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天使は今日も動かない  作者: たいちゃん
若法王の涙
22/30

rainy weather


全ての人が幸せな世界、というのは、一体全体どういったものだろう。


それは幼き日に考えたあの世界のように、争いごとがない平穏な世界で、誰しもが分け隔てなく、笑顔で手を取り合っているのだろうか。誰も裏切らないし、悲しまないし、怒らない、悪意が無い……そんな人間たちのための世界。互いが互いを認め合い、助け合い、誰もが協和しながら楽しく人生を過ごす、ってね。


ここまで想像して、幾らかの人は気が付く。土台そんな世界は不可能だと。


よしんば争いがなくなったとしよう。誰かが誰かを殺すなんて夢のまた夢な世界。

その世界は果たして幸せだろうか。

人より上位に立ちたい、人を傷つけ悲しませたい、人の不幸を眺めたい……。そんな人が所持して捨てられない欲望を押さえつけた世界は、本当に幸せなのだろうか。


え? 幸せだって?


そりゃね? 持っている欲望の中で一番大きなものが、全て平和な世界とマッチするような恵まれた人間にとっては良いことだろう。

そこまでじゃなくても、負の欲望が大きくない人にとっては、それなりに良い世界ではあるだろうね。


でも、そうじゃない人だっている。綺麗な海に住めない魚のような人がね。


例えばさ、人の不幸を切に願う人間が幸せになるには、誰かを不幸にしなくてはいけない。それはどうしたらいいのかね。

食欲が強い人がいるのと同じように、人を不幸にしたいという欲が強い人がいる。それを無理に押さえつけるということは、食べることが大好きな人間の食欲を押さえつけるも同義だ。それは幸せとは言えない、そうでしょ?


そしてこれは、別段、人の不幸は蜜の味派閥の人間に限られた話ではない。例えば人の悪口が言いたい人間が悪口を言えない世界は幸福か、人を殺したい女が人を殺せない世界は幸福か、幼女を犯したい男が犯せない世界は幸福か。

平和な世界と合わない欲望を持って生まれたり、あるいは人生の途中でその欲望を芽吹かせてしまったりした人は、その平和な世界では絶対幸せになれない。


しかし無論、これらの欲望を満たせば良い、などという単純明快な話でないのはご理解いただけるだろう。そうなったら別の不幸せな人間が生まれ、いたちごっこが始まるのみ。

あぁこれでは、全員が幸せな世界などというふざけた世界には、一向にたどり着かないじゃないか。

そうお考えになるのも無理はない。僕だってそう考えた。


さらに、さらにだ。頭を抱えたくなるような問題が一つあるのだがね、例えば永遠に生きたい人が生きられないのはどうしたらいいのだろう。その人にとって不老不死になることが幸せだとするなら、どうすればいいのだろう。

この世界には不可能と言うものが存在する。存在するから、不可能という言葉が生まれたのだ。しかしながら、この人にとって、死ぬことは不幸だ。死が人生の先にあるだけでも不幸だ。それでも不可能な欲望はこの世界では満たせない。


ここまで考えれば、あの本がどれだけ無理難題を言っていたのかがお分かり頂けるだろう。少なくとも正攻法では無理なのさ。

じゃあどうすれば良いのか。僕は三日三晩ぐるぐると無い頭をまわして考えた。そうして出た答えは、一つしかない。


———洗脳だ。


幸い“彼女”がいる。洗脳は容易だ。


手始めに人間の千差万別な幸せの形を揃えるとしよう。つまり、『何が幸せか』というものを、一つの方向に向けさせるのだ。それは人の不幸を願う形であってはならず、不可能なものであってはならず、全人類が協和できるものでなければいけない。

その方向は、神とか、天使とか、要は宗教的なものが適当だろう。僕の立場的にもやりやすいしね。

神秘に理屈も理論もいらない。ただシチューを食べる様に、神を崇め、天使を祀るように思考を向けさせる。そうしてから、全世界の人間の幸せの形が一緒にする。神の下で生きて死んで仕えることが幸せって感じでね。

こうすれば全人類が幸せになったと言っても差し支えないはず。


隠し味の白ワインは、奇跡。あとはグツグツ鍋で煮込めば、さぁ完成。全ての人が幸せな世界の出来上がり。どうぞ召し上がれ。

あぁ僕は結構。どうか遠慮させてくれ。人間なんて食えたもんじゃない。






黒い空がみっともなく泣いている。


それを背にして、透明な酒で翡翠色のグラスの中を満たした。口をつけると、主張の激しい味に脳みその収まりが悪くなる。

そうして黒い池のような憂鬱な心に赤い魚が泳ぎ始めた。それが少し愉快で、痛快で、再びグラスを傾けまた喉を鳴らした。もし僕がもう一人いたならば、「よくもまぁ飽きずにこんな辛いものを摂取するものだ。」と呆れ顔で言ってくるだろう。その姿は薬中のそれだ。それでも僕は飽きずに、それを飲み干すことを日課としていた。


それにしても、酒の味を知ったのはいつだったかね。遠いような気もするけど、そうだと思えば近いような気もしてくる。不思議さ。


―――思えば、最初の酒の味は衝撃的だった。


風情も何も知らなかった頃の話だ。

僕は地下かどこかにあった酒を、紅茶用のカップに並々注いで飲んだ。そうすれば当然、襲ってくるのはあまりにも予想外の苦さと辛さ。

思わず、力の限り噴き出したのをよく覚えている。


「ぶっふぉぉぉ……!?」


いやはやあの見事な放射線ときたら。思わず自分でも惚れ惚れしてしまうほどの美しさだった。白鳥のように優雅に空を泳ぎ、処女の踊り子のように清らかな妖艶さでくるくる舞って、香り高い夜明けの太陽に消える酒の無数線。

文字通り一瞬の出来事ではあったが、美しい絵となって僕の目に焼き付いた。


「はは……。……芸術点80は固いね。」


参考までに言っておくと、もし噴出世界大会があったら優勝間を狙えるに違いない点数である。超一流、第一線、予期しないものではあったが、ここまで美しい流動体を自身が作ったことは誇って良いのかもしれない。

しかしどれほど美しい弧を描こうと、所詮噴出物は噴出物。そのままカーペットに吸い込まれ、大きなシミを作っただけで、あとは跡形もなくなってしまった。虚しいものだ。


人間もこんな風に簡単に消えてくれればいいのに、なんてくだらない事を考えながら、ちびりと舐めて飲み込んだ。今度は噴き出さなかったが、予想通りの苦さが舌を我が物顔で蹂躙した。思わず顔をしかめざるをえない。

しかしまだ懲りずに、少しだけ量を多くしてまた喉を通すと、血流が勢い良く回り始めたような感じがした。そして、脳が震える。

また、もう一口舐め、そして、一口、もう一口、飲んだ。


「うっ……。」


涙がつうっと流れた。


何故、苦みの塊である酒を飲まねばならないのか。

それは、苦しい時に唇を噛む行為に近いのかもしれない。要は苦しみを紛らわせるためにわざと苦しい思いをしているのだ。


「うぅ……ぁ。」


鼻の奥がじーんとして、涙が止まらない。


「あぁぁ……。」


泣きながら、ちびり、ちびりと、酒屋にいる貧乏くさいおっさんのように酒を飲む。不味かった。その不味さで少しだけ気が楽になった。

その少しだけ出来た余裕の中で、これを喜んで啜り合う冒険者や貴族たちの正気はどこに旅をしているのだろう、なんて想像した。

しかし頭の大部分は、違うものが占めていた。


しばらく無駄に目から水分を流していると、突如、ドゴンっ、と不躾な音が部屋に響いた。

こんな猛獣のような音を奏でられる人は、僕は一人しか知らない。人間を名乗ってはいけない音だ。

何を隠そう、この音は“彼女”が僕の部屋に入る時に、足を使ってドアを開けた音なのだ。信じられるかい? これがドアの開閉音だなんてさ。僕は信じたくないね。


「えっなに、泣いてんの? ……あぁ、酒……へ~、そんな飲み方覚えたの。」


そう言い放ち、当然のように隣に座った“彼女”は、そのまま自分も酒を飲み始めた。かくも不味い酒を、さも美味しそうに飲む姿に慄然した。

“彼女”は「あんたも飲めば?」と言ってから、過去の男がいかに酒乱であったことについてクドクドモリモリ話し始めた。一言でも表せそうな話を、どうしてそんな無駄を盛りに盛って、10分も20分も話し続けられるのか不思議さ。城下町の下品な食堂だって、こうも無駄に盛りはしない。

 

「にしても、やっぱアンタもあいつと同じ根暗ね。あんな———あんな本一冊燃やしてだけで泣くなんて。」


あぁ、……あぁ!

こいつもカーペットに消えた酒のように消えてくれたら、どれだけさっぱりするだろうか。あの酒の跡に重ねて“彼女”の心臓を果物ナイフで刺したら、酒と“彼女”が混ざり合って一緒に消えてくれはしないだろうか。

でも、それは全て想像の内でしかないものだった。事実は結局、両手で酒の入ったコップを包みうつむいたまま、何も返せない無様な僕がいるだけ。最愛の話し相手を失った苦しみを、酒で誤魔化しているだけの僕には復讐さえできない。ただ手に力を入れて、小さく歯を食いしばった。


「……何か言えば?」と、“彼女”は嘲笑う。


僕は何も言わない。


憤怒は化け物だ。

胸の中でのたうち暴れる化け物が、胸を、頭をその長い爪で引っ搔いていく。たまに鋭利な牙で噛みつく。見えない血が流れて、言葉を絶するほど痛くて苦しい。そんでもって質が悪いことに、そいつは理性なんていう痩せっぽっちな怪物の言う事なんか聞いてくれないのさ。

唯一化け物に対抗できるのは、恐怖だ。こいつは凄い。過去の記憶から生まれた恐怖は、即座に化け物を鎖でつなぎ、檻に入れ飼いならしてしまう。だが恐怖は心臓をぎゅっと握り、手足を震えさせる。


だから恐怖でもって怒りを鎮めた僕の手足は、ガタガタ震えていた。その有様を見た化け物が、檻の中で「ふざけるな。なんでこんなやつに。」と叫んでいた。


それでも僕は、何も言わない。

“彼女”の機嫌を損ね、過去の自分に戻るのが何より、本当に何より恐ろしくて恐ろしくて堪らなかったのだ。


「あんな熱中してるから、何かと思えば、ただの一冊の本。それを見てニヤニヤしてるあんたを見た私の気持ちくらい察してよね。気持ち悪いったらありゃしない。燃やして何が悪いっていうの?」


そんな事をほざく“彼女”を背に、震えながら飲み干した初めての酒の肴は、涙だったというわけさ。つまらないオチでごめんね。


あぁ本当に、思い出しただけで反吐が出る。反吐を出す代わりに、グラスに入った酒を飲んだ。あの日の酒よりは上等だ。つまみだって、比べりゃ最上級。何より、ちょっと楽しい。でもやはり不味かった。

もし、あの本と会話しながら飲めたら、きっとこの酒は格別の味になるに違いないね。だから僕は一生、酒の美味しさを知らずに生きなくてはならないわけだ。


あぁ残念、とつぶやくと、雨が叩きつけられた窓がトトトッと陰気な返事をしてきた。


「僕だってもう泣き止んでいるんだから、お前だって泣き止めばいいのに。陰気な野郎め。」


依然雨が降り止まない。


思えば僕は、あの日以来泣いていないかもしれない。妹のように泣き虫ではなかったけど、小さい頃は書庫でよく泣いていたのになぁ。そうしていつもあの本にシミを作りながら、慰めてもらっていた。懐かしい思い出だ。

そして今では何の因果か、逆に、人が泣くのをよく見るようになった。


全く持って可笑しなことだよ。猿が二足歩行をして物を作り出したことより、ずっと可笑しい。いや、それは言い過ぎか。でも、やっぱり可笑しいね。僕は“世界中の人々が幸せになること”を目標にしているはずなのに。どうして人の涙なんて見るはめになるのさ。

珍奇、不可思議、奇々怪々な巡り合わせとはまさにこのこと。


それは兎も角、涙と言えば一番印象深いのは、やはりあの子の涙だ。


独特な喋り方をする女の子。おおよそ涙とは程遠い、まるで涙袋には砂しか入っていませんとでも言いたげな表情をしていたが、蓋を開けてみればただの人間だった。開けずとも分かってはいたけど。

もっとも泣いたと言っても、彼女の場合精神的なものではない。肉体的痛みに対して、いや、どちらかといえば生理的なものかもしれないね。ボロボロと黒い瞳から落ちる雫は大粒で、何となくしげしげと眺めてしまった。いや別に、芸術品を見るように綺麗だから鑑賞したというわけではないがね、あぁこんな泣き方するんだなぁという感じで。

子どものころ、ダンゴムシを割ったり、蟻を泳がせたりしたときの反応を観察したことがあっただろう。そんな感じに近い。


少女は泣いた。鼻水を垂らしながら苦悶の表情を浮かべ、拘束具のついた手足を思いっきり引っ張りながら、泣き叫んだ。


「あ゛ああ゛あああああ゛あ!!!」


駝鳥の断末魔のような泣き声は、一体その身体のどこからというほど大きく、地下室に響き渡った。あれだけ澄ました表情をした子どもと、泣き叫ぶ子どもを同一視できないほど、みっともなく痛みに悶絶していた姿は印象的だったね。

ガチャガチャと鎖が床にこすれて鳴らす音と、子どもの叫び声が地下室に響き渡って、一つの音楽となった。趣味が悪いと言われるかもしれないが、悪くない音だ。


そもそも事の発端は、“世界中の人々が幸せ”になる記念すべき第一歩の道具として、この子どもを選んだ事からだった。僕はその手段として、前述の通り宗教、つまりアンジュ教を使うことにしたのだ。

ところが生憎、アンジュ教は巨大な宗教ではあるものの、そこまで本気で取り組んでいる人は少ない宗教でもあった。そこで役に立つのが“彼女”の記憶を操る能力。だが、それだけではまだ足りない。

“彼女”の力は、思想を変える能力じゃない。あくまで記憶であり、つまり、人間本来の性質を変えられるほどのものではないということだ。さらにその記憶ですら、ある程度制限がかかってしまうそうで、言葉通りの使い勝手が良い能力ではないのかもしれないと最近は思い始めた。しかし、“彼女”はその話をあまりしたくないようで、詳しいことは分かっていない。


閑話休題。

これは誰に言っても納得していただけるものだろうがね、人間とは生来怠け癖があるものだ。そんな人間が本気になるには、目に見える分かりやすい利益がなくてはならない。馬の前に人参をぶらさげて走らせるように、人間の前にも、病が治ったり金が手に入ったりなどの具体的な利益をぶらさげなくてはならない。


それがアンジュ教で言う奇跡さ。


そしてその奇跡を叶えるのは、……いや、叶えたように見せるのは、“彼女”の能力であるが、その奇跡の使い手は別途で用意したほうが良いと言われた。


「いない人物をいるように変えるのは結構メンド―なのよ。いる人物をいないものとする方が余程楽ね。だって実際記憶変えなくても、いてもいなくても同じような人なんて大勢いるし。……あーあ、なーんであたしばっかり、こんなに頑張らないといけないわけ? あたしはアンジュ教の発展なんてどうでもいいのに! ……まぁいいや。少しは働きなさい。ほらさっさと、ある程度それっぽい感じの天使役見つけて来るのね。」


そう言われた時、ふと、あの時パーティで会った女の子が脳裏を過ぎった。

小さな赤い靴、細くて白い足、濡れたような黒髪、癖の強い語り口調に平坦な声、のっぺりとした顔。久しく忘れていたことが、思いがけず鮮明に蘇ったのさ。びっくり仰天だよ。そんでもって「これも縁」なんてあの本の言葉も、この記憶のセットサービスで付いてきた。

ともかくまぁ、天使役はあの子がいいかな、と考えついたわけだ。


幸いなことに、ここ最近の話であるが、あの子の母親である勇者は亡くなっていた。死因は自殺。

山奥の廃屋に油を巻いて、廃屋ごと焼身自殺したらしい。随分と華々しい最期なことで。死に方が華々しくても、どうせ自分じゃ見られないんだから、意味がないと思うがね。


ちなみに自殺は、勇者の死因としては、もっとも有りふれたものだったりする。二番目は老衰。永遠を願わず小細工をしなかった勇者は普通に寿命で死ぬ。三番目には他殺が入るが、これはほとんど例を聞かないね。

勇者どうしがどれくらい繋がっているかも定かではなく、そもそも自身の能力を公表していない勇者も多いのに、どうして殺すことが出来ようか。下手を打てば、確実に世界が滅びるのにさ。

要は整然と駒が並べられたチェスボードの上に猫が乗ってきたようなものである。チェス上のルールなんて知ったことかとばかりに、どーんと、ふてぶてしく居座る。まるで此処ここそが自分の居場所だ、とでも言わんばかりのご様子。こちらは機嫌を取って、なるべく駒を崩されないよう頼み込むしかできない。

あぁなんて不公平。世界は元々不公平だが、これではあまりにも偏りが大きすぎだ。どうしちまったんだ神よ。

しかし、能力的には最強と言って良い勇者も、精神的には未熟なものが多いというのもまたよく知られている話だ。


故に号外で勇者の自殺を聞いた民衆も、「あぁまたか。」と言った様子であった。葬式は大々的に執り行われ、勇者は空葬されたが、全てのことはスムーズに事が進んだ。まぁ、慣れているんだろうね。

しかし、この勇者が旦那に残した遺書だけは、この国の中で少し話題になったらしい。


『君は今とても愉快な顔をしていることだろう。

この目で眺めることが出来ない事が至極残念無念。君の涙は一人にも愉快をもたらさない、無益なものと成り果ててしまった。

だから笑ったほうが良い。

そして、もし君が真に私を想ってくれているのならば、喜んでくれ。今日限りで、私はこのような世界と離別出来たのだから。しかし、君は屹度納得出来ないと推測される。私が今更死を選んだことを不思議に感じるはずだ。

君は馬鹿だからね。

故に、甚だ面倒ではあるが、逆手向けに、その不思議を解決して差し上げよう。


不思議と言えば、私は常に不思議だった。

好んで汗を流し、涙を流し、骨身を砕き、身を粉にする人間が不思議で仕方がなかったのだ。

幼少時、それはただ馬鹿のすることだと結論付けていた。苦労は不幸だ。故に不幸は避けて生きるべきだと、信じて疑わなかった。

しかしそれは誤りだったのである。

不名誉ではあるが、私も君とお揃いの馬鹿の称号をぶら下げねばならない。そして私が馬鹿にした人間たちの方が、はるかに聡明であった。


そもそも微々たる幸福と無限大の不幸が存在する不釣り合いな世界で、不幸を避け幸福を得ようとすること自体が馬鹿々々しいのだ。

生きれば生きるほど不幸になる。乃ち損だ。

即座にこのような世界から離れることが、唯一で絶対的な、賢い選択肢と言えよう。

しかし問題が在る。

誰だって、私だって、死ぬのは恐ろしい。未知への恐怖と、生存欲求が邪魔をしてくる。


人間は、真っすぐ死の恐怖に耐えられる程強くはないものだ。最小限の不幸で生きてきた人間に、死の恐怖には耐えられない。だから人生には、苦しみが必要なのだ。死の恐怖を上回る苦しみが。そして初めて、死の恐怖が霧散する。

だから、苦しむ人生を歩んでいる人は賢い。私などよりも余程。しかしこの年でそれに気づけたのは幸いであった。


逆に、そうではない人間が死ぬ時は、心が壊れるほどの恐怖を伴うことだろう。だから、人生が上手く行き過ぎた人は、死ぬ時に恐怖の帳尻をあわせられるというわけだ。地獄なんかなくたって、人間の幸不幸は平等だ。


平等に全員不幸である。


そのような訳で、私は自ら不幸になりそして自ら死んだ。君も気を付けて生きて死んでくれ。

さて、愚かなで凡俗で優しい君に分かりやすく陳述してみたが如何。ご理解頂ければ幸い。それでは左様なら。愛しているよ。』


一部の学者気取りの者どもや貴族は、この文と勇者と言う生き物を繋ぎ合わせてどれだけ深読みできるかを競い合っていた。他の人々は、強い関心を示さず、自殺者らしい気の触れた文章だと鼻で笑った。夫のみが棺の前で静かに涙を流していた。


まぁそんな事はどうだっていい。かく言う僕だって、他の人々と同様に勇者の遺書に興味などないのさ。

感心があるとすれば、その子ども。


今その女の子は、なんの能力もないただの人間である夫や兄弟と、しがない本屋を営んでいた。しがないと言えども、それなりに繁盛はしており、その地域の顔役程度の立場にはなっている。

故にその家には十分な資産があるはずだが、その子は学校には行っていないようだった。まぁパーティで会ったあの様子を鑑みるに、行く気などないのだろう。


ある日の夕暮れ時、“彼女”に頼み込み一緒に来てもらい、ローブで顔を隠しながら例の本屋をちらりと覗いてみた。丁度その時、その子は一人で本屋の店番をしているようだった。店番と言っても名ばかりで、ぐーすか寝ている。動く気配はない。灯篭の光ばかりが爛々と揺れ、店内を動かしていた。

酷く不用心だと呆れたが、すぐに考えを改めさせられた。


この辺では見かけない人間である僕や“彼女”を不審に思ったのであろう、両隣の家や対面の家の人がわらわらっと出てきたのだ。蟻の巣に木の棒を突っ込んだ時と様子が似ている。その時は“彼女”になんとかしてもらったが、いつもこうであるなら、あの子一人に店番さしておいたって一概に不用心とは言えないね。

まぁ僕達みたいな奴じゃなきゃ、しっかり防犯できるだろう。胸を張って誇り散らかしても良いシステムだ。


“彼女”の力を使えば、店内に入り、そしてあの子を連れだすことは容易だった。それこそ拍子抜けするほど。

僕の話を聞いているのか、聞いていないのかもわからない女の子は、無言で僕の手を取って馬車に乗り込んだ。当然ながら騒ぎは起きない。


「……。」


子どもは馬車の中で、どこを見るでもなく無言で、ぼんやりゆらゆら揺られていた。僕も無言でその姿を何ともなしに観察する。人の顔を直視することは今でも酷く緊張するが、この子であれば目の前で糞が出来そうなほどリラックスできるのだ。

だって僕、人形に対して緊張するほど頭イカれてないからさ。


もっとも隣に“彼女”がいるので、一人の時と全く一緒というわけにはいかない。


「ね、あ、あの、けっ……きょく、その、ほんとに何もしないことにしたの?」

「……。」

「な、なんで、だ、だまって、つい、ついて、……ついて、きたの?」

「……。」

「ぼっぼくのこと、おぼ、えてる?」

「……。」


“彼女”の能力によって、ちゃんとマトモに質問しているように聞こえているだろうに、この子は何も答えなかった。いくら人形たって、よく見れば一体ずつ表情があると言うのに、この子は表情と言う表情が抜け落ちている。あの日、あのパーティで会った時よりずっとずっと酷い。

ただ大きく馬車が揺れるたびに、少しだけ不快そうな表情を示した。それだけが意識があるただ一つの貴重な貴重な証拠だった。


神殿にたどり着くと、地下まで行き、この子の両手両足を広げて拘束した。そして“彼女”と記憶を操作された治癒師を横に座らせた。


―――天使に四肢はいらない。


そう告げるが、子どもは何も言葉を発しない。長らく喋っていなかったらしいので、どうせ急にまともな言葉なんて発せるはずもないがね、しかし「あー」とか「うー」も言わない。怯えた表情さえなかった。

ただただ、黒くツヤツヤした瞳がじっとこちらを見ていたのだ。

多弁な“彼女”が珍しくただ一言、「壊れてる。」と言った。もちろん僕も諸手をあげて賛成したさ。それ以外どうすればよかったのさ。


僕はノコギリでまず彼女の左腕を削いだ。油で止血をして、それだけでは死んでしまうので、治癒師には頬がこけるまで治癒魔法をかけてもらう。

あの子が痛みに叫んで、やがて白目をむき痙攣して、最終的には泡を吹いて気絶した。しかし何を思ったか、“彼女”は何度も水を浴びせ起こしてから気絶させることを繰り返した。


僕の心の中にむくむくと愉快な感じがした。

今思えば悪趣味だったと思うがね、あの時は何かタガが外れていたのだと主張させてくれ。あまりにも子どもが人間らしくないから、虫と子どもの違いが良く分からなくなっただけ。たったそれだけ。


しかし虫と違い、四肢を削ぐのは想像以上に重労働で、右腕に半分ノコギリが入ったところからはもう興も削がれた。起こすこともやめて、ただの作業になったのも必然と言えるかもしれないね。

それでもあの子の瞳に溜まった涙は、なかなか止まらなかったのをよく覚えている。ぽろぽろ、ぽろぽろと、雫になって零れ落ちたのが、鼻くそや唾液と混ざって汚い液となった。余程、痛かったのだろう。

あーあ、可哀想に。こんなことをする奴は鬼に違いない。酷い棚上げを自覚する前に、脊髄的にそんな言葉が脳裏を過った。


まぁもっとも、今のあの子は泣いた記憶なんてこれっぽっちも覚えていないはずだ。

僕の最後の手向けさ。“彼女”に頼み込んで消してもらった。そして今では立派に天使役として存在している。


長くなってしまったが、ともかくこれが一番印象に残っている涙だ。


「はぁ。」


あの時のことを思い出すと、高揚感と不快感が、行ったり来たり、行ったり来たり、荒れた海波のように忙しなく押し寄せては引いていく。腰が落ち着かない。何もする必要はないのに、何故だかソワソワした。

それを誤魔化すように酒を飲みこんでも、雨のせいか、まだ完全に気分が晴れなかった。


しばらくすると、トントン、と、雨に紛れて客が来る。“彼女”は例のごとくノックなどしないので、他に来るとすればあの男しかいない。

あぁ憂鬱だ。


ちょっと間をおいて扉があいたと思えば、酒を片手にやけ面の酔っ払いがいた。だらしなく伸びた太い髭は、せめて一方向に真っすぐ伸びていればまだ見栄えがするだろうに、あっちにこっちに好き放題伸びている。それは自由気ままにあっちへこっちへ顔を出す彼の性格をよく表していると思うがどうかね。

そんな、いい加減で風来坊的な性格をしていながら、彼の纏う雰囲気は嫌に重苦しい。ちなみに彼は、現在この国で最も古い勇者だ。


「よぉ。入って良いか?」


そう言った彼は、僕の了承を待たずに部屋にずかずか入り込んできた。その際手土産と称して、酒を手渡してくる。身だしなみのみの字も知らないような男だが、その位の気遣いはあるようだ。

もっとも僕は、あの酒の9割は結局彼の腹に入ることを知っている。


「おいおい、随分陰気くせぇ顔で飲んでるなぁ。」

「……え、あ、す、すみま……せ……。」

「いやぁ別に。責めてるんじゃないけどよ。まぁなんつーか、飲み方なんて自由だろうけど、ちょっとは楽しんでやらないとその酒が可哀想だぞ。」

「はぁ……。」

「発酵し損だ~って、ぴーぴー泣いてる声が聞こえるぜ?」


妙なことを言いながら、無精ひげが茂った口に酒を運ぶ男は、確かにさも美味しそうに飲んでいた。

まるで、味覚が正常のそれであるかのように。


「あ゛~うめぇ。」


薬の後遺症などまるで無いかのように酒に酔いしれる姿は、真相を知ってしまえば、馬鹿馬鹿しいとしか言い様がない。自分も他人もつまらない嘘で騙すのは、宗教家だけで十分さ。だからこの男は馬鹿なのだ。僕も大概馬鹿だがね、こいつほどじゃない。

さらに僕の馬鹿さ加減がレベルアップしては敵わないので、正直関わり合いになりたくない男である。


それでもこの男を拒絶しないのは、この男が“彼女”を除けば、唯一僕の過去を知っている人間であるからに他ならない。要はいつ爆発するか分からない爆弾のようなものさ。丁重に扱って扱いすぎることはないね。

しかし反面、その心配はほとんど杞憂に終わるだろうとも感じている。


この男は鬼神のようにたちまち現れ、四方八方に口出しするかわりに、手出しはしない、どろんと現れて、へらりと無駄口叩いて、ゆらりと去っていく、そんな男である。

基本フットワークは軽いのに雰囲気が重苦しいのがアンバランスで、なかなか性格が掴めなかったが、ここ最近上っ面でぺらっぺらな会話を交わして、ようやく少し理解できるようになった。

どうも雰囲気通りの男ではない、軽い男だ。


「なーにがそんなにお前さんを憂鬱にさせるんだ? 昔のお前さんとは比べ物にならないくらい、名声も、地位も、名誉も、権力も、富もあって、望めば傾国の美女だって思うがままだろ?」と、男が言う。


「こんだけ好き勝手やっといてそれじゃあ、犠牲になった人間も浮かばれねぇよ。」

「ぎ、ぎせ、……い……?」

「犠牲だろうがあんなもん。オグル教徒なんてへんてこなもんも作りやがって。あのせいでどれだけの人が———って、まぁ、そんな事お前さんに言ってもしょうがねぇな。」


確かにオグル教徒という敵対宗教は架空の産物だ。提案者は僕で、作り手は“彼女”。

奇跡が隠し味なら、オグル教徒はスパイスである。

しかしそれは、人間を一つに纏め上げるための共通の人工エネミー、でしかない。どうしてそれを犠牲と取られるのか理解不能だ。

異世界人は思考回路まで異世界的なのかね?


「まぁんなこたぁ良いんだよ。んで、実際どうなのよソッチのほうは。」

「?」

「女だよ女。好き放題連れ込めるだろ?」 


にやりと笑う男。

当然“彼女”がいる限り、僕がそんなこと出来るはずもない。この野郎、分かっていて言ってやがる。


「……それともあの女一人か? だとしたら、同じ男として同情するぜ?」


ぶっ殺してやりたい。


「冗談冗談。そんな怖い顔するなよ。悪かった、ちょっと俺も苛々しててな。八つ当たりしちまった。でも、お前さんも上手くやったなぁ。あの女はお前さんに相当お熱だぞ。もう全部お前さんの、思うがまま。」

「……。」

「勇者は基本的に行動的じゃないヤツがほとんどだからよ、アクティブな奴が味方につくだけで、一気に世界の模様が変わる。」

「……はぁ。」

「だがな……。うーん。」

「?」

「さっき八つ当たりしちまったから、お詫びに忠告くれてやるよ。あんまり派手にやりすぎるとよ、黙ってねぇ奴らがいるから気ぃ付けろ。」


黙ってねぇやつら? なんだそれは。聞き返しても、これ以上は説明する気はなさそうだった。ただの法螺話なら殺意を高めるだけで済むが、そうでなければ注意するべきだろうか。だがこの男から実のある話をされた覚えがない。


「俺がもし善人なら、お前さんとあの女を殺してでも止めるんだろうなぁ。……あぁ、安心しろよ。俺はなんもしねぇ。犠牲になった人たちが、可哀想だとも気の毒だとも、思わんこたぁねぇけどな。まぁ所詮は他人事ってこった。何より俺が善人面なんてよ、それこそ面白くもない冗談だろ? なぁ、そう思わないか?」

「……え、あ、いや、え。」

「いやそんなキョドんなよ。そうっすね、くらいで良いんだぞ? こういうのは。」

「え、そ、そそそ、す……すね?」

「あー…………おう。悪かった。」


出来損ないを憐れみ、且つ鬱陶しがる目。久しぶりに見るその類の目に、思わず背筋がひやっとした。呼吸が荒くなるのを感じる。あぁくそ、こんなので泣きそうだ。


「そういや善人面といやぁ、最近来た勇者思い出すなぁ。」


男はすぐに話題を転換した。

気を遣われたのが伝わってきて、脂汗がどっと出てくる。耳がじーんとして、それが頭に染みて、男が何を言っているか分からなくなってきた。くそ、下に見やがって。ちょっと気を遣ってみると、良識がある人間側に立ったような気がしてくるんだろ? そんで僕には、気を遣わなきゃいけない人間っていうレッテルを貼り付け、下に置く。

良かったなぁファッキン野郎。


僕が完全に孤立する前は、そういう奴も一部いたもんだ。自分の自己満足に他者を巻き込みやがって。思い出すだけでアイツら全員、目の前の男と合わせてミキサーにかけたくなってくる。


……あぁ駄目だ駄目だ、思考を切り替えろ。人間がそういうのだってことは、分かっていたことだろうに。


ええと……最近来た勇者……と彼は言ったね?

確かに、新しい勇者は、勇者にしては随分普通の、いやどちらかと言えば世間的に好ましいとされる部類の男だった。珍しい。いや珍しいなんてもんじゃない。非常に社交的で、分かりやすく親切で、広く正常だとされれる倫理観を持っている勇者なんて今までいたかって話さ。

こう言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、むしろこれは小袈裟である。本当に信じられない、信じたくない話だが、勇者とはそれだけ奇抜な変人が多い。


今でこそ多少まともに見える目の前の男も、王前に連れてこられた時は酷かったそうだ。目は虚ろ、良く分からない戯言を繰り返した挙句、海老ぞりして失禁。薬漬けついでに尿にも浸かってしまうなんて滑稽話にもならない。

当然、あの自殺した女勇者も、まともじゃないし、“彼女”だってそうだ。

それでもまだ、国におとなしく留まってくれているだけ、マシな部類だというのだから、勇者は本当に気狂いだらけさ。


あの本の望む世界に、こいつらはいらない。

そもそも“彼女”の能力が効かない時点で、退場してもらうしかないわけだがね。まぁ勇者は人間ではないだろうし、しょうがないよね。


「俺みてぇな人畜無害の勇者と違ってよ、あの新しく来た勇者はアンジュ教の障害になるだろうよ。」


男は酒を飲み、煙草をぷかぷかふかしながら目を細めた。


「殺るんだろ? あの勇者を。」

「っ。」

「ははは、俺って意外に情報通なんだよ。」


何処でその情報をこの男は知っているんだ。


確かに彼の言う通り、新しい勇者は真っ先に殺すべき対象に入っていた。勿論僕が何かをしたわけではなく、“彼女”がそうしただけだがね。

そしてその勇者については、既に一つ、手を打っていた。


そういえばその時にも、涙を一つ見たね。


それは若い女の涙だった。その涙は、あの子どもとは対照的に、静かにゆっくりと頬をつたったのを覚えている。僕はなんであの女が泣いたのかが今でも分からないが、どこか一種の神秘的な美しさを帯びていたのはちょっと否定しようがない。

あれは細長いクリスタルだ。僕という芸術的感覚が乏しい人間を前に、無駄に、無価値に、無残に生まれたクリスタルのなんて惨めな事か。


女は、例の新しく来た勇者と共にこの国に来た人間であった。そして特別な能力はない者だった。それが本当かどうかなんてわからないが、“彼女”の能力が通じることは確かであったから、勇者と同等の存在ではないようだ。

その日は、その勇者がいない隙を見計らいその女の部屋に入り、妹の記憶の一部を植え付けた。ただそれだけだった。それは最終的に、その女の幼馴染の勇者を殺す種になるということを“彼女”は確信していたが、あくまでただの種にすぎなかったのである。


しかし女は、静かに涙を流し、小さな嗚咽をあげた。


「ぁ……。」


何が悲しくて泣いているのだろうと思ったが、当然聞けていない。そこまで興味もない。ただ、その一粒の砂のように小さな疑問によってしばらくの間女をみていたら、扉の向こうに例の勇者らしき気配がして、“彼女”と二人ベッドの下に慌てて入ったことは記憶に新しい。随分状況に似合わない呑気な絵面だったと思うよ。結局、勇者は入ってこなかったようだけど。


まぁとにかく、こんな感じでちゃんと対策はしてある。

もっともこんなまどろっこしい方法は、僕が思いつくようなものではなく、“彼女”の提案に他ならない。“彼女”は一見、外見からしても猪突猛進的な性格に見えなくもないが、その実僕よりは頭はマシな部類のようだ。

良いか悪いかも僕のスカスカ頭じゃ大して良く分からないが、色んな人間の対策やアンジュ教の管理を全て任せて上手くいっているようなので、実は物凄く頭がいいのではないかと睨んでいるね。


「じゃあ、まぁ、色々気ぃ付けろよ。あとアイツを抱く時は、丁寧に抱いてやれよ。あれでも一応女だからよ……っていうのが建前で、正直、アイツを怒らすと怖いぞ? 洒落じゃなく殺される。」

「……。」

「その酒の残りやるからテキトーに飲んでいいぜ。じゃあな。」


言いたいことだけ言って去っていった男の後には、雨の音のみが残った。


「……好き勝手言いやがる。」


男が来る前までは五月蠅いとさえ思っていた雨音が、今や長年連れ添った妻のような愛おしさを感じるのだから、それだけ男の声が耳障りだったということだ。

もし神がいるとして、二度と人間を僕の前に存在させないという誓いをたててくれるなら、手の二本や三本くれてやっても良いとさえ思えてしまう。

冗談? いやいや、純粋純正純情純然、神以て本音さ。もっとも神なんて信じていないから、全く持って意味をなさない誓いだがね。


もし仮に、一億歩譲って、神なんかがいたとしても、そいつはきっと機能してないゴミだ。あぁもしかしたらこの雨はそいつの涙かもしれない。

過去には実在していたかもしれない神は、今はいてもいなくても関係がないゴミ。だってそうでなければ、僕は……。


「あぁ!! くそ野郎が!!」


過去の惨めな僕を思い出して、そして自分を見下ろす人間を思い出して、激情が身体を貫いた。思わず身を固くして耐え難いものを耐える。ただ泣きそうになりながら耐えるしかない。しかしその激情が最高潮にくると、どうしても檻には閉じ込めておけない化け物となり、ソイツが身近にあったランプを殴り壊した。


がしゃん、と、何かが壊れた音がして、やっと少しだけ心に安らぎを得る。


「……はぁ。」


やがて何をしているんだろうと思って緊張をほどくと、胸の中に不快な感情がじわりと広がった。それは悲しみのような、不安のような、怒りのような、とにかくこの空のような感情。

全くもって嫌になるね。時々、発作のように起こるこれは、僕の心に新たに傷をつけていく。痛い。体が傷つけられたより、よっぽど。そうして僕は死にたくなったり、あるいは殺したくなったりする。


「……あーあ。」


本当に何であの本は……世界中に人々に幸せなんて……。


まぁそれでも、あの本の願いを叶えられる可能性がある立場にいるわけだから、努力くらいはしてあげよう。これは恩返しではない。恩返しと銘打った暇つぶしだ。話し相手がいなくなった世界で、退屈を殺すだけ。

ついでに、あの本の願いがかなえられたなら、まぁそれはそれで万々歳ってところかな。


それは恐らく、あの本が望んだ形でないことくらい、馬鹿な僕にもわかるけど。


雨は未だ止まない。さぁ明日は晴れるかな。


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