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9.緑と豊かな実りのために、水田は萌えているか

 イナサーク辺境伯領に、春の足音が近付いている。

 吹く風はまだ冷たいが、水や土は少しずつ温み始めていた。


 トールが屋敷の庭に植えたアルモーの木も、つぼみが膨らんできたようだ。

 まだ若く、シャダルムの背丈くらいしかない木だが、トールは花を楽しみにしていた。

 アルモーは、地球のアーモンドに似た樹木で、色はピスタチオ、形や風味はアーモンド、という感じのナッツが取れる。討伐の旅の最中、訪れた町で見かけ、トールが一目で気に入った。


 なぜなら、桜そっくりな花が咲くからだ。


 その町はアルモーの(ナッツ)が特産で、広大なアルモー畑があった。ちょうど春だったので、一面の花吹雪が舞っていた。

 日本には帰れないが、いや帰れないからこそ花見がしたい。

 トールはそう思って、屋敷の建築と同時にアルモーの木を取り寄せ、植え付けることにしたのだった。

 幸いにも農業魔法の得意なセレストが手伝ってくれたので、うまく根付いたようだ。

 順調にいけば、遠からず花が咲くだろう。


 しかし、その前に一大イベントが待っている。

 農作業シーズンの到来だ。


「よし。育苗して田植えだな!」


 ようやく、増殖した種籾の出番である。

 ……と思ったのだが、現実はそう甘くなかった。



「イクビョーンとは何ですか?」


 セレストがまたしても困惑している。

 トール、セレスト、フェンの三人は、屋敷の食堂で茶を飲みながら、今後の計画を話し合っていた。


「イクビョーンじゃない、育苗な。種籾をまいて、小さい苗を育ててから水田に植え替えるんだ」


 丁寧に説明したはずが、セレストの傾いた首が元に戻らない。


「ナエを育ててから……?」


「え、苗が通じない? マジで?」


「いえ、作物が芽を出したばかりの小さい状態ですよね? それは分かりますが。まずその、一度植えたものを抜いて、再び植えるというのがちょっと」


「やらないのか?」


「やりません。農業魔法〈マギ・カルチュア〉の構成が崩れてしまいますので」


「へえ、違いがあるものなんだなぁ。異世界の農業怖い」


「そいつはこっちのセリフだぞトール。お前の国の農業ってどうなってんだ」


 ラクサでは稲に限らず「移植栽培」をしないという事実が発覚する。

 つまり畑へ種を直まきし、種を保護して発芽を促進する農業魔法陣を描いておく。

 作物が芽を出し、生育すると段階に応じて農業魔法の方を切り替えていき、作物自体はその場から動かさない。そういう技術体系なのだ。


「魔法を使わない農業だからな、絶対に移植をするなとは言えん。だが、うまく行かない可能性も考えた方がいいんじゃねえか?」


 フェンが茶を啜りながら、難しい顔で助言する。


「リスク分散か、なるほどな。一部、直まきも試してみるか……」


 稲の直まき栽培は、確か湛水直播(たんすいちょくは)乾田直播(かんでんちょくは)の二種類が主流だったはずだ。

 育苗、田植えの手間が省ける一方、雑草が生えやすく、鳥に食われやすいことなどが難点だ――祖父・龍造がそう言っていた。

 その祖父も興味は持っていたようだが、結局、直播の導入はしなかった。

 龍造は何より米の旨さにこだわっていたため、味が変わってしまっては困ると考えていたらしい。


「とはいえ、植える面積も増えちゃったし……簡単にできるっていうのは、結構いいよな」


 本来、直播栽培の種籾は金属などで薄くコーティングすると聞いた気もするが、異世界では技術的に難しいだろう。第一、トールの知識も経験も足りない。


 それでも実行するなら乱暴な方法になってしまう……が、何しろこちらにはトラクターも田植え機も存在しない。

 全て手作業になることを考えると、


「試してみる価値はあるな」


ということになった。

 現在のイナサーク辺境伯領は、草木の一本も生えておらず、鳥も飛んでこない。

 少なくともしばらくの間、雑草や鳥害は大丈夫そうだという楽観的な期待もある。


「じゃあ単純だけど、半分ずつ?」


「かしこまりました。ではイクビョーをする分の土と、ナエバコ……苗の入れ物ですね。手配します」


 しっかり者のセレストが、育苗用の箱や土の注文を引き受ける。

 特に育苗用の箱は、この世界には全く存在しなかった物品なので、おそらく特注になるだろう。


 当然それなりにお金もかかるが、今のトールは魔王討伐の報奨金がある上に、死ぬまで年金がもらえる。

 魔族に荒らされた土地の復興を行う、という名目で補助金も支給され、いざとなれば融資も受けられるので、金銭面では日本で就農するより有利かもしれない。

 勇者として命を張った甲斐はあったといったところか。今後の人生、よっぽど散財しなければ大丈夫だろう。


 国庫は平気なのか? という心配もあるが、ラクサはもともと豊かな大国である。

 また、先代ラヴァエロに比べると、トールはかなり「安上がり」な勇者であるらしい。

 後宮を築いた上、女遊びが激しかったラヴァエロは金食い虫だったようだ。今と貨幣価値が異なる時代とは言え、


「恐らく、トール様の三倍は軽く超えるでしょうね」


とセレストが言っていた。



 ともかく、トールとしては十分に潤沢な資金があって、ありがたいことだ。

 王国側もトールに戦災地の復興を任せられるので、悪い話ではない。

 win-winな関係と言えるだろう。



「買う物は他にあったっけ。そうだ、肥料を……あ、やべ」


 言いかけて、トールは自らの失敗に気付いた。

 異世界農業では肥料も使わない。土を肥えさせるのは、もっぱら農業魔法の役割なのだ。

 案の定、セレストとフェンが不審そうな表情をしている。


「ええと。俺の故郷には魔法がなかったから……代わりに肥料っていう物を水田や畑の土に混ぜてたんだよ」


「そのヒリョーはどうやって入手するのです?」


「合成した肥料が主流だけど、それは俺なんかじゃ無理。でも、じいちゃんは自分で堆肥を作って、田んぼにもまいてたんだ。それなら、こっちでも再現できると思う」


「んで、どうやって作るんだ。簡単にできんのか?」


「ああ。生ごみとか落ち葉とか、後はちょっとアレな話になるけど、動物のウン……排泄物なんかを混ぜて」


 がたん! という音がした。

 セレストが血相を変えて立ち上がり、椅子が倒れた音だった。


「セ、セレスト?」


「トール様。今なんて?」


 親の訃報でも聞いたような剣幕に、むしろトールの方が怖気つく。


「いや、あの……。生ごみとか落ち葉とか……を……混ぜて発酵させて堆肥を作るんだけど」


「おやめください!!」


 最後の一つは省略したが、それでも食い気味に叫ばれた。


「よろしいですかトール様大地というものは至高なる女神ルリヤから人族が賜った尊き母なる存在なのですよそれをそのようなおぞましい汚物を故意に入れるなど言語道断女神に対する最凶最悪の大罪にして冒涜ですッいかに勇者たるあなたと言えども神殿から破門されてもおかしくないほどにこの上なく悪逆なる所業なのですよッッ!」


 息継ぎもせず、セレストがまくし立てる。


「い、いや、そのまま田んぼにブチ込む訳じゃないよ……ちゃんと発酵させて完熟堆肥にしないと逆効果だって、じいちゃんも言ってたから」


「いけませんッ! 駄目、絶対に!!」


「そんな危ない薬物の取り締まりみたいな?!」


 衝撃を受けるトールの肩を、フェンがぽんと叩く。


「トール、そいつだけはやめておけ。マジでヤバい」


「フェンまで?!」


「下手打つと魔物の餌場だ。農業どころじゃなくなるぞ」


「えええ――?!」


 ものが腐敗すると瘴気が発生する。

 それが、地球とは大きく異なる、異世界の(ことわり)であった。


 枯れ草、落ち葉、倒木、地面に落ちた果実。

 動物の排泄物、抜け落ちた体毛や羽毛、さらには死骸。


 それらが腐敗して土に還る時、そこに宿っていた魔力もまた変質し、いくらかの瘴気となって放出される。

 その瘴気を魔物が喰らい、より強く、凶暴になり、頭数も増えていく。

 魔物は新たな瘴気(エサ)を求め、活発に動き回るようになるという。


「自然界にはもともと、ある程度の浄化の力が備わっていますので、普通なら大きな問題にはなりませんが」


 縄張り争いなどで生き物がたくさん死んだり、山火事や地滑りが起きたりするとバランスが崩れて瘴気が増え過ぎ、強い魔物が生まれる。

 その結果、近くの村や町が襲われることもあるので、油断はならないのだとセレストは語った。


 人族が排出する様々なごみや排泄物、女神に魂を召された後の遺体なども同様で、放っておくと瘴気を生む。

 だから自然災害や事故ではなく故意……ごみの不法投棄や、狩りをしたのに獲物をきちんと始末せずに帰る、などというのは禁忌だ。

 瘴気、ひいては魔物を引き寄せてしまうことから、ラクサ王国に限らず、どこの国でも重い罪となる。最悪は斬首刑というから徹底的だ。

 なお、このような事情から地球とは異なり、殺人よりも遺体遺棄の方が重罪、という国が多いらしい。


「瘴気があると、魔物が増えるのは習ってたけど……」


 原因がまさかの「腐敗」であったとは、トールの想定外だった。


「清浄魔法も万能じゃねえからな」


 フェンが首を振りながら言う。

 清浄魔法はトールも使える初歩の魔法で、確かに、日常的に活躍している生活インフラだ。

 朝起きて顔を洗うのもそうだし、用を足して手を洗うのもこれ。さらに、自分が出したブツなども清浄魔法を使って始末するものだと教わって、トールも異世界のエチケットならばと思って実行していたのだが。


「あれって臭うからとかじゃなくて、瘴気を減らすためだったのか! 点と点がようやくつながったよ」


「オレ達にはガキの頃から叩き込まれる常識なんだが。トールの故郷じゃ、そうでもねぇとはな。盲点だったぜ」


「本当だな……」


 地球の肥料も、歴史的に見れば「ヤバいブツ」と隣合わせに発展している。

 日本では江戸時代、人間の排泄物は堆肥として農業利用されていた一方で、火縄銃などに必要な火薬の原料にもなっていたと言われている。


 また、化学合成肥料も爆弾の研究過程で誕生したものだ。

 現代でも肥料工場などで大爆発が起こってシャレにならない被害が出たり、れっきとしたお役所である農林水産省から「化学肥料をいきなり大量に買うやつって爆弾を製造したいテロリスト予備軍かもしれないんだからね! 注意しなきゃ駄目だぞ!(超意訳)」という通知が出されたりしているのである。


「うーん、肥料を作るのは諦めなきゃいけないか……じいちゃんはナントカ菌とか発酵液とかも色々試してたんだけど」


 龍造は研究熱心で、良さそうな物はすぐにやってみるアクティブな面もあった。


「あと何だっけなぁ……モザイクじゃなくて目隠しでもなくて……ボカシだ。あれもやってた」


 ただしトールは横で見ていただけで、詳しいことがまるで不明なのだが。


「お前が爺さん思いなのは分かるがよ……」


「ええ、お気持ちは分かりますが」


 フェンとセレストが口をそろえる。


「死にたくねぇならやめとけ」


「ぜっったいに駄目ですよ、トール様!」



 二〇二X年の日本では有機農業推進(みどりせんりゃく)と化学肥料高騰に端を発する、堆肥や下水汚泥の活用がトレンドであるのだが。

 異世界では全会一致で完全否定されてしまう。

 剣と魔法のラグリス大陸なのに、クリーンな魔法エネルギーでエコな循環型社会どころではない。

 むしろ「汚物は消毒だぁ――ッ!」なのであった。


 結論。

 現代知識による内政無双、意外と難しい。



 かくして異世界の勇者こと辺境伯トール・イナサーク、日本人名・伊奈佐徹の農業は――。


 栽培期間中農薬不使用。

 無機・有機質問わず、肥料不使用。

 農業魔法〈マギ・カルチュア〉も無し。

 ただし勇者スキル有り。


 そんな誰も見たことのない、異次元のif作へ突入していくことになる。

米の名は…「みどり豊」

 福島県の農家が「コシヒカリ」の突然変異から作出した。「コシヒカリ」よりも長稈、晩生である点が特徴。

「萌えみのり」

 多収で直播栽培の専用品種として開発。料理に合わせやすいことから、業務用としても使われる。

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