midnight
*注意
視点が変わります。時間が戻ります。
毎日月が太陽を嫌って地平線に逃亡するように、精霊が魔物を忌避して始まりの樹の中に隠れて逃げるように、鬼嫁を嫌った男が風俗に走るように、僕にも、逃げ込める場所があった。
嫌なことがあればいつでもそこへ行くのだ。
そこはカビと埃の臭いがする書庫の一室だ。もっと正しく言うならば、その中にある一冊の本。
聳え立つ本棚の一番下に収まっているそれを取り出して、赤い表紙を撫でればざらりとした感触が指先から伝わり、それだけで少し気分がよくなる。それこそ鼻歌を吹いても良いくらいに。生憎、今は鼻が詰まってないから無理だがね。少し調子が悪くなれば、それはもう汽笛のような素晴らしい音色を聞かせてくれるんだ。
素晴らしい気分のままに、本の、一枚目のページをめくる。
そのページは何も書かれていない、真っ白のまま。おっと早とちりしないでくれ。なにも僕の気が狂ったわけじゃない。気の確かさで言えば僕はこの世界でも5本指に入るだろう。多分ね。
僕はそのまま地べたに座り込み、大臣の頭のようなページに、羽ペンを走らせた。
「またきたよ」
するとその文字の下に、じわりと何かが侵食するように文字が浮かび上がった。
「うん。いらっしゃい。」
僕はその下に書き連ねる。
「きょうも、つらいことがあった」
「君はいつも辛い思いをしているね。まぁ話してみてよ。」
温かみがなくて、人間じゃ無くて、喋らなくて、ついでに飾り気もないその本は、しかしどんな人よりも親身で僕の心を温めた。なんて皮肉だろう。
人に失望されて、人に失望するたびに、僕はこの本へ傾倒していった。はっきり言おうか、最早心の拠り所はここにしかなかったのだ。
だけど憎々しいことに、この最愛の本は、「人間には反吐が出る」と書く僕にいつも反対した。
「案外、人間も良いものだよ。そりゃね勿論、汚い部分もたくさんあるけどさ。でも、それだけじゃない。君にもいずれ分かるさ。」
バタンッ、と本を閉じて、乱暴に本棚に突っ込んだ。
毎日のことさ。
◇
もし僕が占い師の前に行ったら、占い師は心底驚いた顔でこう言ったはずだ。
『まぁなんてことだ。君は世界一才能に恵まれない星の下に生まれたんだね。』
仮に僕が貧民街の子どもだったならば、まず赤子の時点で死んでいるだろう。庶民だったら? 恐らく捨てられている。もしくは売られて、そのまま奴隷になって、そしてあっというまにこの世とおさらばしたはずだ。
貴族だったらどうだろうか。きっと、外交のためとか何とかで僻地の婿に出される。そして厄介者扱いされ、やがて暗殺者に殺されるか毒を盛られて死ぬ。王族でも結末は同じだ。
けれど、何の因果か、僕は法王の息子だった。
法王の家は、アンジュ教と同じように1000年の歴史がある、とか言われている。歴史は強みにもなり、鎖にもなる。今時、男尊女卑だとか、第一子主義だとか、そんなものは流行るどころか存在すら消えかかっているが、殊宗教の世界においてはそうではないらしい。法王の家では、長男が法王の後を継ぐことが法典か神典だかで決まっている。
古びたものを至極大事なものだと思い込んでいるのは、思い込みの激しい宗教家らしくて笑えもしないが、ともかくそういう訳で、法王の長男である僕は跡継ぎとしての役割を歴史という鎖で繋ぎ止められてしまったのだ。
だから義務の一つとして、どうしてもパーティに出席しなくてはいけない事がままある。次期法王なんて似合わない肩書と一緒にね。
頭上にこれでもかと言うほど輝くシャンデリアに煩わしさを感じ、踊るドレスと紳士服に目が回る。胸やけしそうな料理の脂の臭いと香水の臭いが混じり鼻を攻撃してくるし、黄色い声と笑い声の五月蠅さと言ったら、不快なんてもんじゃない。
忙しなく動く使用人も鬱陶しいし、参加者の視線も肌に刺さるようだ。
いや勘違いして貰っちゃ困る。別にパーティ自体を馬鹿にしているわけじゃあない。ただ魔物が教会にいるのはさぞ居心地が悪かろう? 僕が言っているのはそういう話なのだ。
「……はぁ。」
―――当然、社交界でも僕は鼻つまみものだった。僕は壁にもたれかかり立っているが、まるで僕が腐臭でも放っているのかと思っちゃうくらい、周りには誰も来ない。結界をはった覚えもないのに、みんな円を描いて華麗に避けていく。
僕は何となく恥ずかしくなって、下を向いた。顎と首が糸で引っ張られているような感覚がして、上を向けなくなった。手の置きどころが無くて、ぶらっとさせておくが、それが子どもみたいな感じがして慌てて後ろで組む。小さく手が震えた。僕は時たま何でもないのに震えるんだ。病気なのかもしれないね。
それにしても、こんなに多くの人がいるのに、誰も僕に話しかけない。近寄りもしない。遠くで大きな笑い声が上がる度、自分はその楽しい場所とは違う場所にいるんだと嫌でも理解させられる。案外、本当に別世界かもしれないよ。勇者がいる世界なんかよりよっぽど厚い壁によって阻まれているお手軽異世界だ。
一応勘違いされないように断らせてもらうと、僕はあの発情期の猿のような集団に混ざりたいわけではない。ただ、あの楽しそうな笑顔を見るたび、羨ましくなるんだ。なんで僕は、あそこで楽しく笑える人ではなかったのだろうか、ってね。
あの楽しそうな人たちと、僕には、一体どんな差が? 考えても頭が痛いだけだがね。
下を向いて絨毯の絵柄をよく見る。様々な工夫が施してあることが良く分かる。あそこで大口開けて笑っている人々は一生気づかないであろう。あぁなんて僥倖。得をしたね、なんて、生憎そんな皮肉で慰められる程僕の頭は沸いていない。
追い打ちをかけるように、下を向いているせいでより鋭敏になった耳が、聞きたくないことまで拾ってきた。
「ほらあそこにいらっしゃる……そうそう。ねぇあの御方って…………。そうよね。」
「……お気の毒に…………。……あまり見ると………。」
「そうよね…………うん……ほら妹様に比べて……ねぇ。その、あまり大きな声では言えないのだけれど……。……そう。なんていうのかしら、その、才覚が……。」
「それに魔素も………。…………そう。」
「あぁそれで……。……そうよね。あんなところに御一人で……。法王様も……。」
「でも魔素って……それは神が…………。でしょう?」
「………そうよね。きっと……て………。……そう考えれば、法王様や奥様、妹様の御対応も……。」
「それが……聞いたところによると……で、……その、何かご障害が……頭……。それに、なんだか………が……ね。」
「それに比べて妹様は…………きっと法王様もご安心………。えぇ、そうです……。次期法王……きっと歴史が……えぇ。そういった噂も……。」
「あまり関わると…………そう。勘違いされても困るから……。」
断片的にしか聞こえないが、好き勝手言われていることが良く分かる。本人たちは静かに話しているつもりのようだが、その耳障りな甲高い声がここまで響いていることにはお気づきではないようだ。
確かにあの人たちの言う通り、僕には生まれつき、魔素がなかった。
魔素は魔法を使うのに必要なもので、貴い血筋ならもちろん、庶民でも全く持っていない人は少ない。ましてや法王の血筋の僕は……。
そしてないのは、魔素だけではなく、知力から身体能力まで、なにからなにまでない。祈りの言葉は右から左へ、フォークを持てばつるりと滑り、絵や歌は非常に不味く、せめて勉学だけでもと思うが頭が足りない。
何かができないことが判明する度、周りの人から呆れたような、軽蔑するような、冷たい目が向けられて、背筋に冷や汗がたれる。その記憶が、さらに僕のできないことを増やしていく。今では僕は、人が怖くてまともに喋れやしない。いやはや、よくこれで人間やっていけるものだと我ながら呆れるしかない。
他の人が、あんなに色んな事を器用にやってのけるのは何故。どうして、当たり前のような顔で、あんなに複雑で、あんなに難しい事を平気でできるのか。
でもきっと、他の人は僕がこんなにもできないことのほうが理解できないのだと思う。僕だって、僕が何故こんなに何も出来ないのか分からないのだから、他人に分かるべくもない。そのくらい分かっている。
分かっているから、嫌気がさしてくる。
ただね、何も僕は自分だけに嫌気がさしているわけではない。むしろ、只今僕が腹を立てているのは女の噂話だ。女の多くはヒソヒソ話が好むようだが、その楽しみは、俺のこの泣きたくなるような心の疼痛と釣り合うほどなのかね? ねぇ。そこでキャッキャ黄色い声で騒ぎ立てていないで答えておくれよ。それとも僕となんて話したくないか。それは残念だ。
いや、僕だって、こんなのに一々心を痛めているのは馬鹿らしいと思っている。この世界には色んな人間がいるのだから中にはそういう阿呆な人間もまぁいるさ、と放っておけばいいのだ、とあの赤い本も言っていたぐらいだしね。
だけどさ、それを分かっていながら、それでも無視できないのは……。
あぁこんな事、考えたくもない。考えたら余計に自分が惨めになるのが目に見えているのに、考えるなんてとんだマゾヒストさ。それでも、こうして一人で壁の隅で、やる事もなくぼうっと突っ立っていると、考えたくないことまで考えなきゃいけなくなる。そうじゃなければ、本当に狂いそうになる。だから考える。
もし、仮にだがね、自分を心の底から愛してくれる誰かがこの場に一人いたとしよう。
そしたらきっと―――自分はあんな噂話も、何もかも、澄まし顔で、全く気にせずにいられるのだろう。
でもまぁ、そんな人間はいない。いるわけがない。僕を愛して、僕に優しくするような、そんな人間はいないのだ。
まぁ別にいいよ。今更、寂しいとも思わない。人間の醜さをよくよく味わった以上、誰かに愛されても気持ち悪さが残るだけ。
それでも、でも、やはり、惨めだ。どうしようもなく、惨めなのだ。僕は。
それはどうしても認めなくてはならない。
悪い事でも、何でも、事実を認めなければ前には進めないのだ。
馬は空を飛べないと認めなければ、騎手は何にもできない。頓珍漢な指示を出して、悪戯な方向へ行っては戻しを繰り返すことしかできない。嫌だろうが何だろうが認めて初めて、陸を渡ってゴールへ向かうことが来出来るのだ。
もっとも僕は、惨めさを認めたところで何になるとも思えないがね。だってどこが前か分からないんだもの。どうしようもないさ。
「……はぁ。」
ふと、見目だけ整えた中年の男と談笑している妹を見かけた。
顔を上の方に向ける勇気はないので、実際には足元を見ただけだが、それでもそのほっそりとした足と上品な透明の靴はまさしく彼女のもので、また、鈴を転がしたような上品な笑い声も聞き覚えがあったので、妹であることが分かった。
間違っても顔を上げて、彼女と目を合わすようなことはしてはいけない。もしそうなったら……恥ずかしすぎて。僕は意地で今まで我慢していた涙を流すことになるだろう。それはわずかに残ったプライドが許さない。
もう、本当はこんなプライドなんて捨ててしまったほうが余程良いのだろうけど……。嫌だ、と言うよりは、捨て方が分からない。人間、案外持つより捨てるほうが大変だったりするものさ。それに気づかず、卑しくもあちらこちらに手を出し、物を得ようとする輩の何て多い事か。
とにかく今は、妹の愛想をこれでもかと言うほど振りまいた声が煩わしい。早急にどこかへ消えてくれ、頼むから。これは結構切実な願いさ。妹が近くにいるだけで、女の噂話よりもさらに心臓がぎゅっと縮んでしまう。
昔は、お兄ちゃんお兄ちゃんと、よく後ろをつけ回していた妹。その頃は父も母も優しくて、自分が見捨てられるなんて想像だにしなかった。
今は、誰も挨拶さえしてくれない。だんだん僕は無能をさらして、その度に家族の対応は冷え込んでいった。もっともそれは家族だけじゃない。侍女までも僕のことを無視し、いないものとして扱っている。空気同然のように思っているみたいだ。
いや空気ならまだ救われたさ。僕は触るのも躊躇われる醜い虫だ。そうでなければ、廊下ですれ違っただけで、あんなに分かりやすく嫌な顔はされないだろうからね。
いっそ、あの書庫で一人きり。ずっとずっと永遠にあそこに籠って、赤い表紙のあの本と話せたら、どれだけ気が楽だろうか。
「……はぁ。」
再度周りに聞こえない程度でため息をつく。
そしてしばらく、いつものように絨毯の毛の本数を数えていたら、隣に人の気配がした。
「っ。」
驚いて横をみる、なんて真似はしない。まだ妹が近くにいるから間違えて目を合わせてしまっても嫌だし、そうでなくても人の目を見ただけで、僕は壊れてしまいそうだ。蔑んだ目はトンカチだ。僕の心はガラス細工のように容易に壊れる。
だから足元だけを、顔は少しも動かさず眼球だけ動かして見た。何のことはない。僕はその道のプロフェッショナルなのさ。眼球の可動域には自信がある。おっとここは笑いどころだぞ。笑えよ。
どうやら隣にいる人間の足は、幼い女のもののようだった。赤いピカピカの小さな靴が、行儀よく横一列に並び、その中には白い靴下で包まれたこれまた小さな足がすっぽり入っている。
つまり、僕のことを知らないお子ちゃまがここに来たのだろう。もうすぐこの子の親が鬼の形相でこちらに来て、彼女の手をつかみ、気まずそうに去っていくのが容易に予想できる。そう考えればこの子どもは少し哀れだ。
まぁ、それまで僕は何のアクションを起こす必要もない。少しだけ、隣に誰かの気配があることを新鮮に感じながら目を閉じた。
「もし、そこの君? ちょっといいかな。」
直後、子どもが、舌ったらずな声で話しかけてきた。
「そこの金髪の男。聞こえているかな?」
声はまさしく幼い女の子なのに、どうも子どもらしくない喋り方をする子のようだった。そのアンバランスな話し方につられて少し顔を上げると、幼い少女は眠そうな目でこちらを見ていた。造形はあまり特徴がないが、腹のあたりまで伸びた黒髪に天使の輪が見えるので、庶民には見えない。
彼女は俺の隣で、同じように壁にもたれかかりながら顔だけこちらに向けていた。
「ふむ。君は聾唖者か? だとしたら如何したものだろう。」
不自然だ、と思った。
「手話というものを知っているだろうか。……いや私が知らないから意味はないな。紙もペンもないから書くことも出来ないし、一体どうコミュニケーションをとれば良い? 私には皆目見当がつかない。」
何となく見下されている感じはあるが、ほとんどの人は僕を見下しているので、今更思うところはない。それに加えて、人間は本質的に優位に立ちたいのは重々理解しているので、本能剥き出しの子どもであれば殊更に、何もおかしい所はないとも思う。
さらに彼女の発するアバウトな内容を聞くに、何か早とちりをしているようだが、それも人にはままあることで、表情についても、この年齢にしては珍しいほど表情筋が動いていないが、よく観察すれば、浅ましい感情が透けて見えるので取り立てて何か言うほどのものでもない。
やっぱり人間は醜いなぁとは思うけど、これも今更。この子どもは、一つを除けば平凡極まりない。
もうお分かりいただけるだろうが、不自然なのは、その話し方だ。
まず、気になるのは子どもにしては独特な言葉遣い。
大人びているという訳ではないような気がする。大人の喋り方を真似した子ども、という感じのほうがまだ的を射ているようにも思うけど、普通の大人はこんな演技じみた、格好つけすぎて格好が悪い話し方はしない。どちらかと言えば、本の語り口調に近いだろうか。それに憧れて真似しているのかもしれないが、それにしては使い慣れているというか、板についている印象を受けるのも妙だ。
いや、これが例えば大人なら、そういう事もあるだろうが、彼女は本からインプットした話し方を身につけるには、あまりにも幼すぎる。
それに話し方としての特徴として、印象に残るのは、抑揚のない声だ。
「そもそも君は本当に話せないのだろうか。」
横這いトーンの声は、伝えるというよりは、ただ音を発しているだけのようだ。曲はいくつもの音に変化するから曲なのであって、例えばピアノでドの鍵盤だけをおさえていてもただの音でしかないように、彼女の言葉も、話すというよりは発するでしかない。要は、抑揚が無いから面白みがないし、頭に入ってこないって訳さ。
率直に言えば話下手。だけど、これだけじゃあ言葉がちょっと足りない。問題は上手下手ではなく、そもそも本人に伝える意識が無いということだ。少しでも何か伝えようと思っているならば、こんな話し方にはならないだろうからね。
つまり、僕に、そして僕と会話をすることに興味がない。だというのに、こうしてこの子どもは滔々と声を発しているのだ。
不自然だと思うし、普通に気持ち悪いと思わないかね。僕は思う。……いったい、この子は何なのだろう。まだ壊れたラジオのほうがマシなくらい、気持ち悪い雑音を発するこの子どもは何なのだろう。
その疑問で頭が埋め尽くされることによって、ここがパーティ会場であることも、自分が惨めな状況にいることも何もかも忘れていた。
そのことに気が付いたのは、彼女がいったん「これ以上声を出すのは無駄な労力だろう」と、口を閉じた時だった。
隣が静かになった事により、またぽそぽそとした噂話が聞こえる。
しかし今度は、僕のことではないようだった。
「おい……の女の子……ろ。」
「……あぁ……そう。」
「えっ!? あの勇者様の……!?」
「シッ! …………で、……そうらしい。」
「……子ども……あぁ確かに……。あの感じが……うん。いかにも………で……本屋の……。」
「……というか……うん。……ちょっと変……そうそう、……。」
今の話題は、どうも隣にいる子どもらしい。
会話の破片をつなぎ合わせて、どうやらある勇者の子どもだということが分かった。確かに貴族らしさを感じなかったから不思議に思っていたが、勇者の娘ならこの場にいてもおかしくない。
それにこの喋り方だって、異世界の血が半分流れるのなら、多少は理解できなくもない。やはりおかしいと思うけど……。異世界の子供たちは皆こういう喋り方なのだろうか。だとしたら、なんだか珍妙な世界だと思う。そんなことはないことは分かっているがね。
彼女は噂話を耳にしたのだろう、あからさまに不快そうな表情を示した。
ほとんど無表情なのに、非常に分かりやすいのも可笑しな話だと思うが、そうとしか表現しようがないのだ。
「いやはや、噂をする輩ほど五月蠅いものもない。ピーチクパーチク喚いて、まったく。動物園に来たつもりはないのだが。君もそう思わない?」
彼女のあまりの言い草に、思わず笑ってしまう。
「うへ、あ……ふは……は。」
自分の声や喋り方が気持ち悪いのは知っているので、声を発したくはなかった。しかし自分が言いたいことを他人が言ってくれるのは妙に気分がよくて、ついつい吹き出してしまったのだ。
「おや君は笑えるのか。ということはつまり、君は声も聞こえるし話せる、という事で宜しいか。」
「え……あ、う、うん。ごめ、ん。話せる。」
嫌になるくらい籠ったり、上ずったり、裏返ったりする声が自分の口から発されて、思わず泣きたくなったが、彼女は本当に何も気にしていないようだった。それが少し嬉しくて、何となく会話を続けたい気がする。
「まぁ、君が今まで沈黙を貫いていた理由も、今話し始めた理由も、私は興味がないから別段聞くつもりはない。仮に君が話したかったとしても、それは独り言になることは承知しておいたほうが良い。」
「い、いや……うん、……えっと………え。」
「それより私が、こうして君と意思疎通を図ろうと思ったのはほかでもない、君に聞きたかったことがあるからだ。」
僕は無言で、首を傾けて続きを促す。
「そう、これは先程の出来事だ。私は君を瞥見した際疑問を抱いた。それは、君の周りには誰もいない事だ。」
「それ、は……。」
「まるで透明の壁で囲ったように、君の周りには人一人おらず、君は誰に邪魔されることなくそこにいた。それはこの社交の場において非常に珍奇な光景だ。」
痛い所を真正面から突かれたが、思ったより痛くは感じなかった。頭の丁度真ん中を銃で撃つと、ほとんどダメージがないそうだから、それと同じようなものかもしれないね。
彼女は何にも気づかず、一定の音程で声を発する。
「そして非常に恵まれていると言えよう。」
「……?」
「私は勇者の娘だからという理由で、こういった場に投げ込まれ、五月蠅いだけが取り柄の人間どもに滅多矢鱈話しかけられる。そして私の性質があの輩にとって望ましくないと知るや否や、こうして誹謗中傷を投げかけるのだ。」
確かに遠くに聞こえる、彼女へ向けた言葉は好意的なものではなさそうだ。こんな子どもの見た目をしたモンスター受け入れて貰えるほど、社交界は甘くないのだろう。
「まぁしかし、それが人間の性というもので、受け入れるしか選択肢がないのかもしれない。あぁ残念ながら……非常に残念ながら!」
そう言いながら、案外彼女はしっかり傷ついているようにも見えた。
ほとんど表情が変わらない彼女なので、自分の心境に重ねてしまっただけかもしれないけど。
「それでも、このように悪い評判を得てもなお、私に話しかけてくる輩は後を絶たない。」
それはまぁ勇者の娘なら、十分ありうる話だ。巨大な力を持つ勇者とのパイプなら、少なくとも貴族ならだれでも持ちたがる。もし自分の家の味方につけられれば、どれほどの権力が得られようか。一家で国でさえも脅せる。
反対にもし弟ができたら即暗殺される可能性が高く、そうでなくても反旗を翻される可能性が高く、そして父に……法王に嫌われている僕につくよりも、よっぽど性質のいいギャンブルと言えよう。
はぁ、と彼女はため息をついた。
「それがどれほど煙ったく、鬱陶しいか君なら理解でき得るだろうか。まだ蠅のほうが可愛げがあるくらい……。」
「う、うん。」
「同情してくれるだろうか?」
「え、う、……うん?」
「ならば私に教えて欲しい。このような場で、君のように過ごせる方法を。」
望んで、一人壁際にいるわけじゃない、なんて口が裂けても言える雰囲気ではなかった。いや、よく考えればそう言えばよかったのかもしれないがね。しかし、この時の僕の頭は綿飴より真っ白で、シフォンケーキよりスカスカだったのだ。
故に阿保面晒して黙っていると、彼女はじっとこちらを見てくる。
どうやら本気らしい。
最初は不気味に感じたが、しばらく話していれば自ずと分かった。彼女は、ただの少し大人びている子どもだ。
口調はきっとどこかからの借り物で、表情だってよく見ればちゃんと分かる。ただの生意気な子ども。
しかしどこか浮世離れしている雰囲気もあり、だからこそ人間の嫌な部分に目を背けていられた。少なくとも、まだ。
だから少しだけ、固まっていた口がほどける。思ったまま、思い付きを話す。
「何も……な、何もしなきゃ、いいんじゃ……ない?」
「……? それはつまり、どういうことだろうか。詳細を請う。」
「つっ……つまり、ね。」
「?」
「ぼ、僕は……無能だから、こう、なっちゃっているんだ、けど……ええと。君は、たぶんそのままじゃ僕のようには……ならない? かも? し、しれない。」
「ほう……?」
「だ、だからね……。ええと、したくないなら、さ、な、何もしなきゃいいと思う。え、えっと……。そっそうすれば、無能といっしょ……だから。」
「ふむ。」
「あの……しゃ、しゃべらず……、動かず……。」
「なるほど。しかし、食事や移動、排泄、さらに清潔を保つためには、それではままならないのではないだろうか。」
「え? そん、なの、全部……使用人にやってもらえばいい。いる、でしょ? ……僕の家のは……その、僕には、あれ……だけど。」
「うーん。確かにそれはとても魅力的かつ理想的な話だが。ただ問題点としては、私の家には使用人がいないことか。」
「あ……。」
使用人がいないという可能性を失念していた。そういう家があることは知識としては知っていたが、どうしてもその光景が思い浮かばない。
それは椅子やテーブルがないのと同じように、奇妙に思えると言えば伝わるだろうか。
「しかし、大変参考になった。」と、子供は言う。
「君が教えてくれた通り、なるべく動かず、喋らず過ごそう。あくまでなるべくだが。これは厄介ごとを遠ざけるだけではなく、日常生活において、労働が減ることを意味する。それは私の望むところである。……おっと、もう無駄口を叩くのもやめよう。この労働が苦痛だ。」
そのまま彼女は口をぴったり閉じ、一言も喋らなくなった。更に、その場に座り、やがて寝ころんだ。流石に周りがざわざわするが、彼女が気にしている様子はない。
僕としても、不思議なことに彼女のおかげで少し気持ちが楽になったようで、あまり気にならなかった。冷静に考えれば、どうかしていると思うけどさ。本当にこの子どももどうかしているし、それを普通に見ていた僕もどうかしていたね。
しばらくして、この子の母親が迎えに来た。
淡い色のドレスを着た母親は、ぼんやりとどこを向いているか分からない虚ろな目をして、この世のものとは思えないほど存在が薄かった。片手には、何故だか小さな本を持っている。何となく、この親にしてこの子あり、という言葉が思い浮かんだ。別に褒めたいわけではないのだがね。
母親は足音もなくすぅっと近づいて、
「パーティ会場で寝転ぶとは、愉快な趣味をしているとしか言いようがないね。愉快すぎて、その行為が低俗なものなのか交渉なものなのかも判断がつきにくい。ついに娘は気が狂ってしまったのかな。はたまた正気すぎて? まぁどっちも大差はあるまい。けれど私としては、母の立場として娘が適さない場所で寝転んでいるのは、不都合極まりないね。」
と、娘と同じような口調でそう言った。
合点がいった。この子の話し方は、母の口調を真似たものだろう。こういう話し方しか知らないなら、確かにあぁなるのかもしれない。
ただ母親のほうが、少々言い回しが迂遠だ。
彼女は声を紡ぎながら、どことなく焦点が合ってない目を娘のいる方向へ投げていた。
「……。」
対して彼女は黙ったまま、寝ころんだまま、ぼんやりしている。本気で僕の言ったことを実行する気らしい。
「ふむ? ……沈黙は金という言葉があることを知っているね。金が素晴らしい。金は、食になり、時間になり、十全に性を満たすものになる。ある物は一つの欲望しか満たさないけれど、金だけは別だ。三大欲求全てを満たす。そういう意味では、私は、金を大変好ましく思っている、ということをここに述べよう。私が大変不本意ながらこの場に参列しているのも、それが目的にある。」
「……。」
「ちなみに、承認欲求だって金で満たせるけれど、やめておいたほうが良い。何故なら尽きぬ欲望の前には、いくら金があっても足りないからだ。」
「……。」
「それはそうとして娘、なるほど確かに沈黙は金だ。しかしそれは、TPOを弁えた場合に限る。そうでなければただの獣であり、現実問題、金など到底得られるものではない。沈黙は場合を考えてこそ金になり得るのだ。……全く、俚諺は事実を端的に示す分、前提を省いてしまっているからいけないね。」
「……。」
「娘? 理解したかな。」
しばらく彼女は黙っていたが、やがて小さく反論した。
「……私は金を得る必要はない。」
「その続きは、こうかな? なぜなら私は両親に扶養してもらっている身であるし、もしそうでなくなっても子どもであり、尚且つ勇者の娘という立場から言って、国が扶養してくれるだろう。金がなくとも、欲が満たせる状況だ……如何? 合っているだろうね。しかし、それは考えが甘いと言わざるを得ない。」
「……。」
「また沈黙か。まぁいい。この事を一から説明したいけれど、生憎詳しく話している時間はないんだ。帰宅後にまた話そう。」
「面倒くさい。」
「同感だが、これは娘、あなたのためだ。さて。そろそろ帰宅しようか。それとも、そこにずっと寝転がっている予定を立てたのなら、自分の立場を理解していないとしか言いようがない。」
「……。」
その言葉を受けた子どもはむくりと起き上がり、とても気怠そうな足取りで母の横に来た。
母は一つ頷くと、そのまままっすぐ出口まで歩く。
ここまでの間僕には一瞥もくれなかったが、意図的に無視したというより、本当に気づいていないようだった。そのまま巨大な出入り口から外へ出て、馬車へ乗り込んだようだった。
「……。」
彼女たちが出て行ったあと、ぽつり、と誰かの言葉が聞こえる。
変なヤツら。
それが誰に向けられたものなのかは、弱い頭でもすぐに分かった。その言葉に、僕は安堵する。何故ならその言葉は、僕と同意見であったと同時に、僕が彼女の隣に立っていい証明のような気がしたからだ。
何もできない、落ちこぼれ、呪われた子、なんて言われている僕でも、彼女達があまりにも変だから、横に立っていいような、そんな気がして口元が緩む。
今日は不幸な毎日の中で、珍しく少しだけマシな一日だった。
◇
自室は館の片隅にあった。元は倉庫として作られたものなので、ほんの小さな窓しかついておらず、通気性が悪いが、それでもあるだけ有難い。
僕がまだ幼いころに使っていた大きな部屋は、今や妹のものだ。まぁいいけどさ。
ともかく、そんな小さな自室の前に、有難くも恨めしくも食事は一日二回、固いパンと薄いスープそれから油の塊が置かれるのが日常となっていた。その他、人前に出る時だけ美味しいご飯が食べられる。しかしその場合決して味わえたものではない。砂を食べているよう、なんてのは可愛らしい表現で、実際は糞を食らっているよう、のほうが近いだろうかね。断っておくが、これは過剰表現じゃないよ。
だから僕はもう、一生美味しいご飯は食べられないのだと思う。
部屋には、一応簡易トイレとシャワーが備え付けられて、そこらの庶民よりはマシな生活なのだと思うけれど、清潔ではないね。時々掃除をした形式があるが、かろうじて、と言う感じだった。綺麗な浴槽に入る機会も、もう一生やってこないのだろう。
でも、大きな部屋も、美味しいご飯も、綺麗な浴槽も、別に本気で未練があるわけではない。これは没落貴族のような強がりを言っているわけではなく、本当にそう思っている。そりゃ確かに無いよりは有ったほうがいいかもしれないが、なくてもさして気にはならない。
それより、妹と両親が仲良く話している姿を見るのが辛い。
もう自分の居場所は無いのだと、お前は必要ないのだと、そういう事実を突きつけられると、思わず壁に頭を打ち付けたくなる。
もうずっと昔からそうだというのに、それでもまだ受け入れられていないのだろう。あぁ流石落ちこぼれ。たかが自分の心の整理でさえもおぼつかない。
それに例え気持ちに整理がついたって、悲しいだけだ。もう家族にも人間にも失望しきっているのに、そいつらの慈悲に頼らないと生きていけない自分がいるから、……ここには絶望しかない。
だからこそあの本に、ずぶずぶ依存しきっている自分がいる。それは自覚しているけど、それまでなくなったら本当に僕は壊れてしまうのだ。だからしょうがない。
「……はぁ。」
今夜もあの本とお話しに行こう。
部屋から書庫まで移動するのは、人の気配がない時だ。急いで移動してから、タッタッタと景気よく、階段を降りる。地下へと続く階段。
地下一階は食糧庫になっていて、マジックアイテムのおかげでひんやりとしている。いくつもの豚の肉がぶらさがっているのが見えた。そういえば、幼い頃の妹は大層ここを怖がっていた。僕は好きだ。なんならこの豚たちにキスをしてやってもいい。人間なんかとするより、よっぽど上等な快楽を貪れるだろうさ。
そんなくだらない事を考えながら、もう一階分降りると、目当ての書庫が見えてきた。
館の書庫は2つあり、一つは地下、一つは2階にある。2階のほうがこじんまりとしていて、使用頻度の高いものが並べられている。対して地下は滅多に使われないものが置いてある。だからこそ地下の書庫に人が来ることはほとんどなく、俺はやっとここで息が吸えるのだ。多少埃臭くても、黴臭くても、俺にとっては草原で深呼吸するより心地いい。
さっそく例の本に書く。
「また来たよ。話を聞いて。」
当然のように返事が返ってくる。
「それで君の心が安らぐなら、喜んで。」
「今日はパーティがあった。ひそひそ話されて辛かった。」
「そんなの気にすること無いよ。」
「うん。気にしない。」
「そうそう、その調子。君が素敵な男の子だってことは、僕が保証してあげるから。」
素敵な男の子、だなんて僕とは程遠すぎて照れも感じないが、この本の言葉は不思議と嫌味を感じなかった。むしろ心地いい。
「ありがとう。あとね。子どもと話した。変なヤツだったけど、ちょっと楽しかったよ。まぁただのガキなんだけどね。」
「君も十分子どもだけどね。」
「でもぼくの方がずっと大きいんだよ。」
「そうかい? でもここまで長生きすると、数年の差なんてあってないようなもんだから。どんぐりの何とかってね。」
「なにそれ。」
「それで、何を話したの?」
僕は彼女との会話を思い出しながら、一通り綴っていく。でもこの本には、自分の薄汚い本性を知って欲しくないから、そういう事は書かない。いやまぁ恨みつらみは書くけど、それ以上は書かない。
あいつが異常者って言われてホッとしただなんて、絶対書けないのさ。
本だから、感情があるかどうかも良く分からないし、表情もまったく分からないから、本当は見当はずれかもしれないけど、楽しんで読んでくれている気がした。
「楽しかったようで、なにより。」
僕が書き終わった後は、非常にさっぱりとした返事が返ってきた。
「べつに楽しいとは思わないけど。妙な子どももいたもんだって感じ。」
「世界には色んな人がいるんだよ。本当に思いもよらないようなね。ごく狭い範囲で、人間を見限る必要はないさ。」
「同じ人間だから大差ないでしょ。」
「そうかな?」
「文化が違うだけ。本質は変わらない。」
「おや強情。1000年の経験を信用してくれないのかな?」
「1000年たって、お前本だから。」
しばらく返事はなかったが、やがて「ごもっともだね。」と返ってきた。
「僕はお前が羨ましいよ。本だったらこんなに苦しまなくていいのに。」
「おいおい、簡単に言わないでおくれ。本だって案外大変なんだよ。」
「何が大変なの?」
「自分のことを深く考えないようにすることが。」
「なにそれ」
「いやいや、これ結構切実な悩みよ? そういう意味では、人間より大変よ?」
どう返していいのか分からなくなる。
「まぁでも、本であることによって、こうして君と話せることは楽しいよ。本冥利につきるね!」
「本冥利って。」
「いやほんとうに。貴重な縁だよ。」
1ページ目がすべて文字で埋まった。閉じればまた白紙になるけど、それはせず、そのまま2ページ目をめくる。
手ずれのあるページに、また文字が浮かび上がった。
「でも縁は必然だったりするんだよ。君はこの本との出会いは偶然だと思っているだろうけど。」
この本を見つけたのは7年前くらいだ。
これだけたくさんある本から、この本を見つけ出す確率は低いし、何よりこの本に何かを書こうと思いたったことは、確かに本当に奇跡としか言いようがない。
「すべては神様のまにまに。」
時々この本はこういう言い回しをする。僕は好きじゃない。神なんて信じていない。
「神はいるの?」
「いるよ。神がいなければ、この大自然もないのさ。いや、大自然、この宇宙が神の分身霊だと言って良い。」
「教典には創造主って書いてあったけど、」
「分かりやすいようにしてあるだけさ。それにその表現だって、間違ってはいない。」
羽ペンのインクを足す。
この羽ペンは本来マジックアイテムで、いくらでもインクが出るものだったが、今は魔素切れをおこしている。補充してくれそうな人は見つからない。
「神がいるなら、なんで魔物がいるの? それに、災害もおこるし、僕だって救ってくれないじゃないか。」
「それは試練だよ。魂の成長のためなのさ。」
「魂が成長して、何になるの?」
「魂が成長すれば、強くなる。強くなればこの世界を守れる。それを神は望んでおられるのだよ。」
「それだけ? なんだかつまらないね。僕は世界なんて守りたくないしさ。」
「そうだね。まぁあとは、魂が成長すれば、それだけ幸せに生きられるのさ。受け皿が大きくなるっていうのかな。だから我々人類は、魂の成長を本能的に目標としているんだよ。」
「いや我々って、お前本だろ。」
羽ペンを滑らせながら、目を文字の上に這わせながら、幸せな時間は過ぎていく。
「そもそもの話だよ、神は人間の味方なの? 人間の味方じゃない神なら、何で崇めなきゃいけないの?」
「そもそも人間を作ったのが神なのだから、自分たちが存在しているだけで崇めるに足るだろう。」
「足らないよ。崇められるほど、僕は生きていて幸せじゃない。」
「小さな目で見れば、そうかもしれないね。でも遠くから見れば、また変わってくるさ。」
「ふーん?」
「きっと君は幸せになれるよ。素敵な男の子は、ハッピーエンドがよく似合う。」
「そう言ってくれるのはお前だけだよ。」
「いずれ、みんな分かるさ。」
ふと時計を見るともうそろそろ眠らなくてはいけない時間だったので、惜しむ気持ちをこの書庫に残して、階段を二つ駆け上がった。明日は何を話そう、そればかりが頭の中にあった。
―――だからこそ油断したのだと思う。
地下から地上へ顔を出した時、廊下を歩いていた妹と目が合った。
「あっ……。」
「っ。」
蠟燭の火に照らされた髪は絹のように美しく、軽く波打っていて、彼女の黄金色の瞳に僕を映した途端にふわりと揺れた。
二人は無言だ。
その間彼女がどんな顔をしていたのかは分からない。僕はすぐに視線を下に落としたからだ。彼女が僕を見ていたのかもわからない。
この時間が永遠に続くのかと思うくらい長く感じた。辛い。立っているのが辛い。存在しているのが辛い。視線が、こちらに向けられているかすら分からないけど、でも、痛い。
しばらくして、彼女が動き出す。
足音を立てずに、しかし速足で僕の横を通り歩いていく。何も言わなかった。彼女の心情がどんなものかさえ推測できなかった。
やがて彼女の後姿は小さくなっていく。
幼いころの、笑顔で僕を慕ってくれた妹が記憶をよぎり、死にたくなった。冗談じゃなく、死にたい。
軽く死ぬとか言うなという人が多くいるけど、そいつはきっと幸せなのだろう。だって死にたい時は死にたいのだ。死にたいとは消えたいのだ。物事を解決したいとか、幸せになりたいとか、そういうの以前にふっと頭に、死にたい、とよぎるのだ。
それが理解できないのは、その人が幸せな証拠でしかない。しかしその人はきっと、そんな事ない、自分だってつらい思いした、でも死にたいなんて軽々しく言っちゃダメ、生きたくても死んじゃう人もいるんだから、なんてのたまう。したり顔でね。
馬鹿なんじゃないのか。そもそも、そんなつまらない理屈を考えられる頭が残っている時点で、その人はまだ余裕があるのだ。それに気づかず、そこら辺に転がっている不幸の実を少し齧っては、自分だって辛い思いをしたと自慢げに言う。
「あぁ……。」
吐き気がして、喉で酸っぱいものを飲み込む。今なら口に野菜でも突っ込めば、お手軽自家製ピクルスの完成だ。家族にも食べさせてやりたいよ。泣いて喜んでくれるかな。あぁまったく僕はなんて家族思いなヤツなんだろう。ぜひ見習ってほしいね。
そんな事を考えていたら、途端に目頭が熱くなってきた。泣きたいんじゃない。実際、涙なんて一滴も出て来やしない。ただ熱い。この熱さのせいで、目が冴えて頭が働く。必要な時は全く働かない頭は、天邪鬼らしく、寝床に付けば途端に色んな記憶を見せてくれるのだ。ぐるぐると回る目に焼き付いた光景と、感情。
残念なことだ。また今夜も眠れないだろう。
しょうがないから、人類滅亡の計画でも立てていようか。
あぁいいね、我ながらグッドアイディアだ。きっと素晴らしい夜になる。