ヒペリカム
あくる日、お兄様は喜びを隠せないような笑顔でこうおっしゃいました。
「落ち着いて聞いてくださいね。」
「?」
「天使様が……天使様が、地上に再び戻られました。」
あまりにも唐突で、衝撃的過ぎたのでしょう。ここから記憶が曖昧です。お兄様が終始嬉しそうだったことは記憶にありますが、お話しした内容は思い出せません。
ただ、とにかく天使様の元へという事でして、お兄様は私の手をひいて神殿の地下室へ急ぎました。
神殿のほうは何度か改装していましたが、現在使用されていない地下には手が付けられておらず、全体的に埃っぽい臭いがしました。老朽化した床は所々剥げており、白に近い色の木で作られたと聞いたことがありますが、それが信じがたいくらい黒焦げた色になっております。
歩むたびにギシギシとする音は、老朽化しているのだろうと諦めもつきますが、蜘蛛の巣が張り巡らされているのは今にも叫びだしたいくらい不快です。
遠くでは水の滴る音と、かろうじて足元を照らす程度の光を灯すマジックアイテムの、ジジジジジという音が遠くで聞こえます。しかしそれを打ち消すくらいに、興奮を隠せない二人分の足音がこの地下に響き渡りました。
この時の私は半信半疑どころか疑に傾いた状態でした。
お兄様が詰まらない嘘をつくとも思えませんでしたが、それにしたってそんな夢のようなお話は信じられなかったのです。確かに、1000年後はもうすぐだという噂も耳にしましたが、真に受けるのも馬鹿らしいと意識を向けずにおりました。
期待があったからこそ、私は殊更疑い深くいたのです。
その心のまま、天使様のおわします御所に行きましたが、今思えば顔を覆いたくなるほど失礼で、また愚かなことでした。
―――天使様は確かに、御存在されていたのですから!
「……あ…………。」
時代においてかれた地下には不釣り合いなほど、新しく綺麗な扉を開け、天使様のお姿を拝見いたしますと、私は足元から頭のてっぺんまで氷で貫かれたように動けなくなりました。ただ目だけは、どうしても天使様から外せませんでした。端から見れば、さぞ滑稽な姿だったことでしょう。
私は、本当はご挨拶をしなければいけないのに……と思いましたが、体が動きません。今思えば、これもまた本当に無礼な行為をしてしまったと反省しております。
けれど、これでも法王の娘。礼儀作法は一通り習っておりましたし、失敗も多い不器用な私でしたが、ご挨拶という初歩中の初歩を欠かしたことはこの生涯一度もありませんでした。
つまり、私の衝撃がそれほどであったのです。
天使様は、ただそこに御座しました。
とても自然でした。人間として御容姿を見ても確かに整っておられましたが、そういうものでなく、ただそこに存在する美しさを私は見ました。
そして、寛大な御心を感じました。そこに在り、万事をそのままを、そのままに受け入れる自然さ、その神性よ。そういう存在で、そういう存在だけである、という人間にはありえない―――純。
あぁなるほど、確かに天使様です。人間ではおよびつかないほどの御存在であることは間違いありません。
それに比べ、人間の……いえ、私の何て矮小なことでしょう。
私は私にふさわしい星の下で生まれたというのに、それ以上のことを求めようとする間抜けでした。それでいて認めて、認めてと赤子のように嘆くなんて……。全ては天使様の御心のまにまにあったのに……。
信じています、なんて言葉でいくら言っても、心は信じていないのですから、神や天使と交われないのは当然でした。しかし慈悲深き天使様は、この汚れた地上に、御身を犠牲にして舞い戻られたのです。
そして現に今、愚かしい過ちを犯していた私を救ってくださいました。なんと温情に溢れ、清らかな心なのでしょう。
信じます。今度こそ、心の奥から……!
誓いを捧げると、天使様はその奥が見えないほど深き黒の御瞳で、私のほう……いえ、私を含めすべてを見つめられました。
そして、全てを認められました。そう全てを……!
その瞬間、私は宙に浮かぶような快感をおぼえ、今まで足りていなかった穴がそっと埋まったような、不思議な心地が致しました。
私がこんな人間なのも、私の存在さえも、その清い心ですべてを許されたようで……。
私の心の悪魔は滅され、目の前がぱぁっと開けたような感覚を覚えました。
天使様は在るのです。私も天使様に認められました。だから私も自信を持っていいのです。
自然に口角があがり、声が高ぶります。私は生まれて初めて、呼吸ができたような気がしました。
おぎゃあ、おぎゃあ、と……私はその時、初めて生まれたのでした。
「慈悲深き天使様……私の魂をかけて、仕え奉りますこと、どうぞお許しくださいませ。」
天使様は、私の言葉も存在も全てを受け入れられて、そこにおわしました。それだけで私は幸福に包まれます。
私は自然、魂を捧げると誓いました。
私は天使様とお会いしたこの時を、この喜びを、一生忘れることはないでしょう。
◇
「―――笑顔が素敵になりましたね。」
天使様がおわします神殿の地下の階段をすっかり上り切った時に、お兄様がこうやって穏やかに声をかけてくださいました。
あの日から3月ほど経ったでしょうか。そう、私はあの私の人生の中で最も輝かしいあの日から、歩む道に華が咲きました。それくらい幸せな日々でした。
まず、あの粘着質な悪魔が私の心から去りました。そして私の心は幸福感ですべて埋まりました。筆舌しがたいほど幸福ですから、笑顔も至極自然に出てきます。
愚かにも今まで気づかなかったことですが、純粋な笑顔でいれば人は好意を寄せてくれます。俯いて、黙ったままじゃ気づかなかった、人の温かさを知ることができました。そして何より、その温かさを素直に受け入れる心を持っていることが嬉しいのです。
あれだけ嫌だった社交パーティだって、むしろ楽しみになりました。
「本当にお綺麗になられて……。これも天使様の御加護ですの?」
「はい!」
「まぁまぁまぁまぁ!」
おしゃべり好きの御婦人はこうしてよく話しかけてくださるようになりましたし、
「見てくださいまし? こんなにも美味しそうなケーキが!」
楽しいお友達もできました。
悩みを聞いてほしい時にはお友達ができなくて、解決した後にできるのは少々皮肉ですけれど、それもまた天使様のお導きです。
当然、式典も心の底から祈ることができるようになりましたし、お食事会も、王様に「貴女がいると場が華やぐね。」とお褒めの言葉をいただきました。
心なしかお父様の目も優しくなりましたし、お母様も「見間違えるほど明るくなったわねぇ。私に似て良い女になったわ。」とおしゃって頭を撫でてくださいました。
私の心は今までにないくらい軽やかです。それこそ羽が生えて、あの綺麗な青空を飛べそうなくらいに!
もちろん比喩表現ではありますけれど、大げさではないんですよ?
お兄様の言葉にしばらく、そうした幸せな日々を味わっておりましたが、このまま黙っているのも妙な話ですので、「ふふ。ありがとうございます。」とお返事いたしました。
「本当に……美しいです。ついに神に祝福され、天使様がお救いくださったのですね。お前の輝かしい笑顔は、その証なのでしょう。」
「はい! 私は外側に目がついておりませんので、実際に私の笑顔を見ることはできませんが、こんなにも良い気分なのですから、よく笑えていると思います。」
「ふっ、あははは、そうですね、自分で自分を見ることはできませんよね。失念しておりました。」
お兄様は私の言葉に、上品に笑われました。
どうして笑われたのか分かりませんが、私もつられて笑いました。愛想笑いではありません。お兄様が楽しそうだから嬉しくて、私も笑ったのです。
少し前までお兄様に抱いていた逆恨みに近い嫌悪感もすっかりなくなり、純な親愛のみが残りました。あの薄暗い気持ちは悪魔のせいだったのだと明確に分かり、安堵致したことは記憶に新しいです。すべては天使様のおかげでございます。
「いつもお前の苦悩には心を痛めておりました。しかし言ったでしょう。試練だったのです。神は超えられない壁は設けません。そして無駄な苦しみも与えません。」
「はい!」
「お前が苦しみぬいたから、こうして正しく信仰できるというものです。」
「今ではあの苦しみに感謝しております。」
「よろしいです。私としましても、こうして幸せそうな笑顔を見ることができて、やはりこの道は間違っていなかったと確信しました。」
「この道……お兄様の道……?」
「あぁ、いえ、次期法王としての道です。」
何かを誤魔化すようなご様子でしたが、特に気になりません。
私の胸の中は天使様の感謝で満ち溢れておりますので、「聖なる神よ、慈悲深き天使よ、感謝いたします。」と唱えますと、お兄様は「天使によって、天使と共に、天使の内に、全能の神、奇跡を司る天使に、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで……。」と、重ねて詠唱なさいました。
「ところで、お前は最近慈善活動に熱心なようですね。」
「私に出来ることは限られておりますが、精一杯させて頂いております。」
「感心です。詳細を伺っても?」
「はい。主に施設の設立に関わっております。資金は私の手持ち全てと、皆様の御心の中と、国から頂き、お母様や大臣と相談して、西区に2か所、南区に3か所、東区に10か所建てました。それから施薬院も、西区に1か所、南区に2か所……。まだまだ足りておりませんが、スラムの状態も少しは回復したようです。」
「素晴らしい。『困っている人を見たら助けなさい。』アンジュ教の御教えですからね。善い行いです。国民や信者からも、最近“シスター”と呼ばれて大層慕われているとか。」
「過分な評価です。」
「いえ正当な評価でしょう。胸を張って受け取りなさい。」
本当に身に余る評価ですが、これは私の栄光ではなく、私を通じての天使様の栄光ですから、そういう意味では誇りに思っております。
ちなみに、東区にこれだけ多くの施設を建てられたのは、匿名のお方からの多大な募金があったからです。きっとアンジュ教の敬虔信者なのでしょう。
天使様がご来臨くださったおかげで、この国は着実に善き方向へ進んでおります。
お兄様は去り際の挨拶を丁寧にしてから、ふと思いついたようにこう言った。
「そうそう。オグル教徒の人間が、本日4人見つかりました。今宵月が二つに分かれる頃合いに、断罪の儀を執り行いますが、お前も来ますか?」
「はいお兄様! 共に。」
「共に。」
本日の夜、聖歌隊の美しい歌声が響く神殿で、天使様により4匹の悪魔が清められました。大変喜ばしいことです。並べられた胴体のついていない4つの首に、来世では悪魔に憑りつかれないよう心からお祈りいたしました。
醜くゆがんだ顔も、血の気がなくなって、どこか安らかなご様子で何よりでございました。