12.ささやかな願いは、暴風と共に
抜けるような青空の下。
トールは珍しく、完全装備に身を包んでいた。
聖鎧装イージィスを鎧として身に着け、聖剣イクスカリバーを腰に下げている。最近忘れかかっていた勇者らしい姿である。
セレストとフェンは魔法職のため鎧こそ着けていないが、厚手のローブを羽織った旅装であり、二人とも杖を携えていた。
三頭の馬が連れてこられ、鞍が載せられる。馬は賢い。その辺の軽い外出ではないことを見抜き、やる気たっぷりに鼻を鳴らした。このところ乗る機会が少なかったため、馬達も運動不足だったようだ。
「よく分かるな。そう、久しぶりに遠出するんだ。よろしくな」
トールは馬の首筋を撫でてから、小さな砂糖の塊を食べさせた。これはただの砂糖ではなく、セレストが作った魔法薬を染み込ませてある特別製だ。
セレストとフェンも、同じものをそれぞれ馬に与える。
そして三人は馬に跨った。
「よし、行こうか。セレスト、フェン」
「お任せください」
「ああ」
まずセレストが馬上で杖を掲げた。
「至高なる女神ルリヤの名において……」
淡い輝きが生じ、支援魔法〈身体強化〉と〈疲労軽減〉〈持続回復〉が一行を包む。
「風よ翼となれ――」
続いてフェンが杖を構え、風属性魔術を行使した。身を軽くする〈軽量化〉と、騎馬行を後押しする〈追風〉だ。
さらにトールもイクスカリバーを抜き、勇者の固有スキルを発動する。
〈戦意高揚〉と呼ばれ、自身や味方を鼓舞する能力であった。
「出発!」
三人は馬を駆って走り出した。
行き先はもっとも近在であるスピノ伯爵領、領都スピノエス。
目的は――
「買い出し?」
「はい。食材が残り少なくなってきまして」
「そうか、なんだかんだで三カ月……四カ月? そのくらい経ってるもんな」
元は栄えていたと言うが、魔族に根こそぎ掠奪されたイナサーク辺境伯領。当然ながら商店の一軒も無い。
では食料をどうしていたのか。その答えは勇者スキルの空間収納であった。
討伐の旅で、勇者パーティーが赴くのは補給を受けにくい場所が多かった。そこでトールがこの能力で、大量の物資を持ち歩いていたのだ。家一軒分くらいは余裕でしまっておける。
今回もそれと同様で、王都で買い集めた食料やら何やらをほぼ全量、トールが運び込んでいた。
食べ物は異空間収納に入れておくと、傷みにくいという利点もある。セレストが屋敷の食料庫や冷風庫(冷蔵庫のような魔道具)、トールの空間収納を使い分け、主婦のようにうまくやり繰りして、ここまで持ちこたえてきたのだが。
さすがに底をつき始めているという。
なおトールはセレストに言われるまま、品物を出したり預かったりしているだけで、自分の空間収納なのに在庫をあまり把握していない。
セレストとは対照的な駄目っぷりである。
「連絡して届けてもらう方法もありますが……実は神殿へ顔を出しておきたい用事もありまして。共にスピノエスへ行っていただいてもよいでしょうか?」
真面目なセレストが、律儀にお伺いを立ててくる。
「うーん、もちろんと言いたいんだけど」
スピノエスまでは馬で片道一週間。つまり往復二週間で、領都の滞在を含めると半月以上も留守になる。つまり長期間、田んぼを放っておくことになるのだ。
田植えは先日ようやく完了したが、まだまだ苗は小さいので不安が残る。トールは農業初心者なのでなおさらだ。
だが、運搬役のトールが同行しない選択肢は無い。
「短縮すりゃ構わねえだろうが」
フェンがこともなげに言った。
「セレストとオレと、お前のスキルで盛りまくれば片道三日ぐらいになる。頭を使え」
人差し指で、トールの額をびしびしと突つく仕草をするフェン。頭蓋骨の中身は空っぽかと暗に言いたいらしい。
「それ魔王城征く時にやったやつだよな? 大丈夫か?」
「勇者の力を農業には使うくせに、セレストのささやかなお願いには出し惜しみすんのか?」
「うっ、言われてみれば」
「今回『も』、タンボのせいで長い留守にできねえんだぞ。農業のためなんだから、利用できるもんは何でも利用しちまえ。お前のいつも通りじゃねえか」
そういう訳で。
トール達は準備に一日費やした後、本気度の高い決戦仕様に身を固め、少し遠いお隣さんへと出立したのである。
風よりも疾く、買い物をするために。
チートの無駄遣いなどと言ってはいけない。
いつものことなので。
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馬達は三人を乗せ、爆発的な速度で走っていく。
まず通過したのは、トールの水田だ。
『しばらく不在となるならば、稲どもにも言うておけよ』
『うむ、貴公が誠意を見せるのが一番大事なのだぞ』
イクスカリバーとイージィスの言葉に従って、トールは昨日、水田を回ってごく微弱な魔力を流し込んでおいた。
そんなので大丈夫か? という気もするが、そこは勇者の相棒たる彼女達を信じるしかない。異世界の不思議ということで、トールは無理矢理に自分を納得させたのであった。
聖剣と聖鎧装――彼女達は長い時を経た、知恵あるマジックアイテムである。その忠告には重みがあるはずなのだ。
無責任勇者こと、先代ラヴァエロさえ絡まなければ大丈夫だろう。
多分。
水田は、手植えとしてはかなりの面積だが、領地全体から見れば小さな点のようなもの。すぐに田園風景は途切れた。
次に現れるのは無人の荒地……ではあったが、以前とは少し様子が違う。
土の色が濃く、黒みを帯び、ぽつりぽつりと丈の低い草がのぞくようになっていた。
セレストとフェンが開拓を進めている場所である。
魔族に破壊され、自然に存在していた魔力さえも奪い尽くされた土地。その回復には数十年から数百年単位の時間がかかってしまう。
ラクサ王国や周辺国には、沙漠化した地がいくつか存在しているが――多くは過去に魔族の侵略を受け、回復が進まないことが原因だ。
イナサーク辺境伯領も、その最初期に当たる。
そこでトールが田植えに勤しんでいる間、セレストとフェンは暇な時間を活用して、周辺の地力回復を試みていたのであった。
農業魔法の使い手であるセレストは、これが神官として本業の一つ。フェンは本人いわく「農業は専門外」だが、基本は押さえているという。分担を決めて少しずつ手入れし、成果も出てきたところだそうだ。
(せっかくだから、しばらくのんびりすればいいのに。二人とも割と仕事好きというか)
この辺り、ラクサは日本に似ており、勤勉で几帳面な国民性がある。
田植えが終わったトールも今後、手が開いた時に手伝うつもりだ。
(イクスとイースも、参加させろって言いそうだもんな)
そんなことを考えているうちに、小さな開拓地も後方へ流れていく。
そして、延々と終わらない真の不毛地帯が始まった。
変わり映えのしない景色の中、トールを先頭にした三騎は砂塵を巻き上げながら駆け抜ける。
馬達の様子が少々心配だったが、現在のところ問題は無さそうだ。
(体感で一時間半か、もう少し……二時間近く走ったかな? そろそろ休憩入れるか)
魔法的な強化を重ね掛けしているが、そもそも馬は普通に乗るだけでも、結構体力を使う。加えて後続の二人は、複数の魔法/魔術を常時発動しながらの騎乗なので、余計に疲労が溜まりやすい。
セレストもフェンも、この程度でへたばるほどやわではないが、無理は禁物だ。
一人だけ楽をしているように見えるトールも、実は〈戦意高揚〉以外に色々やっている。
分かりやすい部分では、魔力で作った障壁を前方に展開し、風圧や砂埃をよけている。これは聖鎧装イージィスの権能を応用したもので、ガラスのように透明でありながら、生半可な攻撃ではびくともしない防御力を併せ持つ。
もう一つは〈献身〉という、少々物騒な名前のスキルを使用している。その名の通り、周囲の者が受けるダメージを一定程度、勇者が肩代わりする能力である。
今回の有効範囲はもちろん二人の仲間で、セレストとフェンにのし掛かる体力的・魔力的な消耗も、過半はトールが引き受ける仕組みになっていた。
トールが自身も含めて三人分のダメージを浴びることになるが、そこは勇者の馬鹿力。このくらいは全くもって痛くも痒くも無い。
さながらゲームのHPゲージを眺めるくらいの気軽さで「ちょっと削られてるかな……? 自動回復してるから別にいいか」という感覚だ。
我ながら、化け物じみた存在になってしまったなと思わないでもない。
さらに〈献身〉は、トールに撥ね返るダメージからの逆算で、ごく大雑把にではあるが仲間達のHP・MP管理めいたことも可能であった。
無論ゲームと違って数値が見える訳ではないにせよ、戦闘で誰をカバーし、誰の損害に目をつぶるのか、パーティーリーダーとしてのトールが最後まで頼りにしたスキルでもある。
恐らくこの力が無ければ、平和な日本から召喚された普通の高校生が、魔王なんぞと戦うことはできなかっただろう。
(セレストもフェンも、余力は十分あるな。でも――)
故郷の高速道路でも、二時間も走れば一息つくものだったはず。トールは休憩を挟むことに決め、片手を上げて合図した。疾走する馬上で喋ると舌を噛むので、声はかけない。
後ろをちらりと確認すると、二人にも伝わっているようだ。トールは徐々に馬の速度を落としていき、セレストとフェンがそれに続いた。
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「嵐だ……嵐がやってくる……!」
同時刻、領都スピノエス。
伯爵邸の執務室で、一人の男が頭を抱えてうめいていた。
「本当にお出でになるのか……あの勇者殿が……こんな何も無い我が領に」
男の名はストゥーム。当代スピノ伯爵である。
「田舎の中の田舎、吹けば飛ぶような小領に、一体どのような用事がお有りなのだ……ま、まさかと思うが、私に落ち度でもあったというのか?!」
ストゥームは貴族的な容貌を持つ、なかなかの美男子だ。
決して無能な人物ではないのだが、物事の捉え方が大袈裟かつ不測の事態に弱かった。
「あなた。落ち着いてくださいませ」
若き伯爵が悶絶しているとドアが開き、怜悧な声と共に伯爵夫人ヴィルマリーが入室する。
「おお、ヴィルマリーよ!」
ストゥームはさっと背筋を伸ばした。
淑やかな紺色のドレスをまとったヴィルマリーは、夫とは正反対に、冷静そのものの表情である。
「確かにここは辺境ですけれど、勇者様のご領地の隣ですわよ。あちらは今まさに復興の途上で商店も無いのですから、ちょっとしたご用事でも我が領へいらっしゃるのは当たり前です」
ヴィルマリーがぴしゃりと言った。
「このスピノ伯爵領とて、そう卑下したものでもありませんし。ご自覚なさって」
「う、それはそうなのだが」
口ごもるストゥーム。だが、これはヴィルマリーの方が正しい。
スピノ伯爵領は元々、穏やかな農村地帯で、これと言って特色のない田舎であった。
隣にあった旧辺境伯領が一番に栄えており、スピノはその他大勢に過ぎなかったのだ。
だが魔王軍の侵攻が始まり、事情が変わった。旧辺境伯領が滅び、スピノ伯爵領の近くにラクサ王国の前線基地が作られ、領都スピノエスは補給拠点となって機能した。
魔王の討伐後、基地は解体されたが、旧辺境伯領は更地のまま。つまりスピノ伯爵領が、近辺で一番の規模になってしまったのである。
折りしも伯爵家は当主が亡くなり、ストゥームが跡を継いだばかりだった。
ストゥームは気が小さいながらも堅実な内政手腕の持ち主であり、田舎の領地を治めていくなら何の問題も無い男だ。
だが、いきなり地方一番の都市に昇格し、さらに勇者の領地の隣などという大舞台へ引っ張り出されるとなると、彼には荷が重過ぎた。能力はともかく、性格的に。
そこで周囲が気を回し、王都でも才媛として知られていたアドマイヤ伯爵令嬢ヴィルマリーが嫁ぐことになったのである。
当初は夫婦仲が心配されたが、案外に良好だ。
ストゥームが妻に頭が上がらないだけ、とも言えるが。
「し、しかしだな。このたびは常識外れの早駆けだというではないか。明後日にはご到着されるのだぞ? 変事があったゆえかもしれん!」
「ルリヤ神殿への〈伝書〉にも、目的は物資の補給その他、と書かれていたのでしょう。要はお買い物をなさるというだけですわ」
「その他、というのが不安なのだ!」
ストゥームは元から色白の顔をさらに白くし、だらだらと脂汗を垂らしている。
「それに勇者殿だけではない。『白衣の聖女』殿と『業火の魔術師』殿もご一緒だとか。何かあれば我が領など一瞬で消滅するぞ?! 恐ろしくてならん……!」
本人達が聞けば嫌がるであろう二つ名を、ストゥームは口にした。
戦場で最前線へ出ても、返り血一つない真っ白な神官服のまま帰還してくる「白衣の聖女」。
火属性の魔術を駆使し、敵魔王軍を次々と焼き払って灰に変えていった「業火の魔術師」。
勇者トールが召喚される前から、魔王軍との戦いにおいて、この二人はそれなりにその名で知られていた。
当人に言わせれば、
「血と泥にまみれながら生還したこともありましたけれど。それも何回となく」
「火が一番使いやすいのは事実だが、万能でも無敵でもねえぞ。馬鹿馬鹿しい」
――と、いうことになるのだが。
娯楽の少ない戦場では、とかく噂話が尾ひれを増やしながら拡散してしまうことが多い。それで、二人とも自分から名乗ったことなど一度もないのに、このような呼び名がいつの間にか定着してしまったのである。
そんなこととは露知らぬストゥームは、椅子から立ち上がって室内をうろうろし始めた。
「やはりあれだ。領都を挙げて歓迎の宴くらい催さねば、不興を買うのではないか?! ヴィルマリー、今からでも準備を」
「いい加減になさいませ」
ヴィルマリーは貴族女性の必需品である豪奢な扇子をパチンと閉じて、きっぱりと叱りつけた。
「お二方とも貴族の出ではないのですよ。勇者様もほぼ庶民と同じお生まれと聞いていますわ。大仰なもてなしなど、逆効果というものでしょう」
「ううむ……では、どうすれば……!」
「普通で良いと思いますわ。他の領民や旅人と変わりなく、極めて普通にスピノエスの門を潜っていただき、ご用事を済ませていただいたなら速やかに帰還していただく、これが一番です」
「むぅぅ、大丈夫だろうか……しかしやはり……うーむ……い、いや! そなたの言葉を疑ってはいないぞ?!」
勇者襲来に怯えつつも何かに気付き、途中から首を縦にだけ振り始めるストゥームである。
「あなた? 勇者様は暴力的なお方ではありませんわよ? それとも私の知らぬ間に、勇者様から怒られるようなことをなさったの?」
「そのように大それた真似をできるはずがなかろう?! 信じてくれヴィルマリー!」
「では、私の提案を聞き入れてくださいますね? 勇者様に余計な手出し……いえ、おもてなしはしない、と」
「も、もちろんだ! 才女と名高い我が妻が言うのだからな……!」
「ご理解いただけて嬉しゅうございますわ、我が夫君」
ヴィルマリーは嫣然と、そして有無を言わさぬ美しい微笑を浮かべた。
こうしてトール達の知らぬところで、彼等の平穏は有能なる伯爵夫人の機転によって守られたのである。
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「本当に三日で着きやがった……」
「フェンが言ったんじゃないか」
「そうなんだがな……もう次はねえなコレ。一度やれば十分だ」
「二人ともお静かに。手続きをしてきますので」
荒野に次ぐ荒野を強行突破したトール達は、領都スピノエスにたどり着いていた。
伯爵領に入ってからは人目があるので、やや速度を落としたものの、あり得ない早さである。
トール達は先頭をセレストに交代し、馬を降りて領都の門に近づいていく。
今回はセレストがルリヤ神殿経由で連絡を入れているので、彼女を代表者にしてトールとフェンはそのおまけ、という体裁で街へ入れてもらうつもりなのだ。
昼下がりの時刻でも数人が門前に並んでいたが、幸いすぐに順番が回ってきた。
警備の兵が怪訝そうな顔をする。
三人してローブを着ているため、どうも警戒されているようだ。
トールも勇者だとバレては面倒なので、門が見えてきた辺りで空間収納に入れてあったローブを出し、頭巾を目深にかぶっていた。
(まあ、見た目は怪しさいっぱいだよなぁ)
他人事のように思うトール。
しかしセレストが神官の身分証明であるメダルを見せて二言、三言話すと、兵の態度が急に変わった。
ピシリと敬礼をして門の奥へ引き返し、別の人間を連れて戻ってくる。
「ようこそ、スピノエスへ」
現れたのは壮年の男で、鍛えられた身体つきといい、あちこちに小さな傷痕が残る顔といい、どう見ても一般の兵ではなく歴戦の戦士であった。
男はスピノエスの警備隊長だと名乗り、セレストだけでなくトールとフェンにも軽く目礼してから、きびきびと話し始める。
「まずは念のためにお伺いするが、皆様方がこの地へ参られたことは、内密にさせていただく――そのような扱いでよろしいか?」
口調は淡々としているが、こちらの事情を知っているようだ。
「ええ、その通りです。大袈裟にしないでくださると助かります」
セレストが微笑んで首肯すると、男も顎を引いてうなずいた。
「承知した。ならば、普通の旅人として遇させていただく。好きなだけご逗留いただいて構わないと、伯爵からもそのように申しつかっている」
「お気遣い、痛み入ります」
「では、良き滞在を」
男が門を指し示す。
トール達はセレストから順に、領都へ足を踏み入れた。
領都スピノエスは、辺境ながらも活気のある街である。
露店が並び、客寄せする声や値段を聞く声、他にもさまざまなざわめきに満ちていた。
「久しぶりだなぁ、こういうの」
「そうですね、辺境伯領は静かですから。女神へのお祈りがはかどりますので、わたくしはあちらも気に入っていますけれど」
「よく平気だよな、お前ら。オレはあんまりにも静か過ぎて耳がおかしくなりそうだったぜ」
フェンが買い出しについてきたのは、街が恋しかったからでもあるようだ。
トールは苦笑しながらセレストを見た。
「これからどうする、セレスト。真っ直ぐ神殿に行くってことでいいか?」
「ええ、お願いいたします」
ルリヤ神殿はアプロードス聖王国に総本山を持ち、各地にも多くの神殿がある巨大な組織だ。
ラクサ王国でも王都はもちろん、伯爵領クラスならば神殿が建っていることが多く、スピノエスも同様であった。
「ようこそ、女神の子等よ……」
神殿に到着すると年嵩の女性神官が現れ、深々と礼をした。
勇者とその一行と知ってはいるようだが、セレストが事前に言い含めてあったのだろう。先程の警備隊長もそうだが、勇者だなんだと騒がずに済ませてくれるのがありがたい。
セレストは彼女と少し立ち話をした後、トールとフェンを振り返った。
「わたくしはこのまま、神殿に泊めていただけるそうです。お二人は別に宿をとってくださいますか? 明朝に合流ということで」
「分かった。何かありゃ連絡してくれ」
フェンが了承し、トールも目立たないように黙ってうなずく。
セレストは女性神官の案内について行こうとし……不意に足を止めた。
「それからフェン」
「ん?」
「トール様を妙な店などへお連れしないでくださいね?」
「……何でオレに言う。本人がそこにいるだろうが」
「悪巧みをしそうなのは、主にあなただからです」
「信用ねえなー……」
苦い顔で手をひらひらさせるフェンであった。
✳︎✳︎✳︎
「オレ達はどうするよ?」
セレストを見送って、フェンが言う。
「そうだなぁ……食料を買うのだって、何をどれくらいとか、値段の交渉とかは全部セレストの担当だし。ひとまず、こっちはこっちで早めに泊まる所を探すか?」
「確かにな。今日ぐらいはベッドで寝たいぜ」
「そんなに違うか……?」
「常識外に頑丈なお前と一緒にすんな。宿屋街だな、じゃあこっちの方だ」
フェンはさっさと歩き出し、トールが続く。
「フェンはスピノエスに詳しいのか?」
「それなりだ。お前が召喚されるまで、オレが居た前線基地はこの近くだったんでな。セレストはあっちこっち転戦してたが、あいつも一時期居たことがあった」
「なるほど。俺は来たことなかったよ」
これまでトールがイナサーク領へ行き来する時は、王都から別の街道を進み、山越えするルートを使っていた。スピノエスを経由すると五日ほど旅程が延びてしまうためだ。
ただし。
「今はスピノエス経由が普通だからな」
フェンに釘を刺されてしまった。
山越えルートも昔は使われていたが、旧辺境伯領の陥落に伴い、魔王軍の侵攻を防ぐため、最近まで閉鎖されていたそうだ。
現在は通行可能だが、宿場町がなくなってしまい事実上使われていないという。
「全く、お前ぐらいだよ。移動時間が嫌いだからって無茶しやがるのは」
「嫌いって訳じゃ……うーん、でもそうなるのか」
日本は国土が狭くて交通網が発達していたので、移動だけで一日以上、というのがトールの感覚に合わない。
こっちには飛行機も新幹線も無いので、時間が掛かるのは当たり前なのだが。
良くも悪くも、そこを短縮できるのはトールが勇者だからである。
「フェンとセレストには悪いけど、今回もサクッと済ませて帰りたい……稲が大丈夫なのか心配だし」
こうして、嵐のようなスピノエスでの滞在が幕を開けたのだった。
米の名は…「風さやか」(長野県)
清々しい空気の中で育つことから命名された品種。爽やかな香りとほのかな甘さを特徴とする。