激憤娘はかく語りき
確かにアンジュ教を危ういと思っていた。それは事実である。清めの儀などと銘打って、人を殺すことを肯定したアンジュ教という思想は、自身に迫る刃のように感じた。
しかし、しかしながら、だ。それでも私は満足して暮らしていたのだ。衣食住が完備され、煩わしいことなど何もなく、静かで、豊かで、満たされた幸せを余すところなく味わえる環境であった。
だからこそ、思わずにはいられない。
―――余計なことしやがって、この糞勇者!
「もう、……もう大丈夫だから。」
私はベッドの上、涙を流しているその糞勇者に抱きしめられていた。
勇者曰く、ここは隠れ家みたいなものらしい。小さいが綺麗な木造建築。森の中にあるらしく窓の外には木々が鬱蒼と茂っているのが見える。
鳥の声が聞こえ、虫の声が聞こえ、人の声が聞こえないのは、まさしく隠れ家に相応しい風情があったが、それも目の前の勇者によって全ては台無しになっているようだった。雰囲気の主張が激しすぎるのだ。
彼ははらはらと落涙しながら、私の耳元で何かを話した。
「足も手も、大丈夫だから。元通りとはいかなくても……ちゃんと生活を送れるようにはなる。俺の友達にドワーフがいるんだけど、彼はすごいよ! 本物そっくりの……いやそれ以上に高性能な義手足が作れる。」
義手? 義足? いや、切実に要らない。私の幸福は、動くことにはない。故に動かない。動かないのなら、義手や義足をつけることは、単に私の身体に無機物をつけるだけの無意味な行為である。
私は何もしないことが幸せなのだから、どうか余計なことをしてくれるな。言葉にしない時点で、伝わるとは露程も思えないが、それでも願わずにはいられない。
「手からビームも出せるかもしれないよ? 空中に浮くこともできちゃうかも。手足が出来たら、何がしたい? 何が好きなのかな、君は。」
そんなこんなでしばらくの間、彼の雑言を浴びせられるという拷問が続いていた。
何がしたいかだって? 耳を塞ぎたい!
どこか無理をしているというか、気を遣っているのが分かりやすい彼の話にゾワゾワする。彼の善の雰囲気が、私を悪にする。彼の涙を止めない自分が悪いような、そんな気分さえ起こってくる。鬱陶しいったら。
ふと彼は、真っ赤になった目で私の顔を見た。そしてまた抱きしめる。
「……助けるの、遅くなってごめん。……本当に、ごめん。」
―――助けただなんて、傲慢な!
「ここにはもう、君を害するものは何もないよ。君の感情を封じたり、君の体を傷つけたり、君に奇跡なんかを望む人たちはもういない。だから、安心してほしい。」
―――安心?
「君は自由だ!」
勇者の話から察するに、恐らく、むりやり天使として祀られていたと勘違いされているのだろう。
彼の中で彼は圧倒的に正しい。
それだけならば、まだ私は彼を憎んでいるだけで済んだ。余計なことしやがってと、舌を出しているだけで構わなかった。私が何より気に食わないのが、ふと気を抜くと俄然、それが世界にとっても正しいような気がしてくるからだ。
ふざけるなよ。絶対的な善など、あってたまるものか。
人の行動など決められたものなのに!
人の思考とはどう作られるのだろう。
簡単簡単。
親の影響、周りの環境、これが一つの要因。それでもこれだけではない。私と私の兄弟は凡そ似通った環境で育ったが、これだけ違いが出るのが良い証拠だ。つまり、生まれ持った性質の差が、もう一つの要因。
(もしくは生まれ持った能力や、容貌により、環境に違いが出るから人の考えにも違いが出るのかもしれないが、これは鶏が先か卵が先かという、これまた意味のない話になるので割愛させて頂く。)
ともかく、この二つの要因。
この二つの要因は当然ながら本人の意思とは関係ないものであり、むしろこの二つの要因から意思が生まれる。
つまり、ビリヤードボールがもう一つのボールにぶつかった結果、決められた方向に弾かれるように、勇者も貴族も、生まれつき持っているものと周りの環境の結果に従って、行動を起こしたにすぎない、ということだ。
全ては因果。世界の始まり、第一原因の方向性から、全ての物事は決まっている。
この流れに、善や悪などあるものか!
あるとすれば、主観的に見て良いか悪いかでしかない。
良いか悪いかというのは乃ち、自身に幸福を渡す者か、奪う者かということだ。そして幸福とは三大欲求を満たすことであり、それに寄与する者が善人で、阻む者が悪人。
そうであるというのに、私から見て勇者は悪も悪、極悪人であるべきなのに、そうは思えないような思考に誘導されるのが非常に癪に障るのだ。
しかし勇者は私の思考を読むことは出来ないらしく、あくまで絶対的な善人の風格で以て私を抱きしめていた。
そしてしばらくすると、「君にも僕の家族を紹介するよ。」と言って、大きな声で誰かを呼んだ。
「おーい、二人とも! この子の意識がはっきりしたよ! 来てくれ!」
隣の部屋から、え、本当!? すぐ行く! と、女性の通りが良い声が聞こえる。
そして、すぐに声の主は現れた。
時代遅れにも程があるトンガリ帽子を被り、まん丸な目を大きく見開いてこちらを見る。
「まぁ! 目が覚めたのね!」
その顔には確かな歓喜の色が浮かんでいた。
「どこか体調が悪い所はない? だいじょうぶ? 喉は乾いていないかしら。あぁでもでも、さっき飲んだばかりだからあまり飲みすぎてもダメね! はっきり意識が無かったから覚えていないかもしれないけど……。お腹は空いたでしょう。野菜スープがあるから、あとで一緒に食べましょう。優しい味付けにしてあるから、急に食べてもお腹はびっくりしないはずよ!」
あぁ五月蠅い。
しかし実は少々お腹が減っていたから、野菜スープは是非とも飲みたいものだ。
「そんなに急に喋ったら、この子びっくりしちゃうよ。」
「あら、そうよね、ごめんなさいね!」
「嬉しいのは僕も一緒だけどね。あぁ紹介するよ、彼女は僕の幼馴染さ。」
勇者によると、この女は、勇者が世界に来た時一緒に連れて来られたらしい。なるほど、同郷の者であるのは確からしく、顔のパーツは少し似ているようだ。尤も雰囲気は一般人のそれで、彼女が勇者ではないことを示している。
「そして、彼女はおちび。妙なネーミングセンスだとは思うけど、これは僕のセンスじゃないからね。」
「可愛いじゃない、おちび! ちびっこくて、可愛くて、丸くて、愛されるべき存在であることがよく伝わってくるわ!」
「あはは……。」
おちび、と呼ばれた少女は、女の腕の中にいた。
……? どこか既視感があるな。
あぁそうか、清めの儀で溶けていた所を、勇者によって水槽から掬われた子だ。だとしたら下半身は溶けていたはずだが、如何したことか、確かに生えていた。その他もっと広範囲に皮膚が溶けていたはずだが、その痕も見当たらない。
そんな元奴隷の女の子は、ちょこちょこと歩いていたかと思えば、勇者の背中にひしっとしがみついた
「あらら、甘えん坊ね! まるで子猿のよう!」
それを見て、女は柔和な笑みを浮かべた。
若法王とは違って、自然で軽やかな笑顔だ。彼女が肩を揺らして笑うたび、トンガリ帽子の先がぴょんぴょん動く。
対して勇者は、背中にしがみついた少女を抱き寄せて苦笑した。
「こらこら、ちゃんと挨拶しないと……。」
「……うー。」
「うーん。嫌かぁ。しょうがない。ごめんね、君。彼女はちょっと恥ずかしがり屋さんなんだよ。」
「許してあげて頂戴、そこがまた可愛いんだから!」
「うぅ。」
「あはっ、照れているわ。可愛い!」
そんな事を言いながら、二人は楽しそうに話している。
それは何だか、私の両親を思い出させた。父は兎も角、母は合理的な人だったが、二人の間にはよく愛という不合理な言葉が取り交わされたのを、不思議に思ったものだ。母の遺書も、愛しているよ、で締められていた。
愛に性欲以上の何の意味があると言うのか。
私が考えられるものとしては、支配欲、服従欲、依存欲、顕示欲、総括して承認欲求だ。つまりは罠。それを母が分かっていなかったとはどうしても思えないので、謎は積もるばかりである。
そんな事を考えながらボンヤリとしていると、いつの間にか三人が三人そろって、こちらに目を向けていた。
その表情は、どんな感情を示しているのか私には定かではないが、喜色ではない。
「君は……。」
勇者が何かを言いかけ、口を噤んだ。
「う……。」
そんな勇者と私を交互に見て、おちびがこれまた妙な表情を浮かべた。
「君がどんな人で、今までどんな扱いを受けていたかは分からないけど、ここではただの女の子だ。やりたい事はなんでもやって良いし、言いたい事はなんでも言って良い。もし……声が出ないのなら、それは、多分、精神的なものだ。ここでゆったり過ごしていれば、いつか必ず出るようになるから、……その……安心してほしい。」
勇者がそうやって妄言を吐くと、それを継ぐように女は「そうそう!」と大袈裟にうなずいた。
「まぁ喋らなくてもあなたは充分愛らしいけど、きっと声も素敵だから聞きたいわ! 話せるよって状態になって、話したい、って思ったら、あなたの声を聞かせて頂戴!」
話したい、と思うことは一生ないだろうから、そんな機会は訪れないだろう。無駄なことを喋る人たちだ。
そもそも、私の声を聞きたいと望む精神が良く分からない。
私の声を聞くことで何かメリットがあるから、だろうか。もしくは、そのような事を話すことによって、自身の優しさなどを示し、承認欲求を満たそうとしている試みか。
どちらでも宜しいが、いい迷惑である。
人の声はどうにも好かないので、何処か遠い所へ去って欲しい。
しかしそんな想いとは裏腹に、彼らは私の前でずっと何かを話している。
「この子の名前は何が良いかなぁ……。」
「うーん、天ちゃんとかはどうかしら!」
「流石に安直すぎない? それに天使に関するものは、ちょっとなぁ。」
「ちっちっちー! 嫌な思い出を嫌なままにするより、いい思い出に変えてあげたほうがいいじゃない!」
「な、なるほど。確かに!」
「それか、どうしてもって言うなら、おちび2号でもいいけれど?」
「それはちょっと止めようか!」
「あははは! 冗談よ!」
二人の朗笑が鼓膜を打つ。承認欲求を満たすと言う、偽りの幸せに酔う人間の笑い方だ。他人を気にしない笑い声は単純に不快だが、他人に好かれるための笑い声は、何と言ってもおぞましい。
あぁ可哀想に。彼らは真なる幸せを味わいつくすことのできない人間だ。
それでも、偽りの幸せでも、彼らは恐らく罠にかかった人間の中では幸せな部類だろう。
承認欲求を追い求めながらも、三大欲求も得られているのだから、随分と幸運だ。運が良い。運に恵まれている。
清めの儀により溶けていった少女達とは雲泥の差だ。
この差はどこに?
私は、因果応報を偽りとは思わない。だがこの因は果でもあり果は因である。世界の流れの中では、全てが決められているのは先に述べた通り。
だからこの差を、我々はこう呼んでいる。運だ。
なるほどこう考えるならば、神の存在は非常に合理的なシステムと言えるだろう。
運という如何しようも無いものを、どうにか人為的に自分にとって良い方向に向けたいと思うのは人間として極自然な思考だ。そして、人為的にどうにかするためには、運は意志を持った存在でなくてはならなかった。
だから運それ自体を、意思を持つ存在と仮定して、それを人々は神と名付けたのだ。
神の慈悲深いイメージというのも、そうであったほうが、自身に都合が良いから。
一方神の圧倒的で恐ろしいイメージもまた、自身に都合の悪い人を排除したいがため。
そして人類は、その意志を持った慈悲深く恐ろしい神に、崇めてすがりついて媚びへつらって、自分にとって良い運をくれろと頼み、人為的に運を左右しようと試みた。
なんて分かりやすい! 人間ってこんなに単純!
まぁ本当に神がいる可能性だって否定はできないのだが、
しかし、そも、私は神の存在の有無に興味は無い。いようがいまいが、歴史を見れば熱心な信者も神の冒涜者も同等に禍福が訪れることは分かりきっているのだから、関係がないのだ。
だがそれは結局、運はどうしようもない事だという証明にもなる。
「いろいろ候補を上げてみたけど、君はどんな名前が好き?」
「私は天ちゃんがおすすめよ! でも、あなたの好きなものを選んで頂戴!」
「そうだね。今から候補を上げるから、もし好きな名前があれば、頷いてくれると嬉しい。じゃあいくよ……。」
それにしても、私にとっての悪人が、運に恵まれているのは残念極まりないことだ。
「天ちゃん、おちび2号、クロ、くぅちゃん、ちみみん、ランちゃん……。」
しかし運は、当然、如何しようもない。
他人の幸福を如何することも出来ないのと同様に、私に降りかかる幸福も不幸も運のまにまに……そうして生きるしかないのだ。
おぉ、嘆かわしい! 私の不幸がなくなりますように!