0.天高く、幕は上がる
伊奈佐徹は、平凡な高校生だった。
将来の夢が「じいちゃんみたいな稲作農家」であること以外は。
とはいえ、地方の農業系高校辺りなら、農家になりたいヤツなんて、そこまで珍しくはない。
彼が通うのは首都圏の普通高校だったから、変人扱いされていたが。
だから、ごく平凡な高校生「だった」のだ。
ある日突然、異世界に勇者として召喚されるまでは……。
もちろん、最初は戸惑った。
徹がなりたかったのは農家であって勇者ではない。
ノウカとユウシャ……ちょっとだけ似ていると言えなくもない。発音だけなら。しかし中身は全く違う。
なぜ勇者になりたいやつを召喚しなかったのか。
勇者はこの異世界の至高神、女神ルリヤによって遣わされるらしいが、どう見ても人選を間違えたのではないかと思う。
巻き込まれた徹にとっては、不運としか言いようが無い。
それでも、王様やら大神官やら偉い人達に、よってたかって拝み倒され、徹は勇者として戦うことになったのだ。
しかし、その代償は決して小さくはなかった。
勇者の能力を使いこなし、戦い方を覚え、すり寄って来る有象無象のあしらい方を身に付け……それらも大変ではあったが、その他にも彼にとって、最大の問題があったのだ。
「あ――――、米食いて――――!」
徹が召喚された異世界には、大好きな米が無かったのである。
いや、ひょっとしたら、どこかにはあるのかも知れない。
が、少なくとも徹が探した範囲には無い。他の食べ物は何となく似通った物があるのだが、稲に似た植物も見当たらないのだ。
「頑張って魔王を倒したのになぁ……」
三年ほどかけて、徹は魔王の討伐に成功していた。
しかし元の世界、日本に帰ることはできなかった。
理論上は可能、でも実際は……というやつだ。
「アレも駄目、コレも駄目。こいつは詰んだか?」
徹は草原に寝転がったまま、そっと青空へ手をかざす。
魔王が居た時は、空も黒やら赤やら、毒々しい色合いに染まっている日が多かった。だから、この美しい蒼穹は彼が取り戻したもの。世界を救った勇者として国を……全世界を挙げて感謝され、敬われ、望みは何でも叶えてくれるという。
ただし叶えられる望みであれば、だ。
皮肉なことに、徹が欲しいものだけは手に入らない。
「でもまあ、死んだじいちゃんと約束してるし……そう簡単に諦めちゃいけない、よな」
平凡な高校生だった自分が異世界召喚され、何やかんや頑張って、魔王だって倒したのだから。
不可能を可能にするのが、勇者という存在なのだ。
だから、と彼は思う。稲作だって、何とかなるのではないかと。
少なくとも挑戦くらいはしたっていいはずだ。望みは叶えると王様が言ってくれた。
それに魔王討伐と違って、失敗したら死ぬ訳でもないのだ。
「よし、決めた」
勇者はむくりと起き上がり、空へ向かってもう一度、手を伸ばした。
「異世界で、稲作農家になってみせる!」
農家になりたかったのに、勇者になってしまった男――伊奈佐徹。
彼はまだ知らない。
異世界で「じいちゃんみたいな稲作農家」になるためには、さらなる試練が待ち受けていることを。
米の名は…「てんたかく」(富山県)
気象変動に強い品種として開発。耐倒伏性に優れ、収量性が高く、良食味。