二度と戻れない
例えば山の高い所に立ったり、電車のホームで列の一番前に並んでいたり、船の甲板から海を見下した時。
ふともう一歩前に進みたくなる。
そんな経験はないだろうか。
特に何かがあったわけでもないが、何となく、この世からいなくなりたくなる。出来るなら、苦しまずに。全てを無駄にして、無にして、何もかも無くして逃げ出したくなる。
だがいざとなれば、足は動かずに、そのまま日々は続くものである。
だから、もし後ろから誰かが力強く推してくれたら、どれだけ楽だろうとなんて考えながら、そんな劇的なことは起こってはくれない。
俺は特別な人生を歩んだわけでも、特別な考えを持っているわけでもない、ただ普通の人だから、きっと俺と同じような人も多いんじゃないだろうか。
まぁ俺はエスパーじゃねぇから、知らねぇけどな。
だが、もしそれで死んだ後、残された人の悲しみはどんなものだろう。今までそんな事を考える機会はなかった。もしそこに考え及んだところで、死んだらどうせ分からない、と言えた。
それは元の世界でも、そして、今の世界でもずっとそうだ。
彼を見るまでは。
「うぅ……ぅぐ…………あぁ……っ! どうして…………どうして、君は……あぁ馬鹿なことを!!」
大仰な黒い棺の前で泣く男。中に入っているのは、つい最近まで、ぺらぺらと良く訳が分からないことを喋っていた、あの無表情な女だったものだ。
今じゃ顔もよく分からない、真っ黒な物体になり下がっている。
それでも人間の形を留めているし、燃え残った彼女の髪はやはり綺麗で、彼女があの女であることを証明してしまっていた。
「ひぐぅ……っっ……。……あぁ…………あぁぁぁぁ……。」
夫の泣き方は悲惨なものだ。
そのまま自分まで死んでしまいそうな勢いだが、彼をこの世に繋ぎ止めているのは、3人の子どもだろう。
そのうちの二人の息子は、少し遠い所で恐らく祖母にあたるであろう人に慰められている。母親だったものに近寄ろうとするたび、祖母に止められていた。確かにあの死体は子どもが見て良いもんじゃないだろう。
それでも子どもは納得がいかないような、どうしていいか分からないような顔をして、涙を流している。
それを見た瞬間、俺は思わず目をそらした。
人の涙とは世にも不思議なもので、ただの少し塩気がある水が目から流れるものであるのに、これでもかと言うほど人の心を動かすもんだ。まだ人間的ではない赤子の泣き声さえ、スターティングスタートをきった衝撃が猛烈な勢いで心を揺らすのだ。
俺には耐えられない。
もしかしたら俺の親父やお袋も、あんな風に泣いたのかと思うと、どうしてもやり切れなくなる。後悔も贖罪も、もう遅い。
ふと、この世界に来た時を思い出した。
―――サイレンの音がしたんだ。
耳を劈く勢いで、鼓膜が破れるんじゃないかと思って、目がチカチカした。そしてそれ以上に、物凄く恐ろしかった。
今思えば、あの状態でいるよりは捕まって、治療を受けたほうがまだマシだっただろう。でもそれすらも分からないほどに、俺の理性は溶けきってしまっていた。ただ逃げなきゃ、と衝動的に考えた。
その後、我武者羅に外に出て、すぐ近くにある海まで走ったことを覚えている。普通に歩いても5分くらいしかかからない場所だったはずだが、その時は5時間くらい、走っても走っても辿り着かなくて慌てた。
それでも後ろからサイレンの音が追ってくるから、逃げて逃げて、疲れ切った頃にやっと辿り着いた。
息が苦しくて、肺に穴が開いた気がしたなぁ。だけど、それ以上に夕日に照らされた海が綺麗だった。宝石が一面に散らばっているみたいにキラキラと、綺麗で、虫でさえも中には入れないようだった。
そのまま俺は何度かこけながら、ズブズブ中へ入った。
海は冷たかったが、それが徐々に虫を凍らしていくのが分かってかえって心地いいくらいだった。心臓がばくばくいって、変な臭いはそのままで、足も腕も力が入らなくて、でもどんどん奥へ、奥へ、奥へ。
そしてついに足がつかなくなったと思ったら、急に眩しい光に目がくらんで、気づいたらこの世界に来ていたってわけだ。そうじゃなきゃ、ありゃ多分死んでいたな。
向こうで俺はどういう扱いになっているのだろうか。行方不明か、自殺か。どちらにせよ、家族は悲しんだだろう。
それとも厄介ごとが減ったと思っただろうか。いやそれはない。そう言い切れるくらい、俺の両親は愛情深い人たちだった。俺を過不足ない環境で育ててくれた。その恩を俺は最悪の形で返したのは、間違いない。
「なんで……なんで死んでしまったんだ…………ッ!!」
棺にしがみつき、歯を食いしばりながら泣き叫ぶ旦那の姿を見て、俺のしたことがどういうものだったのかを改めて思い知らされた。
その重さに俺はどうしても耐えられなくて、その場を逃げ出した。
あの死んだ女の周りで、白々しい御悔やみの句を並べ立てている周りの人間を、力づくで押しのけて、そのまま外に出た。
「…………。」
空を見ても、地面を見ても、気分は垂直低下し続けて止まらない。同じ世界に両親はいない。もう一生会うことは無い。一生、謝ることさえ出来ねぇ。
少しでもこの気分をどうにかしたいが、もう歩く気力もなくて、川辺のすぐそばに腰を掛けた。
そして震える手で、煙草に火をつける。今日の気温は高かったはずだが、何故か悪寒がした。それを煙で誤魔化そうと画策してみたが、どうもうまくいきそうにねぇ。
「あーあぁ、冴えない顔しちゃってまぁ。」
横にはいつのまにか、見知った顔がいた。
オレンジ色の頭髪に、これでもかと言うほど開いたピアスとキツイ香水、濃い化粧。遠目で見ればアメリカ人のようだが、近くで見ればなんてことない、純日本人。平たい顔族の特徴を十全に兼ね備えた、200年前くらいならモテそうな顔をしている。
彼女はここ数日前に召喚された新しい勇者で、元の世界の知り合いだった。
いやーな偶然だ。まぁ王城の場所と日本の場所がリンクしている時点で、そんなことだって十分あり得る話ではあるけどよ。
「また禁断症状? アンタ薬にどっぷりだったもんねぇ。加減ってもんを知らないからそんなことになるのよ。」
「後悔してんだよ、これでも。それにお前さんだって―――。」
「お前さん、って……。何その口調。きもっ。」
「おいおい、そんなにイジめてくれんなよ。俺だって、色々やり直そうとしてんだよ。ほら、今はアイデンティティの確立に勤しんでるんだぜ。」
「ウケる。おっさんが何やってんの?」
性格も口も悪いが、何より悪いのはその雰囲気だ。
ゲロ以下の匂いがプンプンするぜ、と言う言葉がぴったり合う。本当に魔物か何かを相手しているようだ。
別に悪口を言っているわけじゃない。
俺だって、彼女が元々こういう雰囲気の人なら、わざわざここまでボロクソに言うこたねぇ。
確かに元の世界でも、彼女は容姿こそ良いほうではなかったが、しかし、この吐き気がするような空気は無かったのだ。
むしろ蠱惑的、というか、すぐヤれそうな感じが、ある類の男を良く惹きつけた。なんなら俺だってお世話になったことがある。キマッてる最中だから、正直めちゃくちゃ気持ちよかった。
今は二重の意味でやる気にならない。
「あたしにもタバコ頂戴。」
「あいよ。」
二人でプカプカやる。
「そういやお前さんよぉ。」
「お前さんとかきもいっつってんの。やめろ。」
「んだよ。まぁいいや。聞いたぜ? お前は、法王の息子にお熱なんだって? あの金髪で根暗の……。」
「はぁ?」
女は口から三つの白い輪っかを吐き出した。そしてニヤニヤ笑う。
「演技に決まってんでしょ? もうあたしは愛だの恋だのには飽き飽きよ。」
その言葉の真意がどこにあるのか分からなくて、彼女の顔をまじまじと見た。その視線を鬱陶しそうに避けながら、彼女は続ける。
「それにあんな根暗、誰が好きになるもんか。」
「俺ぁてっきり、お前が好いたのかと。」
「冗談。確かに顔は気に入っているけれど、それだけよ。私にどっぷり依存させてから、いつか突き放してやるの。楽しそうでしょ?」と、底意地の悪い笑みを見せた。雰囲気と相まって、心が逆撫でされる。
「あー、……そ。でもお前、ここに来てすぐ、アイツに目を輝かせながら王子様~なんて言ってたじゃないか。あれはほら、一目惚れっていうやつじゃねぇのかよ。」
「いや、だって、びっくりするでしょ。あんなの。」
「何が?」
「容姿があたしの理想の王子様だったの。」
「お姫様はお前か?」
「そうよ。」
「あっはっはっはっは!! お前みてぇなババァが、よりにもよってお姫様!? あっはっはっは!!」
ついうっかり、笑ってしまった。笑ってはいけない、笑ってはいけないと思うほど、愉快さが喉まで吶喊してくる。
「殺すぞ。」と彼女はお怒りの様子。
まずいまずい、彼女をぶち切れさせたらことだ。本当に殺されちゃったぜ、てへぺろ、なんてことも十分あり得てしまうのだから。
「いやー悪い悪い。でもよぉ、もし姫になりたいなら、なんでお前の記憶を他の奴から全部消しちまったんだ?」
彼女の能力は記憶関連だ。
「あの女も死んじまったから、おかげで、今この国にいるのが俺一人だと思われてるぞ。お前の存在を知る奴なんて勇者しかいない。なのになんで……。」
「は? なんであんたにそんな事教えなくちゃいけないわけ?」
「いやでも、いくら姫っつったって、周りの人間がいなきゃ意味ないだろ? なのに、なんでかなぁって。」
「うっさい。」
彼女の怒りは冷めない。元の世界にいた時からずっと、沸点が低い癖に、中々怒りが冷めない女だった。彼女を怒らせたら最期だ。
まぁとはいえ、それはガチ切れした時の話であって、こんなつまらないことに長い間拘るほどの馬鹿ではない。
はぁ、と彼女は深いため息をこぼした。
「……能力で人に祭り上げられたって退屈だもの。でも…………はぁ。まぁ、そうね、あたしも自分で良く分からなくなっちゃってんの。」
声のトーンを低くして、まるで秘密でも話すかのように呟いた。
恐らくそれは、本音なんじゃないかと思った。
お世辞にも性格が良い女じゃないし、すぐに爆発する劇物のような奴だが、案外根は純粋と言うか、単純と言うか、そんな複雑な人間ではないことは、ある程度付き合っていればすぐわかる。馬鹿な男に騙されたのが良い証拠だ。
平気で嘘をついたり、人を傷つけるが、あんまり器用なタイプではない。ていうか馬鹿だ。こんな事言ったら、今度こそ殴られそうだが。
「そう言うあんたは、なんかやらないの? あたしは知らないけれど、なんか能力持ってるんでしょ?」
「何をやれって?」
「別に何でもいいけど。……元の世界では、あたしもあんたも弱者、搾取されるだけの存在だったじゃない。でもここでは、圧倒的な強者。せっかくなら、思い通りの人生にしたいと思わない?」
お前が弱者?
「……うーん。」
「何かやりたいことは?」
「うーん。」
考えても思いつくのは、精々、煙草とか酒とかくらい。それも暇つぶしみたいなもんだ。薬がやりたい、というのも嘘ではないが、もう懲り懲りな上にこの世界に俺が気に入る麻薬はない。
麻薬自体が無いわけじゃないが、随分かけ離れたものだ。
一回何かの機会に手に入れて使ってみたが、どうにも効き目が悪く、誰かにあげた。誰だっけ。あぁそうそう、公園にいたあの無表情な女の無表情な娘だ。
まぁ効果も薄いし、その分、害だって少ないものだから大丈夫だろう。
他にやりたいことと言えば、一体なんだろうか。
やりたい、と思えば大概が叶うこの世界で、望むことなどあるのか。
「つまんない男ね。」
「そう言ってくれるなよ。今絞り出してるんだから。」
「その発想がある時点で、そんなの無いのは目に見えてるじゃない。馬鹿々々しい。時間の無駄。」
「まぁまぁ。そう言ってくれるなよ。」
今、ふとやりたい事から無意識に除外していたものを思い出した。もうとっくの昔に無理だと諦めていたから、やりたい事リストにのっけていなかったが、これもやりたい事と言えばやりたい事だ。
「あぁそうだ。元の世界によ、一回戻りてぇな。そんで両親に謝りたい。すげぇ迷惑かけたから。許されるとは思っていないが……。」
「ふーん。で、そのための糸口は見つかったの?」
「いいや。」
「どうやって探すつもりしてるの?」
「なーんも考えつかない。」
「今まで何かやった?」
「いいや?」
「…………そ。あんたは本気で戻りたいわけじゃないのね。」
「痛い所を突いてくるなぁ。」
でもちょっと外れている。俺が何もしないのは、したってロクなことが起こらないと分かっているからだ。現在で十分、ある程度、幸せだ。この幸せで妥協しておくべきなんだ。だから元に戻ることを真剣には考えない。
それでも、もう両親の顔を見なくても良いという事実が、俺に安寧をもらたしたのは事実であるから、何も言えない。
「それにさ、和食とか食いてぇんだよなぁ。日本酒も……。ガヤガヤとしてちょっと小汚い、脂のにおいがする居酒屋で、ギィギィとよく鳴る椅子に座ってよぉ、おやじ! レバ串と日本酒! って頼む。小さい声でむにょむにょ言ってちゃ聞こえねぇ。大きい声で、がなるように。
んで、注文すりゃあ、炭火の上にレバーを突き刺した串が置かれる。日本酒はすぐ来る。可愛いお嬢さんが持ってきてくれるんだ。それを貰って、ちびりちびりと舐める。飲むんじゃなくて舐める。口一杯に日本酒の風味が広がってよぉ。じぃっくり焼かれる俺のレバ串を見ながら、大事に大事に……。」
「あーもう長い。」
「なんだよ、ここからが良い所なのに。」
拗ねながら、煙草の吸殻を鎮火のために踏むと、彼女が何時の間にやら俺の懐からスッた煙草に火をつけているのを発見した。
「おいおい。欲しいならやるから、箱ごと持ってくなよ。」
「あのさ。」
「あ?」
「この世界に何もって来た? あたしは、化粧品だったんだけど。」
「あー……俺は薬だったな。俺の意識が戻った時はゴミとして捨てられてたからよ、人づてに聞いただけだけどな。いやぁマジで意味ない。」
「ふーん。やっぱりね。」
「なにが?」
「他国の勇者に聞いても、みんな、結構つまんないものばっかりなの。煙草とか、ゲームとか、スマホとか、仕事の資料とかね。……でもね、こーんなくだらない未練でも、一番の、そして唯一の未練だったってあたしはハッキリ言える。あんたは?」
「まぁ……少なくとも、あん時はそれしかなかっただろうなぁとは。」
「今だってそうでしょ? だってあんたは、本気で元の世界に戻ろうとは思っていない。それってもうほぼ未練がないってことよ。他の勇者に聞いてみても、ほとんどの人は戻りたいなんて言わないし、言ってもあんたみたいにぺらっぺらなものよ。」
「んで? 結局何が言いてぇんだよお前は。」
「いや別に? ただ、ほんとに勇者に優しい世界ね、ってこと。」
「?」
「だってここに来る人達は、こんなつまらない未練しか持っていない連中ばかり。それってつまり、そういう人たちを選んで勇者にしてるってことでしょ?」
それは、正直俺も考えていたことだ。勇者が、オブラートに包めば個性的、直接的に言えば頭おかしいと思われているのも、恐らくそこらへんに起因している。あとは勿論、度が過ぎる能力のせいでさらに精神がおかしくなっているのも多いだろう。
反論しない俺を見ながら、彼女は悪魔みたいにニヤニヤ笑い、掠れた声でこう言った。
「これ、アンタがつらつら述べていた未練は、全部欺瞞の証明なのよね。」
「……お前、それが言いたかっただけだろ。」
相変わらず性格の悪い女だ。




