戦慄少女はかく語りき
首都である此処はどうであるか知らないが、私がいた田舎では、宗教については非常に様々な考えが大らかに許されていた。
故に、まぁ私の父は敬虔なアンジュ教徒であったが、母は神というものに対して統治の道具と一纏めにしていたし、中には宗教反対を堂々と唱える人もいた。
「過去に宗教戦争で死んだ人数多、それなのに何故人々は目覚めない! 宗教はどんなものであれ、争いの火種となる! 即刻そのようなものは廃止するべきだ!」
早朝に五月蠅く叫び散らすそんな声も、時折聞くことがあった。
しかし宗教戦争の問題なんて、それこそ過去のものだ。ほぼ現在ではそのようなものはなく、ただ祈って神典呼んでいるだけの無害な集団でしかないのだから、放っておけば宜しいと私は半ば呆れていた。
そんな呆れていた自分に呆れたい。
天使の代わりとしている今、私はアンジュ教の危うさをよく知った。
私はどうやら、父が無害な男であったから勘違いしていたようだ。無害な集団だなんて、見当違いも良い所であった。
宗教を見くびっていた、と言うか、甘く見ていたと言うべきか。
今なら五月蠅く叫び散らすあの人にも、賛同できよう。
何故私がここまで宗教に恐れをなしているかと言えば、当然、正当な理由がある。
―――アンジュ教は、今日まで凡そ30人の子どもを殺している。
宗教は、アンジュ教は人を殺せる、ということだ。それにはどのような意味があるか。猿でもわかる。
つまり、それは私も殺される可能性があるということである。
現在幸福な境遇に身を置いている私にとって、それは恐れるに足る事実であった。
私は幸福の内に身を置きながら、横を通り過ぎる死に戦々恐々とする日々は、果たして幸福か不幸か。
こんがらがってしまいそうだ!
今日もまた、アンジュ教は子どもを殺すらしい。
「天使様への信仰をお示しください。」
若法王が唇に綺麗な弧を描きながら、貴族たちに向かって命じた。
私達がいたのは教会の中でも、貴族や王族専用に作られた場所であり、普段の場所よりも一層豪奢で神秘的な作りになっていた。
色々な場所が照らされて、輝いて、目に眩しい。
私の前には広く水が広がり、その向こう側には私に背を向けた形で若法王がいて、その奥に貴族達がずらりと並んでいた。
男は長い髭をたくわえ、女はドレスや宝石で身を包んで、私に対して手を捧げている。庶民と違い跪いてはいないが、貴族が頭を下げているのは屹度珍しい光景なのではないだろうか。
……その先が私だという事実は滑稽極まりないが。
その他にも、お付きの人だとか護衛とかがその後ろや傍で並んでいて、横らへんには聖歌隊がいるが、この人たちも例外なく祈りを捧げているのが見えた。
「天使様、彼らに永遠の平安を与え、彼らの悪魔を絶やし、絶えることのない光を彼らに照らしてくださいますよう。」
若法王が私に向かって丁寧に頭を下げると、拍手が上がる。
しばらくして頭を上げると、彼はくるりと、貴族たちの方へ向き直った。
「日々ご加護お導き頂き、生かさせて頂いているのが我々人間でございます。この多大なる御恩に報いるために、我々は清い心を天使様に、そして神に捧げなくてはなりません。我々人間の不浄な心を清めるために、“清めの儀”をさせて頂きましょう。」
そうして説教した後、若法王が手を横にやると、1人の少女が頼りない足取りでこちらに向かってくる。
奴隷だろうか。汚れは無く、上等な服を着ているが、どうにも、上の身分の人間には見えない。醜いほど痩せ細っているし、目が卑しい。そういえば聖歌隊は奴隷だと聞いたことがあるが、他にも何か別の目的で奴隷を買っているのかもしれない。
「こーえいです……こーえいです……。」
彼女はそう繰り返しながら、ヨタヨタ、水槽の前まで歩いてきた。
私と同い年くらいのこの女は、どう見ても幸せな環境にいる人だとは思えないが、貴族達よりも幸せそうだ。相好を崩して私を見つめている。頬は紅潮し、目はトロンとしていた。手をこちらに伸ばしている。
此方から見れば、ちょっとしたホラーだ。しかし彼女がただの格好で、そのような顔をしているのではないことは伝わってくる。尤も、それが心の防衛機能か何なのかは、彼女自身にも分かることではないだろうが。
「我らは今、不浄なる乙女の体を捧げます。」
若法王のその言葉を合図に、少女は水槽へ向かった、そして、その短い手足を使って水槽を跨ぐ。
そんなに高いものでもないが、痩せ細った子どもにとっては辛いだろう。
それでも何とか片足を水槽の地面につけて、バランスを取りながら中に入ってくる。目は相変わらず私を恋する乙女のような目で見つめていた。
しばらくすると、俄かに、彼女は水の中で膝をついた。
よく見たら、彼女の足が溶け始めている。
何度見ても見慣れる光景だ。思わず私は冷や汗さえ出てくるが、彼女にとってはそのような事は些末事らしい。
起き上がって、再び水の中を少し歩き出す。私の方へ、ただ遮二無二に。
「こーえいです……こーえいです。てんしさま、こーえいです。」
舌足らずな声で、天使に感謝している。
自らの身体と命の危機を、路上の石と同等にしか思っていないような姿は、私とはあまりにも程遠くて理解しがたい。
純粋に怖い、と思う。
彼女に直接の恐怖を覚えるわけではないが、私は彼女と同じ人間であって、つまり私の生まれ次第では、彼女のようになる可能性だって十分あり得たわけだ。偽りの幸せに酔っぱらって、自らの存在を軽んじてしまう自分……。同世代のようだから、余計に、想像してしまう。
それを考えれば、稚拙な表現で非常に遺憾ではあるものの、怖い、という言葉が一番私の心情に当て嵌まるのである。それと同時に自身の万福に恵まれた生活を自覚する。
「こーえい……です……。こーえ……い、です。」
彼女は最早足は機能しなくなり、その場で座り込んだ。
しかし彼女の双眼は未だこちらを向いている。そして血にまみれた手をこちらへ向けていた。もはや見慣れた祈りの姿勢。狂気を感じる。
それに、あたり一帯に鉄臭い臭いがむわっと広がり、少し不快だ。
貴族も一部の人は目を閉じてやり過ごしていた。しかし多くの人は、不満も不快も見せず、尊い何かを見るように祈りを続けている。
中には密かに愉悦を感じている人も、どうやらいるようだった。
若法王はここぞとばかりに手を広げ、宣言した。
「我々の心は只今、清められています。天使様、神様に、ふさわしい心を捧げられる日に、ますます近づくことでしょう。天使様に心からの感謝を!」
その大げさな身振りと言葉は、貴族たちに受けがいいのか、「素晴らしい!」「アンジュ教万歳!」「天使様万歳!」と、満足そうに笑っているのが聞こえる。
おぉ! 生まれた瞬間から、幸せが確定している人間の呑気さときたら! 思わず妬んでしまいそうだ。
美味しいものを好きなだけ食べて、好きなだけ寝ていられることが確約されている貴族の人生とはどんな感じなのだろうか。
今死んだ少女と、それを満足そうに見る貴族、享受できる幸福度はどれほど違うのだろう。
それとも、実際のところ、貴族にしか分からない苦悩があるのだろうか。
実は、もしかしたら食べて寝る以外にも何かやることがあるのかもしれない。
『ねぇ、学校行こうよ。』
ふと、本屋にいたころに聞いた近所の女で、3、4個年上な学生を思いした。
『学校に行きたくても行けない人たちがたくさんいるのよ。その中で、貴女は行ける人なの。』
―――だから、なんだと言うのだ。
『行ける人には、行く義務があると私は思うわ。ちゃんと学んで、ちゃんとした大人になる。そうして国を豊かにしていけば、いつかはきっと全員が平等に幸せになれる。行ける人が行かなきゃ……結果的に、多くの人が不幸になる。それってとっても罪なことだと思わない?』
―――他利主義的思考を押し付けないでほしい。
『そして、どうしてもそれが嫌なら、貴女にはもう一つの道も残されている。本屋で働くこと。』
―――すでに働いているが?
『もしかして、すでに働いている、って思ってる? 貴女はまだ働いていないわ。本屋にいるだけよ。だって、一週間に一度店番をする以外は何もしていないでしょう? その店番だって、貴女ったら、ほとんど寝ているじゃない。』
―――動きたくないからね。
『貴女、すごく恵まれているわ。貴女の前にはいろんな道がある。そうして、選びたいものを選べば支援してくれる親がいる。……貴女のお父様は、本当に貴女の幸せのことを思ってくれているわ。だから、今も怠惰でいる貴女を許しているし、世間体も気にせず、他の人が何かを言えば庇ってくれる。それって幸せなことよ。』
———はぁ。
『でも、それにいつまで甘えているつもりなの? いい加減、自分の幸せな状況を自覚して、動き始めても良いんじゃないかしら。』
彼女には私がとても幸せに見えていたのだろう。
兄の一人は騎士を目指し、もう一人は旅商人を目指すという、凡そ本屋の息子の選ぶ道とも思えない将来の夢を、父は応援していた。そういうある面においては自由な家庭であったから、私にも自由があると彼女は勘違いした。
しかしそれは彼女の尺度による偽りの幸せであって、本当の幸せではなかったのだ。
私の幸せな道を、父は応援してくれなかった!
表面上の幸せが真なる幸せとは限らないと私は知っている。
故に、私が見る貴族も一見幸せそうに見えるけれど、あまりそう言い切れるものでもないのかもしれない。その食料や睡眠の代償は、人知れない労働だったりして。よく見ると、一部の貴族は疲れているようにも見える。
かてて加えて、そういえば、彼らは社交界という非常に面倒くさいものに出なくてはいけないのだった。
そう考えると、貴族を羨む気持ちは急激に萎んでいった。
いっそのこと、現在進行形で溶けている奴隷達のほうがまだ、幸せかもしれない。
「こーえいです……こーえいです……。」
それにしても、痛くは無いのだろうか? 苦しくは無いのだろうか?
人は、他人の考えが分かることは有りえない。ただ、他人の様子を見て、自身が過去に体験した感情の中から、それらしいものを選んで転嫁しているだけだ。
そして、その様子と自身に既存する感情が上手く照らし合えない時、その人を異常だと感じる。まぁ他の人がどうかは知らないが、私はそうだ。
「てん、し、さま……、こーえい、です……。」
死にかけで、光栄です、なんて言える感情を私は知らない。
だから、異常だと思う。最高に狂っている。
そんなことを考えていると、貴族たちの後ろのほうから大きな声がした。
「―――ふざけるなッ!!」
ほぼ叫び声と言っても良いその声は、貴族たちがいる席の一番後ろから上がった。
若い男の声のようだが、あまり特徴がない声だ。
「なんで……なんで、みんな、平然としているんだよ……ッ! 人が死んでんだぞ……しかも、こんな残酷な……!」
彼はどうやら奴隷ではなく、それを見ている人間を異常だと感じたらしい。
こう云うのを意見の相違というのだろうか。
あぁそうそう、声に特徴がないと言ったが少々訂正させてほしい。特別高くも低くもない、綺麗でも汚くもない、少しだけ幼さが残るその声は、どこか人を惹きつけて已まない、圧倒的な善性があった。
しかし英雄色とでも言えばいいのだろうか、とかく、何を言っても彼が正しいような気がしてならない。白でも黒になりそうな勢いだ。
若法王が人の上に立つ者なら、彼は人を引き連れる者のような気がした。
「こんなの……狂っているだろ!!」
彼はそう言いながら、貴族の間をすり抜け水槽の方向へ脇目も振らず走ってきた。
男の容姿は声と同様、特徴などどこにも見出せない平凡な顔であったが、その表情は激しい怒りで歪んでいる。
彼は溶けかけている少女に手を伸ばし、勢い良く水槽から引き揚げた。服は当然溶けていて、体の状態も惨憺たる有様で醜い。一部の貴族達から悲鳴と、罵声が上がる。
「いやぁ! 気持ちが悪い……。」
「なんだこの男は! 今すぐ捕らえろ!」
「いや……この方は……。」
様々な声は、やがて怒りから困惑へ変わっていった。
「もしや――――――勇者様……!?」
貴族の一人がそう声を上げると、罵声は一気に止む。
どこからか息を呑む声が聞こえた。怒りから困惑、そして恐怖にまで変わる感情の変化が、個々の表情からありありと読み取れた。
それくらい、“勇者”という言葉はパワーを持っているという証明だろう。
勇者、と言えば異世界人の総称である。
勇者とは異世界から魔法で連れてこられる人間で、特別な力を持っていると言われている。その力は勇者により異なるらしいが、噂によれば、世界を滅ぼせる程の物だとか何とか。噂には尾ひれが付きスイスイ泳いでいくのが古からの理なので、そう真に受けるのも馬鹿らしいがと思うが、強力と言うのはまぁ間違いないだろう。
昔は魔王討伐のための勇者だったそうだが、魔王族が滅んで久しい今日では、他国の牽制や、時には戦争に使われたりするらしい。
「まるで核兵器みたいな扱いだ。」と、母は言っていた。ちなみに母は勇者であった。
国は勇者を連れてくることはできても従わせる能力はないので、勇者は諸刃の剣として慎重に扱われている。勇者に歯向かわれては困るので、当然、国に丁重にもてなされる。地位も高い。
勇者と言うのは、その圧倒的な力や強靭な肉体にいてよく言及されるが、平凡な人間が勇者を見分けるのに有効なのは、その雰囲気だ。
やけに重かったり、独特だったり、そして彼みたいに、圧倒的な善であったり。
言われてみれば、男は確かに非常に分かりやすい勇者であった。
それでも、何も言わない訳にもいかなかった。勇者に睨まれるのは様々な意味合いにおいて恐ろしいが、それ以上にアンジュ教から排されることは不都合だ。
「勇者様……、アンジュ教に逆らうのは、謀反になりますぞ!」
「そ、そうでございますよ! 勇者様、目をお覚まし下さい。人が死んだのではありません、奴隷が溶けたのみにございます。」
「勇者様のいらした世界には、奴隷がいなかったとお聞きしています。ですから僭越ながらご説明させていただきますと、あれらは人間の形をしているだけで、ただの物なのです。家具や道具と相違ないとお考え下さい。ただの物の損失に、勇者様のお心痛める必要はございません。」
おぉ、これは致命的!
この貴族達にとっては、勇者は、廃棄しようと燃やしている椅子を命がけで救出するような馬鹿なことをしているように見えるのだろう。故にこの説得は、丁寧に説明し、目を覚まさせる以外の意味はないはずだ。
しかしこの説得は勇者の怒りに油を注ぐ行為になり兼ねない。
異文化の分かち合うことなんて、好意無くしてできるものか、と母が言っていた。その言葉はどうやら正しいらしい。
ほら、勇者の目は更に憤怒の炎を巻き上げているのが分かる。
彼は、貴族達を絶対なる悪にするような絶対的善性の目でもって睨みつけた。そして溶けかけの少女をしっかりと抱きしめ、叫んだ。
「みんな、おかしいと思わないのかよ!?」
根拠も、理屈もないその言葉も、圧倒的な輝きによって、大きな説得力となる。
それはもはや一種の暴力だ。人の思考をぶん殴り、ただそれが正しいのだと叩き込む。根拠も論理もないものを信じるのは、洗脳と代わりがないと思うが、それすら正当化してしまいそうな善性よ!
思考は私だけのもののはずなのに、その前提を覆すような彼の存在が恐ろしい。いや少し違うか。恐ろしいはずなのに、理性的に考えれば恐怖を覚えて然るべきはずなのに、さほど恐怖を覚えずに、受け入れてしまいそうなのが、やはり恐ろしい。
彼の言葉は巨大な渦のように、全ての人の思考を飲み込んで、震わせた。
ちなみに、先程、異文化と言ったが、実は貴族と庶民の間でも文化には激しい差異がある。
例えば、貴族は奴隷を物として見ているが、その従者や、一般庶民出の騎士の多くにとってはその限りではない。
理由は二つあって、一つは、庶民に奴隷は関係が無い場合が多いので、奴隷は物という思想が受け継がれていない。そして、先入観の無い目で奴隷を見たならば、形は人間なので、人間と分類するのに不思議ない。
もう一つは、子の多い家だと、兄弟姉妹が奴隷になっていることも多いからだ。人身売買は違法ではあるが、そんなものは形式上のみ。そしてその場合、一定の年齢までは一緒に暮らしているので、奴隷を奴隷という生物とは考えづらい。
だからこそ、勇者の言葉は、彼らに正義の炎を灯すのに十分であった。
「こんなのおかしいと思う人は、俺に力を貸してくれ!!」
結果は言うまでもない。
しかし残念ながら、私は途中から眠くなって寝たので、経過は覚えていないのである。