日輪の国の咲七《さな》
その悲劇は極東、日輪と呼ばれる小さな国を支える氏族咲家にて唐突に訪れるのだった……
日輪では毎年、白桃色の花びらが舞う季節に成人の儀礼として名授かりの宴が催される。
名も無き子供たちは、当主から名を授かる事により初めて一人前の武人として認められ、あらゆる義務と権利を背負う事になるのだ。
それは氏族の一員として生を受けた者にとって誉れ高き事であり、咲家七番目の子、咲七にとっても例外ではなかった。
しかし、咲七が敬愛する父から名を授かる事は無かった。何故なら、宴の最中に来襲した魔のモノによって、この日、咲家は滅亡したからである。
咲七の成人を祝う為に集まった親族は、突如出現した魔のモノの前に一人又一人と生命を絶たれ、武勇に優れた父でさえも全く歯が立たなかった。
咲家最後の生き残りとなった咲七を前に、魔のモノはまるでデザートでも楽しむかのように醜悪な舌なめずりをすると、腰を抜かして逃げ出すことも出来ず、ただ絶望して怯えているだけの咲七の首を荒々しく掴み持ち上げる。
「……物足りぬ」
魔のモノが何に物足りなさを感じたのか知る由も無いが、抗う事すら諦めた咲七を眺め目を細めると、悍ましい量の瘴気を咲七の体内へ送り込んだのだ。
「貴様が壊れていく様を楽しむとしよう」
魔のモノは、全身を蝕む瘴気により気を失った咲七から奪い取った【存在感】を口の中に放り込んむと、不敵な笑みを浮かべながら闇の中へ消えて行くのだった……
――そして夜は明ける。
昨日までと変わらない小鳥達の囀りで目を覚ました咲七は、昨日までとは激変してしまった惨状を目の当たりにして現実に引き戻される。
噎せ返るような悪臭に堪らず嘔吐してしまうのだが、氏族としての務めは忘れていなかった。
咲七は悲嘆をかなぐり捨てるように全速力で住家に戻ると、形見となってしまった品々を集め旅支度をし、休む間もなく咲家滅亡を知らせる為に宗家の元へ向かうのだった。
咲家から宗家が住まう御所までの道のり約七里の距離を休憩もせずに走り続けた咲七であったが、一報を知らせる事は叶わなかった。何故なら、魔のモノによって存在感を奪われた咲七に誰一人として気付く事が出来なかったのだ。
咲七は諦めずに何度も必死に訴え続けた。思いつく限りの手段を用いたが、最後まで伝える事は出来なかったのである。
不意に咲七の頬を涙が伝う。務めを果たすべく張っていた糸が切れた瞬間でもあった。
咲七は力なくその場から離れると、宛もなく彷徨った。何処かに気付いてくれる人がいると信じて……
無情に時だけが流れて行った。
日輪の国では咲七の存在に気付く者は居らず、海を渡り異国の地をも彷徨った。
やがて路銀は尽き、生きる為とは言え品物を盗む事にも心が痛まなくなっていた。
海を渡っても咲七の存在に気付いてくれる人はいなかった。
何時しか生きる気力さえ失った咲七は、知らない街の路地裏に座り込むと、母の形見となった小刀の刃先を自身の喉元に向け力を込めた。
無念よりも解放という言葉が脳裏をよぎった。然れど今回も事を成す事が出来なかった。
久しく感じる事さえ許されなかった温もりが、小刻みに震えながら小刀の柄を握る咲七の手を包み込んだからである。
「南門の外にある建物へ……」
それが現実なのか幻なのかは分からないが、その誰かは言葉を残し去っていった。
咲七はよろめきながら立ち上がると、おぼつかない足取りで歩き始めるのだった……
あの声が示した建物は古びた要塞のような造りの食事処だった。
咲七は導かれるように空いていたカウンター席に腰掛けるが、店に居合わせた客の誰もが咲七の存在に気付いていないようである。
力なく俯く咲七は、暫くの間無言で座り続けた。やはりあの声は幻だったのだろう。今更死を恐れるなんて恥でしかなかった。枯れ果てたはずの涙が零れ落ちる程悔しかった。
「大丈夫ですか?」
その声の主は涙を流す咲七にそっと手拭いを差出す。
「すみません。注文を待っていたら突然泣き出したものですから……」
驚いた咲七が顔を上げると、声の主は困った様な表情を見せていた。
「私が見えるのですか?」
咲七の素っ頓狂な質問に声の主は戸惑いの色を店ながらも優しい表情で答える。
「勿論ですよ。ご注文はお決まりですか?」
お粗末ではあるが、咲七にとっては七年ぶりの会話だった。
「あっ、あの……すみません……今、お金を持ち合わせていないです」
あたふたした挙句に絞り出した言葉がそれだった。先程とは全く別の恥ずかしさで逃げてしまいたい感情に駆られるのだが、追い打ちを掛けるように咲七の腹の虫が壮大に鳴り響くのだった。
「……賄いでいいかい? ちょっと待っててね」
声の主はそう言うと、本日の賄い料理であるオムライスを用意した。
恥ずかしさの余り体が硬直したままの咲七だったが、スプーンを差し出されると頬を赤らめたまま声の主の優しさに甘えるのだった。
声の主は咲七の様子を見て察したのか、自身はこの店の主だと紹介し、奥の部屋で話を聞かせて欲しいと申し出た。
その場には、その手の話に詳しいポプリと名乗る小柄な女の子も加わる事になった。
咲七は感情が訴え掛けるままに事情を説明し、店の主とポプリは黙ってその話を聞いていた。
全てを話終えた咲七を店の主は優しく抱きしめて背中をさする。
「間違いなく、殺しにくるわ」
魔のモノは負の感情を食らう。咲七が生かされていた理由は負の感情を食らう為であり、その負の感情は今日ここに来た事によって潰えたのだ。
そうなれば魔のモノにとって咲七を生かしておく価値はなくなる。
魔のモノが活動できる時間になったら直にでも咲七を殺しに来るだろう。
「どうしたい?」
小刻みに震えている咲七を感じて、店の主は優しく抱き締めたまま問い掛ける。
「……仇を討ちたい」
咲七は両手をぎゅっと胸に押し当てると、震える声でそう答えた。
「協力するわ」
近くで様子を見ていたポプリはそう言うと、魔のモノを倒す手立てを説明し準備の為に去って行くのだった……
仇討ちの舞台はポプリが整えた。
咲七はあの日持ち出した家門の入った装束を纏い、父の形見となった刀を携え魔のモノの到着を待つ。
――夜が更け魔のモノ達の時間
ポプリが予想した通り、魔のモノは咲七の命を奪いに姿を現した。
七年前の記憶が蘇り、反射的に咲七の体が怯む。
魔のモノはその姿を見て、あの時と同じように醜悪な舌なめずりをする。
「いざ、参るっ」
咲七は掛け声と共に畏怖の感情を振り払うと、魔のモノに切り掛かる。
あの日から七年、咲七は一度たりとも鍛錬を欠かすことはなかった。宴の場でなければ敬愛する父が魔のモノ如きに後れを取る事はなかったと証明する為に。
何十、何百と兵刃が交わる。
正に一進一退とはこの事を言うのだろう。
次第に焦りの色を見せ始めた魔のモノは、瘴気を発生させる為に距離を取ろうとした。
咲七はそれを見逃さなかった。
「日輪咲刀流奥義、邪祓雷神っ」
咲七の闘気を纏い、蒼白い光を帯びた刀刃は魔のモノを容赦なく薙ぎ払う。
魔のモノは禍々しい悲鳴を上げると、斬り捨てられた下半身が光に焼かれて消滅する。
「おのれ、下等生物がっ」
魔のモノは大声で叫ぶと、全力で瘴気を撒き散らす。
「今よ」
念話を通してポプリの声が頭に響く。
咲七は懐から小瓶を取り出すと栓を抜き、瓶の中身を天に向かって散布する。
解き放たれた液体は瘴気に触れると輝きながら膨張し、恐るべき速さで瘴気を侵食していく。
「なっ、なんだこれはっ」
魔のモノは悲痛な叫び声を上げると、跡形も無く消滅するのだった……
瓶の中身が瘴気を侵食し尽くした後、魔のモノが消えた場所には煌々と輝く発光体が残っていた。
満身創痍の咲七は、支えようとし駆け寄った店の主とポプリの助けを断ると、よろめきながらも発光体の前まで歩み寄る。
発光体の中には忘れ得ぬ大切な愛すべき人達の笑顔が浮かんでいた。
咲七は痛む腕を精一杯伸ばし、全力で彼らを抱き締めた。
言葉を交わす事はできないが、彼らが何を想い伝えたいのかは理解できる。
涙を流してはいけない場面だと分かっていても止めることはできなかった。
店の主とポプリはその様子を遠くから静かに見守っている。
咲七の大切な愛すべき人達は零れ落ちるように、一人又一人と天へと昇って行く。
咲七は涙を拭う事もせず、この温もりを心に刻むように必死に抱き締める。
そして最後の一人が天に向かった後、白桃色の花びらのような光体が残った。
「貴方が奪われた物よ。受け入れなさい」
咲七はポプリの言葉に従いその光体を両手で掬い胸に押し当てると、魔のモノによって奪われた咲七の【存在感】は溶け込むように体に吸い込まれていった。
「寝るわ」
ポプリはそう言うと大きな欠伸をしながら店の主を連れて去っていく。
全てが終わりその余韻に浸っている咲七を祝福するかのように、故郷の方角から顔を出した日輪が咲七を照らすのだった。
―完―