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短編集・散文集

辞書

作者: Berthe

 使い古して傷のあるヘアアイロンや、今では使う人も稀であろうが、あの頃にはそれへ好みのものだけを抽出して収めていた記憶のあるCDケースやら、高校の友達との記念がつまったポケットアルバムをはじめその他こまごまとしたものが雑然と突っ込まれているなかに、そういえば絶えて久しく見覚えのなかった電子辞書をふと見つけて、なんでここに、と詩乃(しの)はつぶやいていた。


 母と喋りたいためもあって月に二度は今でも訪れる実家の二階にある自分の子供部屋の、三人兄妹の末っ子だったためか自分用の勉強机をねだっても話をはぐらかされていつまでも買ってもらえず、代わりにあてがわれていた父のおさがりの事務机の縦に三段ならんだ引き出しの、一番下の大きいところを何というつもりもなしにさぐっていたのは、南東に向いた窓から太陽がいまだやわらかく差し込んできて、シーツのないベッドと小さく舞うほこりを煌めかせているなお正午をまわらないころだった。


 詩乃はそれを両手にしてひらいてみると、立ち現れた鼠色の画面は朝日を反射しているばかりで、電子機器としての反応はない。と、パソコンのキーボードそっくりな配列でキーが所狭しとならんでいる左端にオンオフをみつけて左の親指で何度か押してみても、画面は無風で、詩乃はひとたび辞書を閉じてひっくり返すとすぐに目についたのはまだらに茶色ばんで擦れたテープの跡である。クラスメイトのものと混同しないよう、またひとつには盗難予防のためもあって貼ってあった名前のシールをはがそうとして上手に出来なかったのを、もう思い出せはしないものの、しばしその場面が彷彿としてきて、詩乃はいつしか口もとをほころばせていた。


 ひょっとして電池が切れている? そう気がついて、両の親指で押し出すタイプの電池ぶたをその通りひらいてみると、果たして細身の空間がふたつ、隣り合って席を空けていて、ふと目にはいった裏面の枠のなかにアルカリ単4形×2と小さくかかれてある。


 思えばこの数字を知るたびごとに、詩乃はいつもきまって、その数字と電池の大きさの結びつきを忘れていることに図らず気づかされるのである。今日あらためて単4を思い出して、たちまち忘れ去るだろうことを、それでも詩乃は苦にもしない。そんなことよりも何よりも、一刻も早く電池をはめて起動したくてたまらない。


 仲良く買い物にでかけた両親が不在の一階におりて、こちらもそれぞれ結婚して家庭をつくっている兄姉二人していないため寂しい、そのためかえって穏やかな空間に浸ることもなく詩乃はすぐさま戸棚に寄ると、電池のはいっている箱を目ざとく見つけだして目当てのものを取り出した。


 木の階段をトントン鳴らせつつたちまち二階へ馳せて電子辞書のくだんの箇所にはめこみオンを押すと、相変わらず点かないので、壊れたのかなと落胆しつつ裏返すと、小さなまるにかこまれたリセットボタンがある。詩乃は今一度駆け下りて、台所でつまようじを拝借し、押して点けてを繰り返すうちついに願い叶って画面に文字が浮き出した。


 想えば高校時代ばかりでなく大学生になってからもこの電子辞書には余程お世話になったわけである。学校にはリュックを背負って行くことの多かった詩乃は、教科書や筆記用具のたぐいを大きいところへしまう一方、それとは分けて小物をいれる収納スペースに電子辞書をしまって登校した。べつにそれほどの通信量がかかるはずもないのに、語句を調べたいときにはなるべく携帯電話は避けてきまって電子辞書を利用していたし、だから一時期までの詩乃にとって、この辞書は女の身の回り品に負けず劣らずの肌身離せぬものだったのである。


 それほどまでに愛着のあった持ち物をいつの間に実家の引き出しへ突っ込んで顧みないでいたのだろう。覚えがなかった。そればかりか就職して四年ほどのあいだに、電池の不要な電子機器で検索することに慣れ切ってしまっている。長らく紙の辞書は見たことさえない。


 感傷にながれる足で階段をのぼり、二つ三つノックしてから父の書斎のドアを静かに開けて、「失礼します」と小さく断ったのち後ろ手にそっと閉めると、願いとは裏腹にひびいた音響が時を移さず詩乃の耳を打った。


 そのまま窓辺に寄って、六畳ほどの暗がりのカーテンをあけると、自分のもらったおさがりとは趣の異なる木目麗しき机の上に、果たして探していたものを一目でみつけた。詩乃は頭まで支えのついた回転椅子の背もたれに身をあずけながらペラペラめくるうちふと、思いついた言葉を引いてみて、目を見張った。自分が高校時代までいそしんでいたその部活動の項目に、濃く赤線が引かれていたのである。


 携帯電話での検索はおろか、学生時代に電子辞書さえ使ったこともないだろう父は末娘が精を出す球技についてふと知りたくなって、辞書を引き、そればかりでなく長く記憶にとどまるよう線まで引いてくれたのだろう。辞書を手に、詩乃はなかばまぶたを閉じた。それからおもむろに立ち上がると、両手に持ったそれをもとのところへ置いて表紙をさすりながら、両壁を占領する本棚に所狭しとならべられた書物からただようらしい香り高い部屋の空気を吸いこみつつ、いつも話し相手になってくれたり、なったりもする母ではなくほんとうは父の方に、どこか優しく柔らかな場所でつつまれていたのだろうか。詩乃は、新鮮な感傷にふける指先でカーテンを閉めて、背もたれの大きな椅子にゆっくり身をあずけるとしばし目をつぶった。

読んでいただきありがとうございました。

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