エーデルワイス
琥珀色の液体の水面が、硝子のコップの中で、蠟燭の火に照らされて上品な輝きを見せております。それだけで既に芸術品として非常に心を癒してくれますが、さらに芳しい匂いが香って、思わず頬が緩んでしまいました。
「約束通り、紅茶を西区から買ってきました。」
「まぁ!」
お兄様に心からの感謝と親愛を示します。
そしてゆっくりと味わう様に鼻に近づけますと、華やかでフルーティな香りが鼻腔をくすぐり、口に含みますと豊かな味わいが広がりました。
「素晴らしいお味です、お兄様!」
「それは結構なことです。」
「お兄様はお召し上がりにならないのですか?」
「もう既に頂きましたので、私のことはお気になさらず。お砂糖は?」
「いただきます。」
給仕をしている侍女が、お母さまから頂いたお砂糖の包み紙を丁寧に剥がし、粉状のそれを半分紅茶の中に入れマドラーでかき混ぜます。粉雪のように紅茶の中を舞い、やがてすぅっと消えてなくなりました。
心地の良くそれを口につけますと、今度は舌に優しい甘さが広がり、とても幸せな気分になりました。
「なんて美味しいのでしょう!」
「幸せそうでなによりです。女性は甘いものが好きなのですね。」
「他の女性の方がどうかは存じ上げませんが、私は大好きです。」
「そうでしょうね。恵みに感謝を。」
「感謝を。」
このような贅沢で幸福な機会をいただいたこと、お兄様に、そして神様や天使様に感謝しなくてはなりません。
コトン、と透明なティーカップを、同じ硝子製の受け皿の上において、幸せのため息をつきました。何気なくクラッカーも口に入れますと、これまた美味しく、私の気分は一体どこまで上がっていくのでしょうかといった具合でございます。
ここは緑豊かな庭が見渡せるテラスでして、清々しい風が、私と向かい側に腰を掛けられているお兄様の間に吹きます。その風は緑の香りも一緒に運んできてくれて、とても開放的な気分になれます。
そんな中、お兄様は少々改まった様子で、こうおっしゃいました。
「実は折り入ってご相談があります。」
凡そお兄様のお口から出たとは思えないお言葉でした。勿論、私のお返しは「なんでしょう」という一択しかございません。
「お前は、最近来た勇者に会いましたね。」
「はい。」
「どう思いました?」
「どう……ですか。う~ん。とても誠実でお優しい方だと感じました。」
「そうですか……。」
どうやら私の言葉は、あまりお兄様のお考えとは合わないようでした。それを少々疑問に思いつつ、勇者様とお話しした時のことを思い出しますと、なるほどお兄様の表情に多少思い当るふしが無いわけではありません。
「あとは……そうですね。あまり神や天使に対する信仰心が無い方でしたね。異世界からいらっしゃった方ですので、神との交わりがまだ少ないのかもしれません。」
私は一生懸命、勇者様に対して、アンジュ教の御教えのすばらしさをお伝えしましたが、彼の心に届きはしなかったようです。それは私が未熟であるという証明でもございますが、それ以前に、彼の先入観が拒んでいるようにも感じました。
「そうでした。お前は、あの方以外の勇者様と多くの言葉を交わしたことはありませんでしたね。」
「? はい。ご挨拶程度です。」
「他の勇者様にも2,3人に同じくアンジュ教の偉大なる御教えを説いてみたら、おのずと分かることでしょうが、あの世界に身を置いた方々は、アンジュ教の御教えを理解しようともしません。あちらの世界の、洗脳じみた宗教に身も心も侵されてしまっているか、もしくは私は神を信じないなどという戯言を恥じる様子も見せずに公言するのです。」
「まぁ!」
「これは私の推測にすぎませんが、恐らく―――もう一つの世界は、天使様の御加護が得られず、悪魔が蔓延っているのでしょう。」
「っ!」
「そして勇者様も例外なく悪魔に……心を……。」
なんとことでしょう!
思わず手が震えて、ティースプーンをテーブルの上へ落してしまいました。その時の音が、私の心に寒々しく響きます。
とにかく心を落ち着けるためにも、紅茶を口に含みますが、先ほどよりも数段味が落ちたように感じてしまいました。快かったはずのそよ風でさえも、もはや然程良いものとは思えません。
どれだけ素晴らしいものでも、心というお皿が他のものでいっぱいであれば、もうのせることはできないのです。
「なんとか……なんとか、救える手はないのですか!?」
勇者様と対話したあの日を思い出しながら、お兄様にすがります。お兄様は「ご安心ください。」と綺麗に微笑まれました。
「オグル教徒たちと同じです。勇者様方を……あの壊れた異世界の哀れな人間を救い出すためには、我々の手で断罪し、一度天界に昇って清めて頂くのです。」
「断罪……。」
「えぇ、端的に言えば、一度命を絶つ形になります。」
「……。」
天使様、どうか私を善なる道、貴女様に寄り添い交わる道へお導きください。
恐るべきことに、このお兄様のお話を聞いた時、私の心に迷いという卵が産み落とされました。これは悪魔の卵でしょうか。だとしたら私はまたあの苦しみを……!?
しかしお兄様は、このような私に優しく寄り添ってくださいました。
「お前が悩む気持ちは、十分に分かります。対話ができた人間が悪魔であったことが、まだ受け入れられないのですね。理解しましょう。そして憐れみましょう。しかし、これは救いなのです。天使様に最も近い我々にしかできない使命でもあるのです。」
「……。」
「裁きの鉄槌のあとは、きっと天使様の御慈悲があるでしょう。悪魔は払われ、綿に包まれ、おのれの罪を反省しながら、天界へ導かれるでしょう。そして父なる主の手で抱きしめられるのです。これほど幸福なことはありません。」
そっ、と私の手にお兄様の手が重ねられます。熱が伝わって、私は涙を一つ落としました。お兄様は私に熱い抱擁を交わしてくださいました。
安心からか、ふと、瞼が重くなってきます。
「五十日後、緑の星が私達を見守ってくださる日に、勇者が悪魔に侵されていることが証明されるでしょう。」
「……。」
「まぁもっとも、お前にとってはもっと先の話かもしれません。」
「?」
「その日、お前は悪魔の醜さを目にするでしょう。決して挫けてはなりません。大丈夫です。我々には偉大なる神、慈悲深き天使がついてくださっています。我々の勝利は神の勝利であり、天使様の喜びです。」
「……。」
「その日、お前は顔を隠して神殿に来なさい。私も行きます。」
「……。」
睡魔に襲われて鈍る頭の中、お兄様の言葉が灯火のように爛々と光って、頭に刻まれていきます。
遠くで誰かの声がしました。
しかし、それが男か、女かもわからないほど私はぼんやりとしていました。
「―――今は、おやすみなさい。いい夢を。…………愛すべき僕の妹。」
お兄様が頭を撫でてくださいます。それに無性に安心して、与えられた幸せを噛みしめて、そのまま意識は底へ底へ落ちていきました。幸せの底、まるで神の手に抱かれたような、そんな場所で意識は浮遊致します。
そのまま、更に、人間が知覚できないほど奥へ奥へ進んで……。
私は再び目を覚ました。眩い光が視界を包む。
―――あれ、“私”……?
「……ん?」
あぁ、なんだろう、これは。目からポロポロと涙があふれて、止まらない。鼻の奥がジーンと痛くて、鼓動が早くて、胸が苦しくて、とても悲しい気分。ティッシュを探すけど、そういえばこの“世界”にティッシュはないんだっけ?
……この世界?
あぁうん、そうそう、そうだった。この世界ね。
私のいた場所とは違う世界。私の大好きな、そして非凡なほどのお人よしの幼馴染とこの世界に連れてこられたんだった。
とっても驚いたけど、まぁ連れてこられてしまったものはしょうがない。あの無自覚トラブルメーターである幼馴染の傍にいたら、そんなことも起こることだってあるわ! 帰る手段が無いのだから、ここで踏ん張るしかない。
あの人と違って、凡人の私に出来ることなんて限られているけど、だからって何もしない訳にもいかないからね! うんうん。
それにせっかく異世界に来たのだから、楽しみたいじゃない。お母さんもお父さんも心配だけど、それはもう気にしたってしょうがない。幼馴染をついつい恨みたくなっちゃう時もあったけど、普通に考えれば彼も悪くない。
さぁ、くよくよしてても何も始まらない! ちょっくら気合い入れて、頑張ろう。大丈夫、何とかなるなる。お母さんが病気になった時も、お父さんが失業した時もなんとかなったもん! 異世界に来たくらい、どうってことないよ。
そうだ、せっかくだから魔法使いにでもなってみよう。小さい頃はなりたかったんだよね。
確か。なんだ。悪い事ばかりじゃない。良いことも見つけてかなきゃね。
図書館に行けば資料とか借りられるかな。
勇者でない私がずっとここで生活するわけにはいかないから、生計を立てる手段としても魔法は使えるかもしれない。
さぁ未来がほんの少しだけれど、見えて来たぞ~。頑張れば何とか暮らしていける。だから、えいえい、おー! ってね!
「……。……?」
うん……うん? なんだろう、何かがおかしい。いえ、おかしい……です。……です? ええと、あれ……どういうことでしょう。
私は他の世界なんて存じ上げませんよね……?
この記憶は一体……幼馴染? 勇者様が?
いやいや、待って待って。おかしいって。
私は女子高校生で、今は異世界から連れてこられて、シスターって呼ばれて……って、あれ? シスターなんてこの方呼ばれたことなんてないよ?
頭が爆発しそう。
これも、お兄様のおっしゃった神の試練でしょうか……。
……?
いやいや、私って、兄もいなければ、家族そろって無宗教でしょう……?
私……“私”?
私は知っている。排気ガスをまき散らしながら動く車と、スマホに意識を取られながら歩く人たち。ビル群と、何かがペイントされたコンクリ―トの地面。そこでは神様何て所詮フィクションで、多くのものは科学で解明され、これからさらに解明されていくということを多くの人間が信じてやまない。
でも“私”は知らない。多くの人間に神様が否定された国なんて……。
あーもう! 意味わからない!
そもそも、なんでこんな年齢になってまで、神がいるかいないかなんて、そんなファンタジックなこと考えなきゃいけないのよ!
いや異世界があるんだし、居てもおかしくはないけれどね。でも、何が驚きかって、私の脳内に神云々がこんな自然に出てきたことだよ……。今までそんな事考えもしなかったのに。
いやまぁそうはいっても、天使様はいると思うけどね。だって実際いたしね。この目で見たから。私を認めてくれた天使様を疑うなんてありえない。
あり得ない……はずなんだけど、あれ? おかしいな。間違ってる……わけはないよね。
本当にどういう事だろう。私は“私”なのだろうか。私が私の手から離れてしまったような感覚がする。
ふと、横を向いて化粧鏡に映った自分の姿は、平凡な日本人そのものだった。
まぁそうだよね、という気持ちと、おかしい、という気持ちが私の中で竜巻のごとく押し寄せてきた。
「……。」
……あ~ちょっとストレス溜まっているのかなぁ。
しょうがないよ、最近忙しかったし、環境も大きくガラっと変わったし。時間はあるから、もうちょっと寝よう。起きたらきっと元通り。そうしたらお兄様に会いに行こう。
…………いや、いやいやいや。だから私に兄なんていないんだってば……。え……いないよね?
……。…………?