11.龍の瞳が、見たものは
伊奈佐龍造は、稲作農家である。
日本のどこにでもあるような、小さな農村で生まれた。
少し変わったところと言えば、目立つのが大嫌いで、人付き合いの苦手な偏屈者だということくらいであろう。
そんな龍造にも友がいた。
同じ村の隣近所で生まれ育った悪ガキ仲間である。
龍造とは違って口が達者で、手先が器用な子供であった。
戦時中で食べ物は乏しかったが、友は龍造と山菜を探したり、川で小魚を集めて出汁をとったりして、不思議なほどうまいものをこしらえる才能があった。
だが、次第に、本当に食べられるものがなくなった。村にも焼夷弾が降り、家が焼け、田畑が焼け、山が焼けた。そして龍造も友も痩せ細って目ばかりぎらぎらするようになった頃、ようやく、長かった戦争が終わった。
平和になって数年が経ち、友が都会へ行くと言い出した。料理人になりたいのだという。
龍ちゃんも俺と行かないか。
そう誘われたが、龍造は断った。親が残した田んぼがあったから。友は淋しそうに、けれど吹っ切れたように笑って、一人で村を巣立っていった。
龍造は米を作り続けた。
縁に恵まれて結婚し、息子が生まれ、大きくなっていった。
だが、その背丈が龍造を追い越した頃、急な病で妻が消えた。他界した実感も沸かぬほど、あまりにも突然に。
胸に穴が空いたような気がしたが、龍造は田んぼへ行った。息子には薄情だと罵られたが、他にすることを思いつかなかった。
やがて息子が成人し、友のように都会へ出て行った。田んぼは継がなくていい、と龍造が言ったからだった。
龍造の口下手と人付き合いの不器用さは相変わらずで、たまに米作りの秘訣を聞かれることもあったが、うまい説明などできた試しがない。
新聞だろうが雑誌だろうが、村や農協のおたよりだろうが、取材と名がつくものも、ことごとく断ってきた。たとえ相手が息子であっても、いや息子だからこそ、米作りを教えること自体が、龍造には難しかった。
息子は他にやりたい仕事もあるようだから、きっと、これで良かったのだ。
龍造は米を作り続けた。
ある日、息子が電話をかけてきた。今まで、年賀状の一枚も寄越さなかった息子が。
結婚して男の子、つまり龍造の孫が生まれたという。
めでたいことだ。だが息子は続けて、とんでもないことを言い出した。孫の名前を付けてほしい、というのである。
そんな大事なもの、お前と嫁さんで考えろ。そう答えたが、聞けば名付けで大もめしているらしい。候補の一つで良いから、と押し切られ、龍造はひとまず受話器を置いた。
どうしたものか。
困った時のいつもの癖で、龍造は仏壇にいる妻を見た。
とりあえずやってみたら? 妻なら多分、そう言うだろう。
そうするか。龍造は紙とペンを持って来てメガネをかけ、何枚も書き損じを作った末に、ようやく一枚だけ、きれいに書くことに成功した。封筒に入れ、箱に詰めた米やらお祝いやらと一緒に郵便局へ持っていった。
数日後に息子から返事が来て、おやじが考えた名前に決めた、と言われた。
枯れ木も山のにぎわい、ではなかったのか。しかし息子と嫁さんが納得しているなら、龍造も文句はない。
龍造はその夜、仏壇の前で晩酌をした。妻も大人しげに見えて、実はいける口であったから、きっと向こうで呑んでいるだろうと思った。
その孫の顔を初めて見たのは、一歳になった頃だったか。
嫁さんに抱っこされた孫を見ただけで、龍造はおのれの頬が緩むのを感じた。抱かせてもらうと、孫はしわだらけの顔が珍しかったのか、恐る恐る触れてきた。温かく小さな手だった。
そしてこの孫は、実によく飯を食べた。新米を軟らかめに炊いたものを、わしづかみにして口に押し込み、もっちゃもっちゃと噛んでいる。
龍造は感心したが、息子と嫁さんは慌てていた。普段は食の細い子だという。どうやら孫は、米の味の違いが分かるらしい。
三人が帰る時、龍造は山ほど自分の米を持たせた。息子の車はトランクいっぱいに米袋を詰め込まれ、重たそうにタイヤを転がして去って行った。
入れ替わるように友が来た。久々の帰郷だった。
飯を出してやると、友はやけに時間をかけて咀嚼した。食べ終わると不意に正座をし、深々と頭を下げた。
日本料理の板前になり、そこそこの地位を築いた友も、年を取って引退した。だが今度は自分で小さな店をやるという。そして店でこの米を使わせてくれ、龍ちゃんの米じゃなきゃ駄目だ、というのだ。
龍造は人から注目されることが、心の底から嫌いである。
しかし、友にそうまで頼まれて、うなずかない農家がいるだろうか。
龍造は米を作り続けた。これまでよりも、輪をかけて熱心に。
息子一家が時折、顔を見せにやってきた。
孫はあっという間に大きくなり、ちょこまかと龍造の後を付いて回る。
あれはなあに、これもなあにと無邪気に聞かれるので、龍造は非常に苦労して説明した。おやじって、そんなに喋れたんだなと息子に笑われた。
全く、孫の可愛さは特別だ。思えば息子にも可愛かった時代があったはずだが、今はいかつい中年になってしまった。龍造はいつも通り黙ったまま、息子と酒を酌み交わした。
龍造は米を作り続けた。台風が来た年も、地震が起きた年も、暑い年も寒い年も。
そしてある朝、普段通りに起きて飯を済ませ、茶を一杯飲み、身支度やら何やらを終えて、田んぼへ行こうと家を出て。
何の前触れもなく足がもつれた。
そこから先の記憶がない。
気付くと病院のベッドに寝ていた。身体は痺れたようになって動かず、恐らく卒中か何か、致命的な出来事が自分の身に起きたと分かった。
八十歳を超え、健康には気を付けていたつもりだったが、ままならぬものだ。いろんな機械につながれて、かろうじて、まだ生きてはいるが。
友が見舞いに来て、涙ながらに言った。無理をさせたのではないか、すまなかったと。
そんなことはない。
いくら龍造でも、米作りは楽しく美しいことばかりではなかった。
雨が降らず、田が干上がりかかったこともあった。
稲刈り直前に強風で薙ぎ倒され、悔しさに歯噛みしたこともあった。
ここ数年は体力の衰えも感じていた。
あとどれほど米作りができるのか、考えない日はなかったと言っていい。
心が折れずに済んだのは、
龍ちゃんの米じゃなきゃ駄目だと言った友と、
じいちゃんのご飯が一番うまいと言った孫、
二人の顔が思い浮かぶからだったのだ。
高校受験を終えた孫も来た。随分と背が伸びていた。少し大人びてきた顔で、じいちゃん、俺はじいちゃんみたいな稲作農家になるよと言った。
稲作農家。
それがどんなに困難な道であるか、この孫は知らないのだろう。
自然が相手で、ほとんど思い通りになることがない。それでいて、米は作っても作っても儲からない作物だ。
だが、あるいは。
この孫なら、いつか、やってのけるかもしれない。
一度決めたことは最後までやり通す。そういう諦めない心を持つ人になれるよう、龍造が名前を付けたから。
徹、とーー。
ふと見れば、枕元に妻がいた。
ずっと昔、初めて顔を合わせた時のような姿で。
どうやら、その時が来たようだ。
しかし、きれいなのはいいが、少し若作りし過ぎではないかと龍造は思った。
自分はしわだらけのじいさんになってしまったのに、まるで釣り合いが取れないではないか……。
妻が微笑んで、大丈夫よと言った。
その背後で風に揺れる、一面の稲穂が見えた気がした。
龍造の周囲がにわかに騒がしくなり、医師や看護師の足音が入り乱れる。「ご家族に連絡を」という声も飛ぶ。
だが龍造は少し目尻を下げて、ただ稲穂が静かな風になびくさまと、懐かしい妻の面影だけを、遠い眼差しで追いかけていた。
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ラグリス大陸ラクサ王国、イナサーク辺境伯領。
水が張られた水田で、小さな稲の葉がなびく。
半分は直播され、いくらか不ぞろいながらも伸びる苗。
もう半分は育苗を終え、勇者がせっせと手植えしている。
「トール様ーー」
聖女セレストが、バスケットを手にやってくる。
「少し休憩を取ってください。軽食を持って参りましたので」
「了解、ありがとな。じゃあ、この端っこまで植えちゃうから」
トールは一応、田植えはやったことがある。
祖父は田植え機を使っていたが、田んぼの隅の方は機械が入れず、手で植え直す必要があり、トールも何回か手伝った。と言っても子供だったので、祖父の助けにはなっていなかったものと思われる。
加えて小学校でお米の授業というのがあって、田植えと稲刈り体験をやった。こっちは作業どころかアホな男子同士で泥団子のぶつけ合いをやって、怒られた記憶の方が鮮明ではあるが、未経験よりはましというものだ。
それでも最初はかなり苦戦し、顔面から泥に突っ込んだり、足が抜けなくなってつい勇者の本気が出てしまい、田んぼを破壊しそうになったりと色々あったもののーー数日たてば慣れてくる。
田植えぐらいは他人任せにせず、自分でやろうと思っているため、フェンやセレストの助力も遠慮して一人でひたすら作業を続けているトール。おかげで、段々と真っ直ぐ植えられるようになり、作業スピードも上がっている。
この辺りは、トールの身体能力が大幅に強化されている恩恵だと言える。
ただの農業初心者なら疲労困憊しておかしくないところを、勇者チートで強引に押し通っている状態であった。
勇者は異世界でも最高峰の暴力装置であるから、ブラック企業もびっくりな継戦能力を備えている。
実際、魔王との最終戦ではトールが常に前衛を担当し、数日にわたって不眠不休かつ、ほぼ飲まず食わずで死闘を繰り広げた。
あんな無茶は二度とやりたくないが、その気さえあれば昭和な宣伝にあった二十四時間どころか、それ以上でも戦えるのだ。
トールはきりの良い所まで植え終わり、水魔法と清浄魔法で身体をさっぱりさせてから、セレスト手製の軽食をつまんだ。
ラクサ的なサンドイッチで、ハムやチーズの塩気がちょうどいい。少し遅い昼食兼、お茶の時間といったところだ。ちなみにラクサ周辺は昼食をとる習慣がなく、お腹が空いたら何かつまむ、というケースが多い。
「うん、うまいよ」
「わたくしにできるのは、このくらいですから……トール様お一人でよく、ここまで頑張っていらっしゃると思います」
「まあ、このぐらいはね」
トールはセレストの隣で、半分ほど植え終わった水田を一望する。
壮観、と言っていいのかどうか。
さらさらと水路を流れていく水。一応は真っ直ぐに整形された田んぼ。トールの手植えで、ところどころ蛇行してはいるものの、とりあえず根付いてはいる苗。
プロであった龍造の真似が、そう簡単にできたら苦労はない。
初めてにしては悪くないはず、と思うのだが。
「目標はじいちゃんだからさ。じいちゃんだって年寄りなのに自分でやってたんだから、俺もその程度はできるようにならないと」
「ですがトール様のお爺様も、魔法に代わる技術を使っていらしたのでしょう?」
「まあ、ね……でも子供の頃は知らなかったけど、実はじいちゃんって、かなり凄い農家だったらしい」
祖父が米作りのレジェンドと言うべき存在だったことーートールがそれを知ったのは、皮肉にも龍造が亡くなった後であった。
「目立つのが大っ嫌いで、米の品評会とかコンクールとか絶対出なかったらしいけど。知る人ぞ知るゴッドハンド的な?」
龍造の通夜に参列した人、みんながそっくり同じことを言うのである。
祖父の親友という人も来ていたが、これがまた引退はしたものの、とある高級料亭の板長だったという経歴の持ち主で、そんな人まで龍造の米は特別だったと口をそろえていた。トールだけでなく、両親も驚いていたものだ。
「ほんと、じいちゃんの米で炊いたご飯ってこう……うまく言えないけどめちゃくちゃおいしかったんだ。田んぼも、いつ見てもきれいで稲がビシッとしてた」
トールは食後の茶を飲みながら、そう話した。
祖父からもらう米が美味であったのは、トールもよく覚えている。
米本来の甘みなのか噛み応えなのか、粘りやこくというものなのか。グルメリポーターでもないトールだと「とにかくうまかった」というフワッとした言い方しかできないのが残念だ。
それだけすごいのに、自慢どころか人に注目されるのが嫌だ、というのだから、祖父も変わっている。
トールには優しいおじいちゃんではあったが、それ以外のことーー特に米作りに関しては一切、妥協をしない厳しい人。それが伊奈佐龍造であった。
「じいちゃんがこの田んぼ見て、怒らないかちょっと心配なんだよなー」
「トール様は農民ではなかったのですから、お爺様も分かってくださると思いますよ」
「だといいけどなぁ」
「そんな気難しいお爺様なのに、トール様には稲作について教えてくださったのでしょう? それはもう可愛がられていたかと」
「まあ、そう思っておく方がいいかな。ありがとなセレスト」
トールは空になった食器をセレストに返した。
「いえいえ、お気を付けて。日が落ちる前には帰ってきてくださいね」
「うん、また後で」
トールは再び田んぼの中へ戻っていく。
セレストはまぶしいものでも見るように、目を細めてその後ろ姿を見送った。
米の名は…「龍の瞳」
岐阜県で発見された「コシヒカリ」の突然変異種。品種名は「いのちの壱」。栽培基準を満たすものだけが「龍の瞳」の名で流通する。