だが、ずっとトールの人の好さに甘える訳にもいかん。代官を迎えた後、大きな問題が無いようなら……時期を見て王都へ帰ろうと思っている」

「見合いとやらはどうするんだ?」


 フェンが訊いた。


「あちらの令嬢にも、自分の口から詫びの言葉を言いたいのでな……とりあえず一度は会ってみるつもりだ。とっくに愛想を尽かされているだろうが、けじめはつける」

「お前は悪くねえだろ。伯母上サマとやらが強引なんだ」

「いや、伯母上は……悪い人ではないのだ。ただ時々……常人にはよく分からぬ理由で、物事を進めてしまうことがあるだけで……」


 若干、歯切れが悪くなるシャダルム。


「十分過ぎるくらい迷惑じゃねえか」

「私の口からは……これ以上、何も言えん……」


 シャダルムはそう答えたきり、以前のように黙り込んでしまったのだった。



✳︎✳︎✳︎



「ユージェ様……まさか、貴女様がいらっしゃるなんて」

「お久しぶりですわぁ、ヴィルマリーさん……。ううん、今はスピノ伯爵夫人、とお呼びすべきかしらぁ……?」

「いいえ、勿体ない。どうぞ昔のようになさってくださいませ」


 敬意のこもった仕草を見せて、スピノ伯爵夫人ヴィルマリーは深々と礼の姿勢をとった。


「うふふ、ありがとう……ヴィルマリーさんなら、当然ご存知ね。あたくしが、勇者さまの領地の代官になることを……?」


 領都スピノエス、伯爵邸でも滅多に使われることの無い貴賓室。

 そこにヴィルマリーはいる。

 常日頃の勝ち気な態度は欠片も表へ出さず、息を殺すようにして。


 その正面には、一人の貴族女性の姿がある。


「はい。夫や……王都の父からも知らせがございました」


 領主夫人であるヴィルマリーの最敬礼を、長椅子に座したまま優雅に受ける、その女性こそが。

 伯爵令嬢でありながら、姫のように振る舞うことを許される人物であった。


「あたくし、とっても楽しみだったの……なのに、まだ住むところも無くって……それでこうして、ヴィルマリーさんのおうちへ押し掛けてしまったのだわぁ……許してくださる?」

「そんな、押し掛けるだなんて。我が家に貴女様をお迎えできて光栄に思いますわ。むしろ、このような粗末なおもてなししかできないことを……お詫び申し上げなければなりません。我が領も未だ復興の途上とは言え、お恥ずかしい限りでございます」

「まあ、そんなこと。気にしないでよろしくてよ……? あたくしの我が儘なんですもの」


 ころころと鈴を振るように、彼女は笑った。


 ユージェ・ヨーバル。

 代官などという堅い役職名が、これほど似合わぬ女もそうはいない。


 紅い唇を歪めるようにして、彼女はつぶやく。


「本当に、楽しみで仕方がありませんわぁ……」


 とろりとした光を浮かべた女の目が、遠く、イナサーク辺境伯領へ向けられていた。

米の名は…「祝」(京都府)

 酒造好適米。長稈、少収の一方で良質な酒の醸造が可能であることから府内で栽培される。

 「ほしのこ」

 北海道での栽培に向く米粉用の専用品種。容易に粒径の小さな米粉が製造できる。

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