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17.天の雨粒、虹のきらめき

 季節が変わっていく。

 ラクサ王国には梅雨が存在しないため、段々と気温が高くなれば、それが夏だ。

 日本の水田稲作においては、梅雨どきにしっかり雨が降らないと水が不足してしまうのだが。

 イナサーク辺境伯領では〈水生成〉の魔道具が、常にきれいな水を供給している。

 用水も、トールが勇者スキルを応用して大地を穿ち、造成したものが活躍している。王国を南北に流れる東ラグリス川の支流から取水し、排水は下流へ戻していくのだ。


 もちろん雨が降ることはある。

 日本に比べると、ざあざあ降りは少なく、それこそ梅雨か秋雨のような弱い降り方だ。

 そのせいか、雨傘をさす習慣がない。

 水田の見回りだけは欠かさないトールも、スピノエス行きでも使ったローブをかぶって外出している。



 この日も久しぶりに雨天だった。


「意外と降ってた……」


 珍しく強い雨だったため、トールは朝の見回りだけでずぶ濡れの泥だらけになり、帰ってきてから着替えることになった。

 風邪など縁がない勇者だが、セレストが温かい茶を淹れてくれるというので、食堂で座って待つ。


「雨が降るのは、自然の魔力が戻ってきている証拠ですから、良いことなのですけれど」


 お湯をポットに注ぎながら、セレストは言った。

 魔力を収奪された面積が大きいと、雨や雪さえ降らなくなる。雑草が生えてきたのもそうだが、土地の状態は回復してはいるのだ。


「たまにはいいんじゃないか。ここのところ全員、休みをとってなかったから」

「女神の御恵みですね」


 ラクサには曜日や安息日という考えがない。暦の数え方も独特で、ひと月を一旬、二旬、三旬の三つに区切る。

 地球感覚で言えば今日は六月十五日だが、ラクサでは六の月、二旬の五日になる。

 日本人としては逆に分かりにくい。トールもつい一週間単位で考える癖が抜けないのだが、他人に言うと変な顔をされるのである。

 しかし、こうなっているものは仕方ない。


 決まった日に休むという概念もほぼなく、唯一あるのが、女神の慈悲が天地を潤す間ーーつまり雨が降る時は休む、なのだ。



 セレストがカップを出し、茶を注いでいると、足音がしてフェンが顔を覗かせた。


「あ、フェン。報告書はできたのか?」

「おう。今回は分量が少ねえからな」


 王国からの任務で辺境伯領にいるフェンは、この地で起こったことを報告書にまとめる必要がある。

 先日までの分はマーシェに託したので、その後の内容を書き終えた、ということだ。


「雨の日なのに大変だな」

「全くだ。お、悪いなセレスト」

「いえ、大した手間でもありません。わたくしも手持ち無沙汰で」


 セレストが気を効かせて、フェンにも茶を淹れて渡している。


「やることないもんなぁ」


 さすがに雨の中、農作業や開拓作業はしにくい。

 さっきより雨足は弱まっている。田んぼの水嵩が大きく増えるほどの降水量でもなさそうだ。念のため後でもう一度、様子を見に行くくらいか。


「シャダルムがいないけど、何してるんだ?」

「馬の世話の後、倉庫で鍛錬をすると言っていましたね」


 シャダルムの趣味は鍛錬、日本風に言えば筋トレであった。


「こないだ倉庫で、シャダルムが木箱を担いで歩き回ってたんだよな」


 トールは、セレストに頼まれて食料を取りに行った時のことを話題にする。

 シャダルムが重し代わりに小麦粉の詰まった木箱を肩に乗せ、鍛錬に励んでいる光景を目にしたのだが。


「分かってても熊と見間違えそうになる」

「まあ、暗がりであいつにいきなり遭遇したくはねえな」


 フェンはそう言ってから、ニヤっと笑った。


「そうだ。トール、お前シャダルムの馬に嫌われたらしいな?」

「あー。バロック、馬なのに頭が良いんだよ……」


 黒馬バロックは、数日前の勇者的総合防除の一件以来、トールを見ると鼻息荒く突っかかってくるようになってしまった。

 プライドが高く、大変賢い馬でもあるから、自身がトールのせいで無駄足を踏まされた、ということを理解しているようだ。

 屈強な軍馬の蹴りや頭突きを食らうと、普通の人間なら吹き飛ばされる。背骨が折れるか内臓が破裂するかして、最悪死ぬ危険すらある。シャレにならない生き物なのだ。

 トールが無傷で済んでいるのは勇者だからだが、バロックにすれば、それも気に入らないらしい。


 元より気性が激しく、シャダルム以外の人間には懐かないバロックだ。敵認定されてしまったトールは、しばらく雑に扱われることが確定している。


「トール様でしたら大丈夫だとは思いますが、お気を付けてくださいね」

「そうだなー。馬相手に本気出す訳にもいかない」

「普段から勇者の威厳が足りねえんだろう」

「べ、別にそんなのなくていいし……」


 くだらない茶飲み話をする三人。

 こういうのも悪くない、と思うトールだった。



 雨が降っていても物事は動いていく。

 その少しだけ前にある、束の間の休息だった。



✳︎✳︎✳︎



 王都にも雨が降る。

 優しく穏やかな、女神の恵みであった。


「人の心も、同じように在りたいものだがな」


 国王ネマト・リン・ラクサは、窓の外を眺めてつぶやいた。


「我々は神ならぬ身。その中でも俗物でありますからな」

「ふ、違いない」


 宰相オルトラの言葉で、ネマトの口許に苦い笑みが浮かぶ。


「ーーしかし、フリードも思い切った手に出たものよ」

「当人の考えはともかく、あの男はバイエル侯爵。最大派閥の長という地位にありますからな。動かぬ訳にはいきますまい」

「であろうな……面倒な話だ」


 雨音の中でも、ネマトの執務は休みなく続いている。

 国王たる彼に奏上された、ある書類をめくり、隅々まで目を通す。

 終盤のページに、賛同する貴族の名が書き連ねられているさまも確認する。


 その筆頭に書かれた名は、バイエル侯爵フリード。


 ラクサ王国で一、二を争う大貴族であった。

 彼の意向はネマトも無視できない。こうして配下たる中小貴族からの声もまとめ、満を持して持ってきたからには、特に。


「勇者殿は……どう答えるであろうな」

「受けるでしょう、恐らくは。そういう方です」

「王国が愛想を尽かされぬといいが」

「仮に配下の者どもがやらかしたとしても、フリードが侯爵として後始末をするでしょう。むしろ勇者殿に振り回されるのは、あの男の方かもしれませんぞ」

「ハハハ、そうよな。真の強者に小細工なぞ通用せぬ。余も先頃、思い知ったばかりだ。フリードに良い胃薬でも見繕ってやるとするか。そのうち必要になるやもしれん」


 ネマトは笑い、そしてペンを持ち直してから、書類の最後に自らのサインを書き入れた。

 国王の承認を得た書類はオルトラが受け取り、傍らの補佐官に渡される。


「ならば、よい薬師を知っておりますぞ。小生もこの数年、愛用しておりますからな」


 やや皮肉っぽい言い方をする宰相に、国王は不思議そうな声を掛ける。


「ふむ、オルトラよ。そちは胃痛持ちであったか?」

「寄る年並みには勝てず、といったところですかな。若い頃はさほどでもありませんでしたが、最近は無理が効かぬようで」

「そちも、そのような年齢か……互いにもう、若くはないな」

「とっとと息子に譲りたいところですが、あれもまだ頼りなさが目につきますゆえ」

「ベルクートもな……今少し、王太子としておくのが良かろうなあ。加えて、あのじゃじゃ馬のこともある」


 次の書類を見ながら、ネマトは言った。

 後継である王太子ベルクート。

 そして王女リディア。

 どちらも、ネマトの心を悩ませる存在であった。


「さて、余もオルトラ愛用の薬師の世話になるべきか」

「小生の取り分がなくなりそうですな。これは困りました」


 国王と宰相の軽口を挟みながら、王国の(まつりごと)は進む。



✳︎✳︎✳︎



 同時刻、王城の一角。


 国王の執務室からは離れたその場所に、弓使いマーシェの姿があった。


「申し訳ありません、マーシェ殿。忙しい中を」

「いえ。あたしも戻ってきたばかりで、次の仕事もまだですんで。ただ、冒険者として守秘義務があります。大したお話はできないと思いますけど」

「承知しておりますよ。私も政治の話に興味はありません。弟子達が元気にしているか知りたいだけですよ」


 魔術師団本部で、マーシェの向かいに座るのは師団長ロジオンであった。


「ま、それは大丈夫ですよ。元気いっぱいです。色々、常識をぶっ壊してはいましたが」

「そうですか、それは何より。ギックリ腰になった甲斐もあったというものです」

「ありゃ。その噂、本当だったんですか……」


 トールの種籾召喚のせいで、ロジオンが倒れた事実はーーあんまりにも内容が内容だという理由で、一般には伏せられていた。

 密偵(スカウト)役のマーシェでさえ、掴んでいたのは朧げな噂話に過ぎず、確かなことは知らなかったのだ。


「もう回復しています、問題はありませんよ」


 ロジオン本人は飄々としているが。


 大陸最高峰の魔法使いであり、長命と相まって王国の守護神とも言えるのがロジオンだ。その彼が、一時的なギックリ腰とは言え動けなくなる、というのは、かなりインパクトのある事態だったはず。


「トールぅ……やっぱ無茶苦茶だよ、あんたはさ……」


 ここにいない勇者に、つい文句を付けたくなるマーシェ。


「まあまあ、そう言わずに。頼ってもらえて嬉しかったですよ、私は。弟子はみんな大成してしまって相手にしてくれないものですから、つまらないのです。どこかにまた、才能のある子が落ちているといいのですが」

「それもどうかと……?!」


 マーシェが突っ込むと同時に、ドアが開いた。


「弓使い殿のおっしゃる通りですとも。捨て犬や猫ではありませんよ、師団長?」


 魔術師のローブをまとった男が、厳しい声音で言いながら入ってくる。


「トラス、何か用事でも?」

「用事が無いといけませんか」

「君は無駄が嫌いでしょう」

「分かっておいでなら、師団長決裁の数々を片付けていただきたい」


 男はにべもなく言った。


「ああ、弓使い殿に責任はございません。逃走癖のある困った老人のお相手をしていただき、感謝の極み」


 マーシェに対しても口調は変わらず、本気とも嫌味とも取れない。


「いえ、お邪魔して申し訳ありませんねぇ。副団長さんのお噂はかねがね」


 マーシェは顔の前で手を振った。


 魔術師団、副団長トラス・ハウスト。

 「氷牢」の二つ名を持つ魔術師である。


 トラスは、手にした書類の束をぱたぱたとはたいた。


「話を戻しますが。師団長がそこら辺から問題児ばかり拾ってくるために、苦労しているのはこの僕だという事実をお忘れですか? まことに絶大なる迷惑です」

「師団員の層は厚くなったでしょう。フェンもあのように貢献してくれましたよ」

「フェニックスは論外です。この僕が何度、アレが燃やしたものの後始末をしたと思っているのですか。魔王を炎上させたくらいで相殺できるものではありませんね」


 トラスは掛けている眼鏡をくいっと押し上げ、それから書類をロジオンの前に置く。


「弓使い殿もいらっしゃるなら、ちょうどいい。勇者殿の領地に派遣しているフェニックスですが、近々交代させるべきかと思っています。現地を見てきた貴女の意見を伺いたい」


「ーーふうん? まず、その理由は何です?」


 マーシェは顔色を変えずに訊いた。


「バイエル侯爵派が動いています。息のかかった者を代官として辺境伯領へ送り込むつもりのようですね」

「トールの領地へ?」

「ええ。領主は勇者殿ですが、広大な土地のほとんどは手付かずで、ご本人が領主の仕事に詳しい訳もありません。支援として代官を送る、という話は当初からありました」


 トールは農家になろうとしただけで、領主は名目上そうなっているだけのもの。情勢が落ち着いたら、領主としての彼を助けるーーというより代行する人員を、王国から派遣する予定になっていた、のだが。


「早いですねえ……もう半年くらいは決まらないと踏んでたんですけど」


 イナサーク辺境伯領は不毛の地。代官のなり手もいないはずだった。


「土地の回復が予想より進んでいる、とみられているためでしょう」

「……セレストが着いていったから、ですかね?」


 マーシェはぴくりと眉を動かした。

 トラスはうなずいて続ける。


「聖女殿は優れた神官です。それに神殿は聖女殿から、定期的に〈伝書〉による報告を受けています。そこから情報が漏れた可能性は高いかと」


 神殿には貴族出身の神官もいる。当然バイエル侯爵家に縁のある者も。


「なるほど?」


 マーシェは、考える素振りをしてみせた。


(実際にはトール自身とフェンも開拓に参加してるけど。そいつをどこで言うかは様子見さね。特にトール)


 魔術師が農業魔法を使うこと自体は、なくもない。適性と本人のやる気次第だ。高尚な魔術の研鑽しかやりたくない、という者も多いが、理論上はおかしくない。

 ところが、勇者がその固有スキルで自称農業をやっているのは前例が無い。つまりその情報は、フェンとは比較にならない爆弾になり得る。


 フェンは今回、王国の任務で派遣されているため、報告書の類も国に直接提出する。魔術師団に話が行くのは彼が帰任してから、となるはずで、そこが神官であるセレストとは違う。


(つまり、師団トップの二人と言えども伝わってんのは概要だけ。詳細までは把握してないってことだね。フェンの性格からして、マメな連絡なんて絶対してないだろうし)


 それでロジオンがマーシェを捕まえにきた、という流れであろう。


「で、その代官さんには、大貴族に縁があるお人が就任するってことですか。別にいいのでは? フェンは関係ないような」


 マーシェが首をかしげてみせると、ロジオンもふっと笑った。


「私も同じ意見です。しかしトラスが言うからには、理由があると思いますが」

「ええ。代官になった者が、勇者殿を領主として認め、自らの立ち位置を弁えられるか不安があります。むしろ勇者殿はお飾りにし、自分こそが実権を握ろうとする可能性が高い」


 だが、勇者の膝元で、あまりに好き勝手をさせるのもよろしくない。

 もしも代官が鼻持ちならない人物で、何かやらかしそうな場合、あるいはトール達にまで迷惑が及びそうな場合に、ある程度掣肘できる人材が必要になってくる。

 すると大切なのは魔術の腕よりもーー。


「政治的な駆け引きができるかどうか、ってことになっちゃいますねェ……確かに」

「フェニックスが一番、不得意な分野と言えます。下手をすると盛大な爆発炎上が起こる。そうなると、いかに師団長やこの僕でも庇い切れません」

「ああ、はいはい。お気持ちはよっく分かります。でも、庇うつもりはあるんですね?」

「個人の好き嫌いを言えば、アレより下等な存在は居ません。しかし、火力だけの馬鹿でも師団員ですので。うまく使うのが、この僕の役割です」


 トラスは素っ気なく言い捨て、また眼鏡を押し上げた。


「魔術の実力は評価しますが、社会性に期待するほど、この僕は愚かではないつもりです。呼び戻して、魔物退治か何かに派遣した方が本人のためでもある。どうです、師団長?」

「そうですねえ……」


 ロジオンは腕組みをして、窓の外で降る雨を眺めた。


「私としては任務うんぬんよりも、ずっと戦い詰めだったフェンに休息期間を上げたかったのですよ。トラスの結婚休暇にしても先日ようやく、三年越しで実現させたばかりですし」


 この副団長は見た目によらず愛妻家なんです、とロジオンは笑った。



 三年前、と言えばトールが召喚され、魔王軍との戦いが最も激化した時期である。出征前に結婚の届出をする男女は多かった。情緒的な理由もさることながら、書類上だけでも夫婦であれば、片方が戦死しても残された者に手厚い補償がある、というのもあった。



「……なるほどね。愛だわー」


 冷徹に見えるトラスにも「そういう事情」があったのだろうと、部外者のマーシェも察した。

 が、当のトラスはにこりともしない。


「その休暇中をいいことにもう一度、異世界召喚を行うなどという無謀に挑戦して腰を痛めたのはどなたです? しかもフェニックスが勇者殿を止めるどころか、一緒になって遺跡を破壊しそうになった件もありましたね? 復帰してみたら変異体スライムのように問題が湧いていて、その処理を全て行う羽目になったのはこの僕ですが何か?」


「えーと……どうもすいませんね、うちの勇者サマが」


 つい謝ってしまうマーシェ。

 実際トラスに降り掛かった面倒事は、ほぼほぼトールと彼の農業が震源地である。

 影の被害者は、この副団長と言ってよさそうであった。


「ご理解いただけて光栄です。さて」


 トラスが眼光鋭くロジオンをにらむ。


「今回の件も放っておけません。代官が正式に派遣される前に手を打たねば」

「君の言葉は、常に合理的かつ正論ではあるのですが……マーシェ殿の意見はどうです?」

「うーん、あたしなんかが口を挟んでいいんですかね、これ。思いっきり魔術師団内部の問題じゃないかと」

「いえいえ、参考にするだけですよ。フェンが現状に不満があるようなら、私も考え直さないといけません」


 師団長たるロジオンがそう言うなら、マーシェも率直に伝えるべきだろう。トラスには恨まれるかもしれないが。


「んー、何だかんだ言いながら楽しそうにしてましたよ。あとは……」


 マーシェは少し考えーー結局、そのことを口にする。


「フェンのやつも開拓を手伝ってますよ。農業魔法で」


「…………は?」


 トラスが初めて表情を動かした。


「アレが農業魔法? 何かの間違いでは?」

「あたしはこの目で見てます。ま、最初は信じられなかったですが」



 マーシェは先日の滞在で、セレストとフェンにもこの辺の事情を聞き取っている。


 暇なら開拓を手伝ってください、と言ったのはセレストだ。「トール様の故郷には『働かざる者、食うべからず』という素晴らしい言葉があるそうですよ?」と良い笑顔で述べていた。

 フェンを引っ張り出して農業魔法の基本を伝え、実演してみせたのも彼女である。

 が、行動を共にしたのは最初の数回だけで、すぐにつききりで教える必要はなくなった。

 その後は担当する地区を決め、フェンが露払いの役割を果たし、後日セレストが仕上げにかかるという分担をしている。


「簡単にでも、地ならしができていると違います。助かっていますよ」


 セレストがいくら優秀でも、手伝いの有無で差が出るのは当然だ。


「遠慮なく頼める仲間がいて幸いでしたね」


 セレストによれば、フェンは既に中級に手が届くレベルで農業魔法が使えるらしい。



 一方、そのフェンは。


「実際、オレだけ暇しててもしょうがねえだろう。それにセレストを怒らせると面倒なんだよ」


 口ぶりは乱暴だが、彼なりに仲間のことを考えて行動しているようだ。


「農業魔法? 別に? あれも魔法だからな。大して変わんねえ。その気になりゃできる」


 少なくとも現在のフェンには、あまりこだわる様子はなかった。



「ーーっていう感じでしたねえ」


 マーシェは、かいつまんだ説明を終えた。

 トラスは眉間にしわを寄せたまま、眼鏡を外して目許を揉んでいる。


「十年前に、その柔軟性が麦一粒レベルでも存在していれば……この僕があれほど苦労せずに済んだはずなのですが。そうですか、それはそれは。あんなのでも稀に成長することがなくも無いという貴重な事例で、副団長として喜ぶべき場面だ。ですが何故でしょうね? 心の底から忌々しい気分になるのは」


「アハハ……あたしも何だか今、あいつらに出会った直後のアレコレが思い浮かんだところです。副団長さんもこりゃ大変だわ」


 かつての自分を振り返って、マーシェはトラスに同情した。


「これはフェンが一枚上手だったようですね。恐らく本人は、農業魔法が自分の進退に関わるなどと考えていなかったでしょうけれど。何とまあ悪運の強い」


 ロジオンは肩を震わせつつ、笑いを堪えている。


「ですがこれで、はっきりしました。フェンはしばらく、このままトール君の領地に置いておきます。トラスもいいですね?」

「……致し方ありません。殺意は湧きますが」

「君の言う通り、トール君の味方になる人材が、もう何人か必要かもしれません。ですが……それは魔術師でなくとも良いでしょう。人選については、誰かしらに相談しておきますよ」


 トラスはすっと無表情に戻った。


「それで結構です。では師団長」

「何でしょう?」

「書類の決裁に戻っていただきます」

「数十年もやっていると飽きるのですよ。もう君が師団長でいいのでは?」

「ほほう、これはまた笑えないほど面白いご冗談を」


 トラスの声が、低くなったように思われた。


 マーシェはすかさず席を立つ。


「じゃあ、あたしはこれで。お邪魔しました!」


 弓使いにとって、逃げ足の早さは生命を左右する。戦闘能力は並に過ぎない(と本人は思っている)彼女が生き残ってきたのは、逃げるべき時に徹底してそうしているからだ。

 マーシェは脇目も振らずに魔術師団本部から退出し、ドアを閉めた。

 直後、室内で膨大な魔力がうごめいたのはーー努めて知らないふりをする。


「いやー、フェンと三年一緒だった経験が、まさかここで生きるとはねぇ」


 魔術師の感情が大きく揺れると、剣呑な魔力が漏れることがある。フェンの場合は空気の温度が急上昇するが、トラスは冷気を漂わせていた。やはり「氷牢」と呼ばれるだけのことはある。

 勇者のトールならば、フェンが激怒しても「ちょっと熱いよ」で済ませられる。ところが、凡人のマーシェはそうもいかない。自然と磨かれた回避能力が今日、意外な局面で発揮されたのだ。


 フェンとトラス。


 この二人は対極に見えて実は似た者同士であるがゆえに、ひときわ仲が悪いのかもしれない。

 一応、トラスは好悪の感情と仕事を分けて考えられるタイプのようではあるが……。


「危ない危ない。ロジオン師団長なら平気だろうけど、こっちはひとたまりもないからね。それにしても、悩みが増えちまったよ」


 近い時期に、イナサーク辺境伯領へ代官が送り出される。

 しかもそれは、トールと仲間達に友好的な人物であるとは限らない。

「あたしも、そろそろ覚悟を決めなきゃいけないね……」

 マーシェはそうつぶやき、その場を後にした。



✳︎✳︎✳︎



 アプロードス聖王国。

 ラクサ王国からはやや離れたその地にも、この日は静かな雨が降っている。

 休みなさい、と言うかのように。


「まだですわ」


 彼女は小雨に打たれながら、木剣を振り続けている。


「姫様、もう休憩なさってくださいませ」


 傍らの侍女が声を掛ける。

 しかし彼女ーー王女であることを捨てたリディアは、修練をやめようとしなかった。


 その姿は、以前とは全く違う。

 豪奢なドレスではなく、素材は良いが飾り気のない制服をまとい、髪は後ろで束ねただけ。化粧もせず、ひたすら木剣で基礎の型をなぞる稽古を繰り返していた。


「楽しいからやっているのよ。あと少しで雨も上がるわ」


 口調も、かつての甘えた舌足らずな印象はどこにもなかった。


「お願いでございます。お風邪を召されたら元も子もございません」

「仕方がない侍女だこと」


 リディアは溜息をついて素振りをやめ、侍女のいる外廊下へ歩み寄った。

 世話をしようとする侍女を押しとどめ、柔らかいタオルだけ受け取って髪や顔を自分で拭き始める。


「お召し替えを」

「要らないわ」

「ですが……」

「本当にいいの。無理をしているのではなくてよ」

「姫様……」


 侍女は俯いて、唇を噛む。


「私は悔しゅうございます! なぜ姫様がこのような!」

「お黙りなさい。わたしが望んでここにいるのよ。御父様と大喧嘩してまでね」

「ですがーー」

「それとも、おまえまで思っているの? わたしが勇者様に捨てられたみじめな女で、自棄になって、こんなことをしているって」

「い、いえ、そのような」

「ねえ、おまえは、わたしに仕えて何年になるのだったかしら」

「もう十年以上でございます、姫様」


 侍女の答えに、リディアはうなずく。


「そう、では憶えているはずだわ。あの頃わたしがお転婆だの男勝りだの、好き勝手に言われていたことをね。おまえや乳母に読んでもらう絵本でも、わたしは姫君より騎士や勇者が好きだった。御兄様達の剣術の稽古に、こっそり潜り込んだこともあったわね?」


「それは……いえ、確かにそんなこともございましたが」

「そうでしょう?」


 リディアは髪を拭き終わり、タオルを侍女に返した。


「だから、これで……いいえ、これが一番良かったのよ」



 リディアがかつて、トールに迫ったものの逃げられたのは事実だ。

 だが、それも父である国王に言われたからで、彼女自身の意思ではなかった。

 王女の結婚とはそういうものだ。自分で相手を選ぶことなどできない。トールに拒まれたなら誰か別の男に嫁ぐ、それだけのことだった。

 だが……。


「勇者様が農民になるくらいですもの。わたしが聖騎士になっても良いはずだって、そう思ったのよ。そうやって足掻いた結果、今がある。自由をくれたあの方には感謝しているわ。本当に負け惜しみでも強がりでもなく、ね」

「姫様……」

「もちろん、社交界ではわたしが見捨てられただとか、女らしくないだとか、色々と笑われるでしょうけれど。口さがない者達には言わせておけばいいの。昔、御父様も御兄様もおっしゃっていたわ。どうせ王族など、噂されているうちが花というものだと」

「……変わられたのですね、姫様」

「やりたいことが分かっただけよ。ひとまず、見習いの身から昇格しなければならないわ。修練は続けます」

「かしこまりました。雨も止んだようでございます。私も微力ながら姫様をお支えいたします」


 侍女は深々と礼をした。


「そう。おまえの忠誠に感謝を」


 リディアは再び木剣を手に、庭へ出ようとしてーー足をを止めた。


「まあ、美しゅうございますね!」


 侍女が感嘆の声を上げる。


「女神の祝福ーーううん、それは都合が良過ぎるかしら?」


 空にかかった虹を見上げて、リディアも淡く微笑んだ。


米の名は…「天のつぶ」(福島県)

 2011年にデビュー。東日本大震災の復興のシンボルでもある。しっかりした食感が特徴。

 「にじのきらめき」

 高温耐性、耐倒伏性を持つと同時に、良食味で多収。縞葉枯病にも抵抗性がある。

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