10,二人います。
消火具を売るために、マッチで火を放つような所業。
私がこれからやるのは、そういう行為だ。
それでも、私が【今】へ至るために必要な事。
……でも、ひとつだけ懸念がある。
これは私の【今】のために……彼の人生を捻じ曲げる行為だからだ。
「ん? 出かけるのか?」
「……ええ、ちょっとね。まぁ、すぐに戻るわ」
何も知らない彼は「気を付けて」と笑いながら娘にミルクをあげている。
哺乳瓶を持つ左手薬指に輝く黒鉄の指輪――つい、目を細めて眺めてしまう。
「……ねぇ。もしも、私が自分の幸せのために誰かの人生を滅茶苦茶にしようとしたら、あなたは怒る?」
「怒らない。だが絶対に止めてみせる。そして説得する」
「……それでもダメだったら?」
「むむ……キミならそれで止まってくれると思うのだが……」
そうでしょうね。
あなたを敵に回すほどの価値がある幸福なんて、私には無いもの。
「最初に言ったでしょ? 仮定の話よ」
「ふむ……そうだな。じゃあ――力づくで抱きしめて、物理的にそんな事できないようにしてしまう……うん、これだな! 絶対に離さないぞ!!」
「それだとあなたは一生、私に引っ付いてなきゃダメよ? あなたの人生、それで良いわけ?」
「それで何か問題があるのか?」
……随分と不思議そうな顔で言ってくれる。
「……そう。だとしたら、それは素敵なプランね」
「ああ! 我ながら名案だと思うぞ!!」
……本当にこいつは何年経っても変わらない。
いつまでもあの頃の馬鹿のままなんだな、と安心する。
「じゃあ、これからちょっと――あなたの人生を滅茶苦茶にしてくるわ」
「うむ、いってら――ってどういう意味だそれは!? ちょ、あれ!? もういない!?」
……きっと、【あの時】の真相を知っても。
この馬鹿なら呆れたように笑って、私を抱き締めるだけでしょうね。
じゃあもう、迷いも躊躇いもないわ。
覚悟していなさい……フフフ……ウフフ、フハハハ、アァーッハッハッハッハッ!!
◆
……少し、不思議な朝だった。
アーリエンデは微かな違和感に首を傾げる。
今、出社してきたばかりだのに、すれ違う職員たちが皆「お疲れ様です」と挨拶をしていく。
NUMEカンパニーでは朝、最初に顔を合わせた時の挨拶は「おはようございます」、二度目以降が「お疲れ様です」と言うのが暗黙の了解になっている。
(いや、まぁ厳密な規則ではない訳だし、ブレる事もあるでしょうけど……)
それにしても、今まで全員が全員「おはようございます」と言ってきたタイミングで――今日に限って、全員が全員「お疲れ様です」と言ってくる。偶然にしても違和感は覚える。
「……細かし過ぎるかしら」
普段はこの程度の事、気にしないだろう。
だが最近は【タイミング】を計るために色々と悩んでいて……少しナイーブになっている節がある。
「室長、お疲れ様です」
ふと、オフィスに入る手前で室長補佐官の白衣系男子と遭遇した。
ハンカチで手を拭き拭きしながら歩いていたのを見るに、トイレからの帰り道だろう。
こちらもまた、おはようではなくお疲れときた。
「おはよう。今日も朝からロリコンみたいね」
「どこで判断したんです!? ってか室長、何で鞄持ってるんですか?」
「そりゃあ持ってるでしょ。出勤してきたばっかりなんだから」
「……はぁ?」
「……? 何よ、その『ついに頭がイカれたのかこの天災と紙一重系天才』と言いたげな顔は」
「ついに心を読む眼鏡が完成したんですか?」
「進捗は悪くないけどまだよ。あと一歩感はあるわ」
ジョウに使う日が楽しみだ、と唇を舐めずりつつ閑話休題。
「で、何? 何で私はそんな謂れの無い呆れ顔を向けられなきゃあならない訳? 腹立たしい。場合によっては、あんたの違法画像パンパンになっているでしょう秘蔵HDDを物理的に破壊するわよロリコン補佐官」
「断じて法に触れるような画像は持ってませんが!?」
「……………………」
「疑いの眼が分かりやすい! いやマジで持ってませんけど!?」
補佐官が「むしろ僕は、その手の画像を持ってる奴は絶対に殺す光のロリコンですよ!?」とかぎゃあぎゃあ喚いていると、オフィスへのドアが向こうから開いた。
ドアの向こうに立っていたのは――アーリエンデ。
「ちょっと、朝から何を騒いでいるの?」
「いや室長、あんたのせいで…………ん?」
「…………あ?」
アーリエンデは目を剥き、その肩から鞄が滑り落ちる。
補佐官も今まで自分が喋っていたアーリエンデと、オフィスから出てきたアーリエンデを交互に見て、どんどん目と口が開いていく。
「…………………………私?」
「ええ、そうね。私ね」
出勤してきたばかりの方のアーリエンデがわなわなと震えながら指さすと、オフィスから出てきた方のアーリエンデは涼し気な顔であっさりと頷いた。
…………そう、アーリエンデだ。
オフィスから出てきたのは、まごう事なくアーリエンデ!!
出勤してきたばかりのアーリエンデと容姿はもちろん、服装もほぼ同じ!! 唯一の差異はオフィスから出てきた方のアーリエンデは何故か左手にだけ厚手の手袋を装着しているという点だろう!!
つまり――アーリエンデが二人いる!!
「し、室長が分裂した……!?」
「私が単細胞生物だとでも!? ニセモノに決まってんでしょロリコン補佐官!!」
「へぇ、ニセモノ。まぁ、今の私が持っている情報から推測するのなら無難な線ね」
出勤してきたばかりのアーリエンデの言葉を受けて、オフィスから出てきた方のアーリエンデはにやりと笑い、手袋に包まれた左手で補佐官の肩をポンと叩いた。
「ちなみに、コンロイ補佐官。あなたはどちらの私がニセモノだと思う?」
「……コンロイって誰よ?」
「僕のファミリーネームですが!?」
「……あんた、そんな名前だっけ?」
「ロドリアス・コンロイ! 何度か名乗ったはずですが!?」
「……あー……どっかで聞いた気はする名前……」
「うわマジかよこの室長! でもあんたそう言う人ですよね! つまり僕の名前をしっかり憶えているオフィスから出てきた方がニセモノだ!!」
「正確にはニセモノではないけれど。まぁ、そちらに取っては近い概念でしょうね」
はいはい正解よくできました――と半ば馬鹿にするように、補佐官の名前を憶えていた方のアーリエンデが小さく拍手を送る。ひとしきり拍手を終えた補佐官の名前を憶えていた方のアーリエンデは、補佐官の名前を憶えていなかった方のアーリエンデをスッと指さし、
「そして私は次に、『あんたまさかドッペルゲンガー現象……?』と言う」
「あんたまさかドッペル……はッ……!?」
「なッ……性格ねじれまくりな室長の思考を読んだ……!? まさかニセモノの方の室長は心を読める眼鏡を……!?」
「それは『私の時代』でもまだ開発中よ。あと一歩って所でしばらく足踏みしているのよねぇ……」
「…………私の時代?」
補佐官の名前を憶えていなかった方のアーリエンデがピクリと反応。
反芻された言葉を聞いて、補佐官の名前を憶えていた方のアーリエンデは「ええ」と頷いた。
「私は【最大で五年前まで遡る事ができる時間逆行専用タイムマシン】を使ってやって来た五年後のアーリエンデ――あまりこの言い方は好ましくないけれど、三〇歳になった私よ」




