awakening
「神様はいつも人を見守っているのさ。」
少々乱雑ながらも大人びた字が、浮かび上がる。耳にタコができるほど、いや、目に焼き付くほど何度も見た文だ。
その文の意味を不愉快に思いながらその下に文字を書く。
「神なんていないよ。」
僕が必死に何かを伝えたいときは、この時間だけだ。本と話す時だけ。それ以外はあきらめている。だから僕の抱く不愉快は、案外言葉のイメージ程悪いものじゃなくて、むしろ清々しい不愉快と言える。
口から言葉を発するわけではないけど、ここで僕は初めて僕にとって意味のある言葉を紡げるのだ。
「ふふん。ついに、言い切るようになったね。」
「いないからね。」
「これまたビックリ、いるんだなぁ。目に見えないだけで。だから誰も君に優しくしなくても、愛さなくても、君は正しく生きんしゃい。そうすれば絶対に報われるからさ。」
「そんな訳はないさ。」
「おやまぁ。どうして?」
「お前は、不幸は神が人に与えた試練だって言ってたよね。乗り越えれば強くなると。そして強くなれば、幸せを感じる器も大きくなるし、世界を守れると。」
「そうだね。」
「でも僕は、その試練という名の不幸に押しつぶされて、日に日にできないことが増えているよ。これはどうなの? 神がミステイクしたってことかい。だとしたら、随分間抜けな神だね。それはもはや、神という名で存在するべきではないよ。だから僕は神なんていない、って言ったのさ。」
「なるほどね。」と本は返した。
「そうか、君はきっと、どこか勘違いをしているね。」
「どんな?」
「試練っていうのは、学校のテストとはわけが違うのさ。あのね、君が不幸を感じるのは、不幸を感じ得る心があるから、でしょう。じゃあ、なんでそんな心を神が与えたのだと思う?」
「知らないよ。」
「必要ないなら与えないさ。必要だから与えたのさ。男に突起があるように、女に穴があるように、ね。じゃあなんでだろうね? 考えてごらん。」
「知らないって。」
「しょうがないなぁ。じゃあ教えてあげよう。」
次に浮かんできた文字は、到底僕には理解できるものではなかった。
「人々が助け合うためさ。」
あの時も僕は本当に腹が立って、本を強引に閉じて本棚に放り込んだのだった。今思えば、もう少しちゃんと向き合って、話し合っていれば良かった。
次の日も、その次の日も、僕は本と会話をしたけど、この時の話にはどちらも触れなかったから、結局あの言葉がどういう意味を孕んでいたのか未だに分かっていない。
◇
奇抜な、正直似合わないとしか言いようもないオレンジ色のくすんだ髪に、柑橘系の香水のキツい匂い。厚化粧に年を考えない露出の多い服。数多の正気を削り取るような魔物どもに日々立ち向かう冒険者だって、なまじ人間の形をした化け物のようなこの女を前にしたら金玉が縮みあがることだろうね。
目は二つ、鼻は一つ、口は一つ、かろうじて付いてはいるものの、この生物と同じ種類の生物だと考えるだけで、命を絶ちたくなってしまう。そんな純粋で圧倒的な、生物としての気持ち悪さがそこにはあった。
文字通り口が裂けても決して美しいとは言えないこの女は、しかし残念ながら、非常に遺憾の意を示したいものではあるが、僕にとっては救世主であり、絶対に機嫌を損ねてはいけない人であったのだ。
「さすが、どの方向どの距離から見ても、顔は一級品ね。」
“彼女”は僕の顔を無遠慮に覗き込みながらそう言った。
僕達はソファの上で、腕を組み、透明な酒を飲んでいた。“彼女”の身にまとうオレンジ色がその透明な液体に反射し、味は吐瀉物以下に落ちる。燃えるような不快感に吐き気を催しながら、それでも何とか飲み込んで笑った。
「へへ、へ。ありがとうございま、す。」
そんな僕に対して、“彼女”は呆れたように見下した。
「なーんでその顔で、その性格になっちゃったわけ?」
「うえぇへ、へへ……へ。」
「その笑い方はほんとにやめて頂戴! 気持ちが悪い!」
上手く笑えないのは、“彼女”を前にしているからではない。誰を前にしたって、何なら鏡を前にしたって僕は綺麗に笑えない。生まれつきなのかどうかは定かではないが、我ながら薬物中毒者のような笑い方だとは思う。
とはいえ、治療薬も治療法もなく、この点では薬中よりひどい。多分この笑い方は、一生変えられることはないのだろうね。
僕がどうしても綺麗な笑い方ができない事を知っている“彼女”は、大きなため息をついた。
「あーあ。あんたその王子様みたいな顔に感謝しなさいよ。そうじゃなきゃ、あんたなんて一生底辺這いまわっているだけの男だったんだからね?」
「ふぁ、はい。わが……わかって…………ま、す。」
「全部あたしのおかげよ。あたしがどれだけアンタに尽くしてきたことやら……。ちょっとくらい、そのお返しを望んでも良いとはおもわなーい?」
「あ……も、ちろんで、す。」
「あのね。別にお金とか、ブランド品とか、高級車とか、そういうのはいいの。昔はそういうのばっかり興味があったけれど、今思えば馬鹿なことしていたとしか思えない。まぁ若気の至りってやつかもね。でも今は違う。今のあたしはね……愛が欲しいの。」
「…………。」
「ねぇ……愛して?」
「…………。」
「…………。…………。……なんか言えば?」
「っ。」
ふいに“彼女”に手をつねられた。特別力が強いわけでもないから、そこまで痛いわけでもないが、不快感が胸の内でうねりをあげる。同時に生理的嫌悪も湧き上がる。触るだけでこれだけ気持ち悪い生物も珍しいだろう。
それでも黙って、理不尽な暴言にもにっこり笑顔で耐えなくてはいけない理由が僕にはあった。いつものように自尊心を心の隅に追いやり、ヘラヘラ笑って、“彼女”の吹き出物だらけの頬へキスをすると、少しだけ機嫌は良くなったようだ。
だがそれは、上機嫌になったという意味ではなく、最低値にあった機嫌がほんの少しだけ上がったというのみである。“彼女”はいつも不機嫌だ。そしていつも不安そうで、いつも何かに苛ついている。
「……あーあ。どうして、私はこう外れくじばかり引くのかしら。嫌になっちゃう。神様に見放されているのね。……はぁ。」
“彼女”はおもむろに、両手で僕の顔をわし掴み、ぐっと押さえつけた。“彼女”の分厚くて脂ぎった手から、不快感が皮膚の中へ浸透してくる。
しかし、今までの経験上ここで拒否すると後から非常に面倒なことになることを知っているので、無反応を貫いた。これは頭で考えたというよりは、無意識的な、反射みたいなものだったが。
「あのね。」と、分厚い唇から、鼻にかかった甘ったるい声が漏れた。
「約束したでしょ?」
「……。」
「あたしは、あんたの糞ダサかった頃の記憶を皆の中から消してやったし、今も消して作り上げているし、それだけじゃない……あんたの望みを最大限叶えてあげている。これボランティアだと思った? 残念。あたし、ただ働きはしない主義なの。」
「あ……か、代わりに、ぼ、ぼくを……あの……っていう、……おはなし、でした、よね。もちろ……ん……わすれて、ない……です。あふぇふ。」
「あんたは私の理想の王子様であればそれでいいのよ。」
―――5年前、この国にまた、一人の勇者が連れてこられた。それが、“彼女”だった。
“彼女”は俺を見た瞬間、「王子様!」と叫んで、今では考えられないことだけど、潤んだ目で僕を見つめた。恋に落ちた目、というのかもしれない。どうでもいいか。
本物の王子は口を閉められないほど驚いていたし、周りの人間だって、勿論僕だって呆然としていたが、我が道を行く“彼女”は気にしていないようだった。
そこから、僕と“彼女”の、この歪で忌むべき関係は始まったのだ。
「思い返せば、出会った当初から情けない表情していた……気がするけれど、でもあたしはあんたのその人形みたいな顔と、濡れた金色の瞳が美しいと思ったわ。まるで本物の王子様みたい、って本気で思ったのよ。」
んふ、と“彼女”は笑う。
「あたし、昔からお姫様になりたかったの。」
もう何度目か分からない話を、唐突に、そして世紀の大発見のように語る。それを聞くのももう慣てれしまった。
「別にアンタをどっかに閉じ込めてもよかった。あたし一人用の王子様。あたしだけを見て、あたしだけを愛して、あたしだけを求める。それも良いと本気で思ったわ。でも……これだけ良い顔なんだもの。どうせなら皆に自慢したい、って思うのもおかしくないでしょ?」
カサついた皮膚が動き、鼻の孔を広げ、やたら赤くてテラテラした虫のような口が動く。それが笑顔であると認識するのに数秒かかった。
「だから助けてあげたの。たまたま良い能力持っていたからね。」
「……あ、記憶を操る能力……のこと、で、すね。」
「そーよ。これは、あんたとあたし二人だけの、ひ・み・つだからね。」
「い、言いませ、ん……よ。」
「……まっそうよねぇ。言ったら困るのはあんただもんねぇ。」
やはり勇者とは恐ろしい。能力を公開してない勇者が多いから、多くの人はピンときていないが、勇者ほど恐ろしいものはこの世界にはないと思う。記憶を操る……こんな能力、人間に持たせて良いものじゃない。
“彼女”曰く、記憶と一つにまとめて言えどもいくつか種類があるらしく、それぞれに制限がかかっているということだったが、そんなものが何の気休めになるというのか。
だって彼女がその気になれば、簡単に世界を滅ぼせてしまうのだ。それでもって、勇者なんて大概の奴がマトモな性格をしていない。この女みたいに。
この国もどこの国も、慎重になんて口では言いつつ、2、3人ほど勇者を保有しているが、全く正気の沙汰じゃない、と思う。別に世界が滅んだって構やしないが、こんな女やその同族に殺されるなんて御免だね。
―――勇者は、この世界に存在して良いものじゃないんだ。
しかしそんな勇者は、甘いオレンジ色のカクテルを飲みながらクスクス笑っている。なんて醜い悪魔だろう。
でも“彼女”は笑いながら、……口だけ笑いながら、こちらを横目で見た。
「……あんた。」
「?」
ぐいっと、襟首をつかまれて、“彼女”の顔が眼前に来る。鼻がひんまがるんじゃないかってほど強い香水の臭いが鼻腔を通った。
「今、あたしなんかがこんな能力持ってるなんて、って思ったでしょ。」
「と……ととんでもない、です。」
「嘘つきね。あんたは、腹の中で私のことを恐れてるし、憎んでるし、蔑んでる……。」
「ち、ちが……。」
「違わないわよ? あたしそういうのすぐ分かるもの。馬鹿にしないで。男なんて単純な生き物があたしを騙せるわけないじゃない。」
「……。」
この勇者は案外、人の心に敏感だ。それは女の勘というものかもしれないけど、どちらかと言えば、“彼女”の疑い深い性質に起因している気がする。少しでも反感を持てば、どういうわけだかすぐにバレてしまうので、こちらとしては戦々恐々の日々さ。
だってもし、“彼女”に見放されれば俺はまた地獄へ真っ逆さま……そんなの耐えられるはずもない。嫌な記憶を思い出し、ぐっと下唇を噛んだ。血の味がする。意識の一部でも、嫌な記憶とは別のものを感じていたい。そうじゃないと、やっていけないのさ。
ふと、“彼女”の顔色を伺うと、思ったより機嫌を崩してはいないようだった。
「あーあぁ。……アンタの記憶そのものをイジッたほうが、良かったのかしら。そしたら……もっと完璧な私の王子様にできたのに。そして私は完璧なお姫様。」
「……。」
「でも、私には分かるの。それをしたら、この先の私の人生……ずっと空虚なまま。一人芝居はもう御免よ。だからしない。良かったわね?」
彼女の言葉を信じるならば、僕の記憶はそのままらしい。事実かどうか分からないが、確かめる手段もないのが憎らしい。
日記でもつけてればよかった? いやいや、その日記を書いた記憶すらいじられてしまうのだから、もうどうしようもない。彼女の能力は残酷なほど完璧だ。この世界の住民は全て勇者の玩具なのかもしれない。
「ふん。信じてないわね。別にいいけれど、でも本当にあんたの記憶はいじってないのよ? もしそうしたら、アンタはもっと良い男になっているわよばーか。」
彼女は酒を口に含んで、僕に口づけをした。苦くて苦しい酒が流れ込んできて、むせ返るような香水の臭いが鼻をつく。無駄に分厚くて、生暖かい唇の感触が何とも気持ち悪い。化け物に捕食されるなら、こんな感じなのだろう。
でも、お蔭様なんて反吐がでることを言いたくはないが、嫌な記憶はどこかへ吹っ飛ばされた。新たに嫌な記憶ができたとも言うべきかもしれないが、一時的な気持ち悪さなんてどうせすぐ忘れられるさ。
「あんたはあたしの物。あんたはあたしの物……これは約束通りの立派な権利よ。こんだけ尽くしているんだから、いいでしょ、ね? まさかあんたまで、あたしを見捨てないよね?」
「……もちろんで、す。」
「……見捨てちゃやだよ? だって、あんたをここまで格好良くしてあげたのは私なんだからね? 見捨てたら……地獄の果てまで追いかけて、殺してやる。あの男みたいに……。」
「……っ。」
「ねぇ。私を見捨てた馬鹿な男の末路、知りたい?」
そうして“彼女”は、獣のようなギラついた目で話し始めた。
いつか———いつか、この女か僕が死ぬまで、僕のこの地獄は続くのだろう。早く死ねば良いと思う。しかし彼女が死んだら、僕はどうすれば良いのだろう。分からない。でも死んでほしい。
でも、まぁついでだ。これも言っておこうか。
正味、僕はこの女が他の人に比べてそれ程悪い人間だとは思っていない。
いや、勘違いしないで欲しいがね、好きとかではない。むしろ“彼女”の四肢が千切りにされて、内臓がマッシュされて、頭が擦り降ろされたらどれほど良いか。それを考えなかった日はないくらいには、“彼女”のことが嫌いさ。
しかし人間として飛びぬけて悪い人間とは思わない。人間は皆こんなもんだ。むしろ醜さを晒している分マシなのかもしれないね。人間が当たり前のように持っている感情や欲望を、“彼女”も当たり前に持っていて、しかし他の人間のようにそれを隠していないだけだ。
まぁもちろん、だから良いだなんて、とてもとても言えやしないけど。
だからね、要は“彼女”が“彼女”だから悪いのではなく、人間だから悪いのである。
あーあ。人類滅びればもっと清々しい気分になれるだろうなぁ。まぁその時は僕も死んでいるから、この想像には意味はないんだがね。
世界の真実を言おう。残酷だけど真実であることには間違いない。それは、ほんとは皆、皮をかぶって紳士淑女ぶっているだけで、実際は彼女か彼女以上に残酷で、醜くて、自分勝手な化け物であること。
確かに“彼女”は容姿性格ともども醜悪極まりない。
しかしどんな人間も一皮つるりと剥いてしまえば、この女と言うほど大差があろうか。
そんな事ない、なんて、真剣に言える人がいるなら正直拍手したいくらいだ。こんな世界でよくもまぁ、そこまで脳内お花畑で生きられたもので。
まぁ少なくともこの真実は、僕の人生の中で嫌と言うほど思い知らされた。
蔑まれて、祭り上げられて、数多くの欲望とエゴをこの目で見てきた。
1000歳にもなるあの本には、まだまだ全然って言われるかもしれないけどね。あ、いやもう言われることはないんだった。
まぁそれでもともかく、人間の本性なんて、周りを見なくても分かる。人間である僕の内心がこれだけ醜いんだから、他の人間の程度もたかがしれているだろう。同じ人間なのだから、そう違わないさ。
実際何度も利己的で自己中心的な人の行動をこの目で見て、この耳で聞いてきた。その度に失望してきた。そして、ふと自分を省みれば、自分もそういう醜いものを無自覚に持っていて、絶望してきた。
もう昔の話だけどさ。
しかし酷い話だ。幼い子供でさえ、……むしろ仮面の上手な被り方を知らない分、より顕著にその醜い本能が剥き出しで見える。
やがて大人になれば、仮面で着飾ってくるくる踊るのはすっかりお手の物になっているだろう。しかし中身は所詮一緒。いや色を知った本能はより凶悪で醜悪なものへ育っていくってものだ。
老人は、舞台を降りる直前だからと言って、仮面を取る者が時折いる。この種の老人は周りから嫌われやすいが、顔に仮面がくっついてしまって剥がれない老人よりはまだマシだ。その死ぬ時まで仮面を離さない老人は、欲望がより凝縮され、それを隠す仮面もより豪華になり、一見素晴らしい人間のようだが……中身の饐えた臭いと言ったらありゃしないね。
あーあ。なんて人間はこうまでも気持ち悪いのだろう。
青々しい木々も、澄み渡る空も、色取り取りの虫も、こんなにも美しいのに、どうして人間はこんな風になってしまったんだ。
どうして僕は人間なんかに生まれちゃったんだろう。もし仮に神がいるのだとしたら、人間は最大の失敗作だ。早急に滅ぶべきだと思う。そんな素晴らしい日には、僕はいの一番に死んでもいい。
でもあの本は、最期にこう言ったんだ。
「全ての人が幸せな世界に、なって欲しかったんだけどね。」
そうして――――その思いごと灰になった。
ひらひらと、舞い散る花の最期の姿のように、飛び散った赤やオレンジ色、そして色を失った灰。それはそのまま地面に降り積もった。
それを見ながら僕は、真っ白な頭の中こう考えたのさ。
その思いを受け継いであげよう。




