雲行き危うし
勇者の幼馴染は、自らをシスターだと言った。
あの、蜜色の髪と目をしていて、私が天使役をやっていた時の世話人で、若法王の妹で、法王の娘である、あのシスターだそうだ。
えらい変わりようである。骨格すら違うではないか。
「俄かには信じがたい事でしょうが………。」
半信半疑どころか、疑にほとんどが傾いているのは致し方が無いだろう。
だがあの繊細な気遣いは、シスターと同様のものを感じたのもまた事実。絶対的な肯定材料も否定材料も見当たりはしない。
「それと、厳密にいえば私とシスターは別人のようです。シスターは別の人としていましたから。……私としては、それが一番信じられないのですけれど。私が今まで過ごしたはずの人生が、偽物だなんて…………。神殿で流した涙の感覚も、天使様のお目にかかれた時の喜びも、全部嘘だなんて、正直信じたくもありません。」
自身の記憶が偽物……。怖気が全身を襲った。彼女がそうであるならば、自身もそうである可能性がある。
だがよくよく考えれば、何てことはないような気がしてくる。私の記憶がどうであろうとも、今幸せであるのならばそれで良いではないか。未来ならともかく、過去を気にするなど馬鹿がやることだ。
「それでも飲み込むしかありませんでした。どんな理不尽も、災難も、一旦は飲み込みます。そうでなければ前には進めない。それは“私”が……私でなく“私”が、学んだことです。」
彼女曰く、シスターとしての記憶のみならず、別世界、つまり勇者と同じ世界で生まれ育った記憶もあるらしい。
「私の記憶は分裂しています。私は両親の顔が四つ思い浮かぶのです。お兄様は確かにいたはずなのに、片方の“私”の人生には兄何ていない。矛盾した記憶が、どちらも生々しく思い出せる。……正直、気が狂いそうでした。」
笑っていた女が、気が狂いそうだったなどと言うだなんて、人は案外見かけによらないものだ。もしくは私の社交経験があまりにも無いだけか。
実のところ大した興味もないので、如何でも良いのだが。
「でも、きっと、このことにも意味があったんだと思います。」
彼女は泣きそうになりながら笑った。
「天ちゃんが本物の天使じゃなくても、それでも……、神や天使は否定されるものではありません。あなた自身はただの女の子でも、あなたには天使が宿っていた。あなたは確かに私たちの救い主だった!」
———……。
「私たちには天使様が必要なのです。」
随分な狂信ぶりだ。
その狂信故に天使の存在を否定できず、ただ私イコール天使の関係のみを彼女は切ったらしい。
「私は天使様の御存在を感じるまで、ずっと鬱々とした人生を歩いていました。天使様がおわさなければ、私は、きっと救われないままずっと、暗い日々を送って、そのまま死んでいたことでしょう。」
法王の娘と言う立場なのに、何をそこまで思い悩んでいたのだか。
「劣等感にまみれ、悪魔に憑りつかれてそのまま……。考えただけで恐ろしい。」
劣等感か。承認欲求が無ければ劣等感も生まれないだろうに。哀れな!
「私のように弱い人間は沢山いるんです、天ちゃん! みなさん救いを必要としています。天使様がいなくなってどれほど不安か! 考えただけで……涙が……。…………こんな、こんな場所にいるべきではありません。悪魔を倒して、私と共に戻りましょう。」
悪魔?
「悪魔は、天使様を攫いました。私の目でしかと見ました。やはりお兄様は間違っていなかった! 私は悪魔を倒さなくてはいけません。そして再び天使様をその身に————。」
そう言った瞬間「おーい! 晩御飯出来たよー!」と、勇者の声が聞こえた。それに女がいつも通りの声で「はーい!」と返事した後、私に笑いかけた。
「帰ろうか! 天ちゃん。」
このような時に私の心情を表す言葉が見当たらない。あぁだから言葉は不便なのだ。だがあえて、近しい言葉を言うならば……この人は恐ろしい。そんな感じだ。
その後、私たちは夕食を取り、そのまま寝た。その日も、その次の日も何も起こらなかった。彼女も通常通りだった。トンガリ帽子をぴょこぴょこやりながら、よく、芸術面に重きを置いた魔法を放っていた。
彼女はどこでそのような魔法を覚えたのだろう。
勇者も、別段何も変わらずに日々を過ごしていた。おちびもまた同じように。その内面何かを感じていたのかもしれないが、二人とも私の前でそれを表に出すことはなかった。
もっとも何かいつもと違う行動があったとしても、私に大きな関心が無いので気づかなかっただけという可能性も否定はできない。
ただ、時々、ちびが私のそばに座ってくることがあった。彼女は何も語らず、時々私の手を握り、目を閉じていた。ちなみに義手なので感覚はない。
「……う。」
何か、伝えたかったのだろうか。
言葉があったって伝わらないが、なくたって当然伝わるものではないのだから、何か伝えようとするのは無意味ではないだろうかと思う。
そう思ったけが、当然のように私の思いも伝わりはしないので、結局何もしなかった。
そのまま小一時間くらいの時が過ぎる。
今日は、ぽかぽかと陽気な日だった。ほのかな雲が淡々しい空色の中で漂っているのが、窓ガラスを通して見える。
優しい太陽の光によって日溜まりになった部屋は、全てが薄っすらとしていて、あまりにも刺激がない。それは頭の動きをゆるやかにし、静かに眠気を促してきた。心地が良い。
「おぉ。めちゃくちゃ平和な光景だなぁ。」
その平和を邪魔する奴が、ドアの向こうからやってきた。
しかし手には果物を持っていたので許そう。中には私の大好きな檸檬も蜂蜜漬けがあったので、気分は上昇する。
「お邪魔するね。」
勇者は私とおちびの前に座り、おちびに練乳をかけた苺を勧め、私に檸檬を食べさせた。そして自身も何か果物をつまむ。
「美味い?」
「うー!」
あぁ甘露。
「あはは、良かった。……あー、平和だなぁ。こんな時は、前の世界にいた時のこと思い出すよ。俺の世界は平和だったよ。それこそ死なんて全然実感できないほどね。」
「う?」
「毎日毎日、学校行って、友達とはしゃいで、勉強したりサボったり、部活やったり……、当たり前のように、そうして過ごしていた。」
「う!」
「ごめんな。ちびや天ちゃんが過ごせなかった、平和で不自由のない生活を、俺はなんの気もなく送っていたんだ。その当たり前の日常がどれだけ大切で、幸せで……誰かが手に入れたくても入れられなかったものだったことを、この世界にきて、いろんな人と接して、やっと分かった気がする。」
———はぁ。私はさほど、そのような生活送りたくないが。
「知識として、世界的に見れば悪くない生活水準であったことは知っていたけど、今までの俺は全然実感できてなかったんだ。だから……。せめて寄付くらいすべきだったのに、それすら惜しんだ。」
———……。
「それは———俺の罪だ。」
この男を庇う気はないが、不足が分かってこそ、充足が分かるのは当然のことである。
腹が減ったという状態を知っているから、腹が満腹なのを幸せと感じられる。何か行動をする大変さを知っているから、何もしない状態を幸せと感じられる。
不幸を知らなければ、幸福も分からない。
とはいえ、不幸など、生きてれば彼方から一心不乱にぶつかってくるものである。ぶつからなければ、それはそれで結構。不幸ではないのだから。
それを罪という彼は、一体どんな思考回路をしているのだろう。理解が出来ない。異常だ。この男は疑いの余地なく異常者である。
「情けない話だけど、俺は後悔ばっかりなんだよ。色々……そう、色々と。」
「う……?」
「君たちも、もっと幸せになれる道があったはずだった。路地裏にいたあの子たちも、ぎすぎすした貴族達も、全員……。」
「う。」
「だけど、この考え方はきっと傲慢なんだろうね。分かっているよ。全部僕の我儘で、僕のエゴで、僕の罪だ。それでも……僕は……。」
全部俺のエゴですって言い訳しておいて、よくもまぁここまで善人の雰囲気を出せるものだ。まぁ望んで出しているのかは知らないが。
「僕は、一から全部やり直したいなぁ。」
おい偽善者が何か馬鹿なこと言いだしたぞ。
いや、もしや……考えたくない可能性だが、もしかして、そういう能力があるってことか?
「今の君たちを見ていると、色々迷っちゃうけどね。でも……うん。ちゃんと、じっくり考えて行動しなくちゃね。」
そう言い切る勇者に何か危うさを感じたのであろう、おちびが思いっきり勇者に抱き着いた勇者もそれを受け入れ、頬を緩めていた。ちびは思いっきり勇者の背中に手をまわしながら、幸せそうに眼を閉じる。
太陽光が二人を照らし、埃は雪のように舞い、なんだか絵画のようであった。おぉこの二人は本当に絵になるね。
「ちびも、天ちゃんも、言葉を取り戻して、その辛い記憶を誰かに打ち明けていいと思ったなら……俺に教えてくれよ。頼む! 教えて欲しい。」
「う!」
「今はとにかく色んな情報を集めないと……。」
雲行きが怪しい。
何か、とんでもない事が起こってしまうような、そんな予感がした。