第5話 おお、異世界で日本語が話せる相手に会えるとは!
突然、背後から声が聞こえた。
「こんにちは~」
日本語だ!
いまたしかに、誰かが日本語で「こんにちは~」って言ってきた。
しかも、ユーモラスでおどけた、元気いっぱいの可愛らしい口調で。
(さっき私がこの庭をきょろきょろしたときは、誰もいなかったはずなのに……)
私は、謎の声を不気味と感じるより、むしろ――。
突如自分に接近してきた、ひとすじの希望 (私にとっては『蜘蛛の糸』でいう、天から糸がたれてきている瞬間なのかもしれない) を手放すまいと、うしろをふりかえった。
……けれど――。
(え、……えぇっ――!)
そこにいたのは、一匹の黒い「うさぎ」だった。
うさぎが人間の言葉を話す――しかも、ここは異世界のはずなのに「日本語」で――だけでも、かなりのおどろきだけど……。
このうさぎの体は、ぷかぷかと宙に浮かんでいる。
体の大きさは、ごく一般的な地球のうさぎ (哺乳類ウサギ目ウサギ科の生物) と変わらないサイズにみえる。
だけど、このうさぎさんっ!
長いお耳を羽のようにパタパタさせて、この子自身の身長より何倍も高い位置で、直立姿勢でプカリと浮かんでる。
どれくらいの高さで浮かんでいるかといえば……。
うさぎさんの真正面にいる私は身長158センチ。
その私と、視線がまっすぐかさなりあっている。
うさぎさんの長い耳にいたっては、私の頭より高い位置にある。
ぼう然とする私に向かって、うさぎさんはちいさなおくちを開けて、話しかけてくる。
「ん、声がちょっと、ちいさかったかな? もう一度あいさつするよ! こんにちは~」
「……こ、こんにちは」
うさぎさんの元気のいい挨拶につられて、私もキョドりながら挨拶を返した。
なんだかこれじゃあ、幼児番組の歌のおにいさんとおねえさんに元気のいい挨拶をうながされてる (やさしくダメ出しされてる) 番組観覧に来た子どもみたいだな。ちょっと恥ずかしい……。
それにしても、このうさぎさんは、いったい何者?
精霊さんみたいに、私の心が読めて、私が自分の名前を名乗らないうちから、また「唯花」とか呼びかけてくるんだろうか……。
うさぎさんは私の顔をジーッとみつめながら言った。
「ぼくはティコティス・ロコ・パリュフェットルーン・ホワッフォーワ。長い名前だからティコティスって呼んでね。ねえねえ、きみの名前は?」
(あ、このうさぎさんは精霊さんとちがって人間の心を読むことはできないんだ。だから私の名前を聞いてきたんだよね。……って、ちょっと待って!)
もしも、この不思議なうさぎさんが、人の心を読むことができて、私が「唯花」という名前だとわかってたとしても……。
『自分は心を読むことはできないから、名前を聞いてみる』ってポーズはできるんじゃない?
心が読めないのに、「読めます」なんて言ったら、「じゃあ、いま私が心の中で何を考えているか、あててみてよ」って言われちゃうけど。
その逆に――。
心が読めないフリをすることは、わりとカンタンにできるんじゃないかな。
他人の心を読むなんて特殊能力、私にはそなわっていないから、予想でしかないけど……。
そもそも、人の言葉を話すこと自体が、普通のうさぎにはできないことなんだし。
(……ん?)
ふと気がつくと、目のまえのうさぎさんがクリッとした大きな瞳で私をみつめている。
その愛らしい様子は、とても悪だくみをしているようにはみえなかった。
だけど、ここは、右も左もわからない謎の世界。
初めて会った不思議な生物を100パーセント信頼してしまうのは、危険かもしれない。
ここはやっぱり、慎重になるべきだよね。――でも。
名前を教えるくらいなら、べつに大丈夫じゃないかな?
もとの世界で使っていた銀行の暗証番号やパスワードを聞かれてるわけじゃないし。
(もし、そんなうさぎいたら、怖すぎるよ……)
名前、教えようかな。
それとも、やっぱり名前といえど、みだりに個人情報を教えるべきじゃない?
私はどう対応すべきか、考え中。
そのあいだ、ずっと無言になってしまった。
すると――。
「名前、教えてくれないの? きみはぼくのこと、あやしい奴って思ってるの?」
うさぎさんは、大きな目をうるませて、私に聞いてくる。
さっきまでの明るい声とちがって、しょんぼりとした声。
お耳のパタパタぐあいもパワーダウンしちゃってる。
罪悪感で私の胸がチクリと痛んだ。
私のリアクションが、うさぎさんの心を傷つけちゃったみたい。
何かひどいことをされたわけでもないのに、こんな純真な瞳をした小動物を疑ってかかるのも、よくないよね。
それはきっと、どんな世界でもいっしょだと思う。
しかも、このうさぎさんは日本語ができるみたいだし、いきなり謎の世界にとばされてしまった私の、相談にのってくれるかもしれない。
私はあわてて口をひらいた。
両手をあわせて、ごめんなさいの手振りをしながら。
(この手振りがあやまるときのしぐさだと、うさぎさんが知っているかは、わからないけど……)
「わわっ、ごめんね、だまっちゃって! あなたのこと、あやしいなんて、思ってないよ。……えっと、私はユイカっていう名前なの」
「ユイカかぁ~」
うさぎさんの声がふたたび明るくなる。
すでに宙にうかんでいるのに、さらにピョンピョンと体を上下に跳ねあがらせる。
元気いっぱい、ご機嫌な様子で、さらに質問してくる。
「いい名前だね。どんな『漢字』で書くの? それとも『ひらがな』か『カタカナ』?」
……『漢字』って言った! 『ひらがな』『カタカナ』とも。
うさぎさんは、日本語の文字も知ってるの? ますます心強い。
「『唯一』の『唯』に、花が咲くの『花』。華道の『華』じゃなくて、草冠に化けると書くほうの『花』で『唯花』だよ」
私は自分の名前に使われている漢字を口で説明してみた。
(とばされた世界が、現代日本とあまり変わらない世界で、場所が公園の砂場とかだったら、砂に指で漢字を書いてみせればいいんだろうけど――。ここは、芝の生えた中庭。手入れの行き届いた芝を、土に字を書いてみせるためにプチプチ引っこ抜いて地面をむきだしにするわけにはいかない)
うさぎさんには、私の説明が伝わったかな。
期待をこめて、うさぎさんをみつめる。
すると、うさぎさんは興味シンシンと言ったくちぶりで返答してきた。
「ふむふむ、『唯花』かぁ。結ぶ香りで『結香』とか、優しい衣の歌で『優衣歌』とかでユイカかな~とも思ったんだけど、『唯花』もすごくいいねっ」
くわしい! 漢字が得意というわけではない私よりも、漢字にくわしい可能性も大だ。
「うさぎさんはどうして、日本語がしゃべれて、漢字も知っているの?」
うさぎさんは元々あがっていた口角をさらにあげ、ニコリと笑ったような表情をみせながら言った。
「ぼくが唯花の質問に答えるまえに……。ぼくのことは『ティコティス』って呼んでほしいな。ぼく、唯花にはさっき名前を教えたよね♪」
あ……。そうだった。たしかに私の名前を聞くまえに、自分はティコティス(もっと長ーい、おそらくフルネームを教えてくれた)だって、名乗ってくれた。
私だって、自分の名前を名乗ったのに、ニンゲンさんって呼ばれたら……「私の名前知ってるのに、なんでその呼びかた?」って思うはず。
「ごめんねっ、ティコティス」
反省する私にティコティスは元気に言った。
「あやまらなくても大丈夫だよ。……ただ、『うさぎさん』だと、うさぎはぼくだけじゃないから、ぼくのこと言ってるのか、他のうさぎのことを言っているのか、よくわからなくなっちゃうからさっ」
「他のうさぎって、ティコティスの他にも、ここにうさぎがいるの?」
「いま、この中庭にいるうさぎは、ぼくだけだよ。でも、この国にはうさぎが大勢いるんだ」
「……大勢って、ここはもしかして、うさぎの国だったりする?」
昔読んだ『ガリバー旅行記』には、不思議な国がいろいろでてきて、『馬の国』もあった気がする。
『馬の国』があるんなら、『うさぎの国』だってあるのかも。
あ、そういえば――『ガリバー旅行記』には、昔の日本もでてきたよ。
たしか、ガリバーは江戸時代の日本にも、やってきて……。長崎の出島からイギリスに帰還したはず。
(せっかくイギリスに帰れても、ガリバーはまた、航海にでかけるんだけど)
それにしても、長崎の出島からヨーロッパに帰っていった――っていう設定だけじゃなくて――。
日本にいるときガリバーは、本当はイギリス人であることをかくして、自分はオランダ人だって名乗ることにする。
当時の日本は、いわゆる鎖国状態。
でも、オランダとは交易があった。
過去にガリバーはオランダに留学していたから、オランダ語なら話せる。
だから日本にいるオランダ語の通訳をとおして、日本人とも会話ができるって妙にリアルな設定だよね。
それでもって、私は現代の日本から、ここにきた。
『ガリバー旅行記』に書かれていたのは、誇張された記述だったとしても、日本がまぎれもなく実在しているってことは……。
馬の国みたいな、動物たちの国も実在してる可能性あり?
……ん、ということは!
『ガリバー旅行記』に登場して、超有名アニメの元ネタになったことでもおなじみの、あの空とぶ島も……、もしかして本当にある!?
ザワザワと私の心がさわぐ & ここはうさぎの国という私の予想はあたるだろうか。
ただ、『ガリバー旅行記』の馬の国は、人間である読者にとって、すばらしい異世界とは言いがたい描写も多かったはず。
たしか、馬の国の馬は知能がとても高くて、人間に似た生物は……馬の家畜状態じゃなかったっけ。
……か、家畜ぅ……!?
私の一昨年までの勤務先 (今日、私がフルタイム働いた会社とは別の、いわゆる『前の職場』) は、いろいろキツくて、同僚の女の子がよく
「ウチらって社畜だよね~」
なんて言ってたけど。
本当に家畜になるなんて、まっぴらだ。
でも、もし……。
やさしいうさぎさんにしかみえないティコティスが「人さらい」や「人身売買をなりわいとする業者」だったら、どうしよう。
ちがうよね?
(そうじゃないと信じたい。ここは『ガリバー旅行記』にでてくるような、動物が人間を家畜にしているような国じゃないよね。そもそも池の精霊さんは、私がイケメンから溺愛される世界にトリップさせるって言ってなかった? ――それがなんて、動物と会話できる世界にいるの? やっぱり精霊さん、ミスか何かで、私を予定とはちがう世界にとばしちゃったとか?)
もしそうだったら、どうしよう……。
うっ、心臓がやぶれちゃいそうなほどバクバクしてきた。
不安におびえる私は、結局――。
おもいきって、ティコティスに質問してみることにした。
平静をよそおいたかったけど、声がすこしふるえてしまう。
「ねえ、ティコティス。いったいここはどんな国なの? ティコティスは私が使っている言葉も文字もくわしいけど、ひょっとすると……『ガリバー旅行記』って本も知ってたりする? もしかして、ここは、あの本にでてくる国やその近所だったりするのかな」
ドキドキしながらティコティスをみつめる。
ティコティスの答えは……。
「ぼく『ガリバー旅行記』なら知っているよ。けど、あの本にでてくる国は、いま唯花がいる、この世界には、ひとつも実在していないよ。人間をペットにするような国はこの世界にはないよ」
「ほ、本当に? よかったぁ……」
私はホッと、ため息をつく。
ティコティスは、知らない世界に突然やってきてしまった私に、いたわるような口調で言った。
「本当だよ、唯花。だから安心して」
ティコティスのあたたかな声には、『嘘を言って相手をだまそうとしている』っていう空気が全然ない。
ティコティスの体は、とてもちいさいのに、私は彼 (彼でいいんだよね。自分のこと『ぼく』って言ってるし) にやさしくつつみこまれるような感覚におちいった。
ついさっき、この中庭でティコティスに出会ったばかりのころの私の心境と、いまの心境は確実に変化していることに、自分でも気がついた。
そう、つまり、いまの私は、「ティコティスのことは信じられるんじゃないかな」って気持ちになっている。
(本当に、本当に、よかったー! ここでは、人間は動物の家畜として生きている……なんていう人類には超ハードな世界観の国にとばされたんじゃなかった……)
ただ、ティコティスのさっきの言いかたは、ちょっと含みのある言いかただよね。
この世界には、実在していない――それは、別の世界のどこかには実在しているということ?
謎がすべて解けたわけではない私に、ティコティスは、とりあえず、私が今現在いる国について教えてくれた。
「この国を治めている王様は人間で、この国にいる一番多い種族も人間だよ。だからここは人間の国って言っていいんじゃないかな」
人間の王が治めている国――。
うさぎの国にくらべると、メルヘンっぽさは、だいぶ、うすらいだというか。現実感は増したというか。
ここはどんな王国なんだろうと想像する私に、ティコティスはたずねる。
「唯花、きみは、この国――というよりこの世界とは、『別の世界』から『とばされて』やってきた人間だよね?」
いきなり、重大なこと聞いてきた!
「……な、なんでわかったの、ティコティス」
おもわず声がさっき以上にふるえてしまう。
私、「別の世界からきた」なんて、まだ一言も言ってないよ。
おどろく私に、ティコティスはあたりまえのように言う。
「なんでって――、ぼくが『別の世界の言葉』で唯花に話しかけてみたら、通じたからだよ。それにきみは『別の世界』で広く知られている物語の題名を口にしたよね」
そっかぁ。……って、どうして『別の世界の言葉』として、いきなり日本語をチョイスしてきたんだろう。
ティコティスがマスターしている『別の世界の言葉』は日本語のみで、日本語が通じる異世界人となら意思疎通が可能――だから、この世界の住人とは思えない者がいたら日本語で話しかけてみる。
と、いうこと?
ともかく!
「ティコティスが『ガリバー旅行記』を読んでてよかった――! そのおかげで、あの本にでてくるような国は、この世界にはないって教えてもらえたんだし」
私の言葉に、ティコティスは、しみじみとなつかしそうに目をほそめた。
何かを思いだしてるのだろうか。うさぎとは思えないほど、人間っぽい、物思いにふけるような表情をうかべている。
数秒の間を置き、ティコティスは少々ややこしいことを言った。
「……まあ、ぼくが最初にその物語を読んだときは、『きみのいた世界に存在する言葉』のひとつではあるけれど、きみが使っている言葉とはちがう言葉で書かれていたけどね」
――『きみのいた世界に存在する言葉』のひとつではあるけれど、きみが使っている言葉とはちがう――。
それって地球上の、日本語以外の言語。
日本語からみた外国語ってこと?
「え……ティコティス、どういう意味? ティコティスは原書――『ガリバー旅行記』の場合は、英語で読んだってことかな」
「うん! 『ガリバー旅行記』いう短いタイトルじゃなくて、
『Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of Several Ships』
ってタイトルだったんだ」
ながい、ながい、ながーいっ! タイトルだけでいったい何字使うつもり?
昨今の日本語の長文タイトルより、ながく感じる。
&
ティコティスは英語も習得してるっぽい。
マスターしてる言語は日本語だけかな、なんていう私の予想は早々にハズれた。
それにしても――。
「……ティコティスって英語の発音もカンペキなんだねぇ!」
お世辞でもなんでもなく、本音が口からとびだした。
だって、ティコティスの英語の発音は、海外映画の俳優さんのセリフを聞いている感覚になるくらい、ネイティブっぽかったから。
日本語を話しているときよりも大人びた声だったし。
おもわず、いま私のとなりにいるのは、モフモフした可愛い黒うさぎさんではなく、声のいいイケメン俳優かと錯覚しそうになったよ。
「え? そ、そうかな♪ ぼくの英語って、そんなに上手? 実はぼく、言葉をおぼえるのは得意なんだ~! これまで、いろんな世界の、いろんな国の人とおしゃべりしてきたよ」
ティコティスは、テレたように言ったけど、いままで以上にご機嫌な様子。
気分がよくなったのか、この国について、さらにくわしく説明してくれた。
ここはノイーレ王国。
さっきティコティスが言ったように、人間の王が治めている国家だそうだ。
近隣諸国とも長年友好な関係をたもっている、とても平和な国。(とりあえず、ホッ……)
ティコティスは説明をつけたした。
「この国の世界観は、唯花がいた世界――地球――のヨーロッパ大陸に似ているかな」
でた! 異世界もの定番の、ヨーロッパ『っぽい』国。
いまいる中庭が西洋っぽいから予想はしてたけど、やっぱりここは、西洋風な雰囲気がただよう異世界なんだ。
「唯花のいた、21世紀の地球では、身近に普通に存在しているものも、この世界ではまだ実用化はされてないものが多いよ」
これまた王道! 現代のヨーロッパにある国そっくりそのまま……って、わけではなくて。
昔のヨーロッパっぽい国にトリップしたパターンみたい。
私は念のため、ティコティスに質問してみる。
「……21世紀には、身近にあるものも、この世界ではまだ実用化されてないって――移動手段に飛行機や電車や自動車を使ったりはできない。通信手段も、スマホはない。固定電話もない……って、こと?」
「そうだよ。唯花のいた世界でいう『産業革命』は、この世界ではまだ起こっていないからね」
『産業革命』って、たしか18世紀なかばころから19世紀にかけて起こったのよね。
すくなくとも学校ではそう習ったはず。
産業革命以前の、ヨーロッパみたいな文化・生活様式だと思ってればいいの?
でも、この中庭からみえる屋敷の外観は、中世 (5世紀から15世紀) の文化圏の建物には、みえなくて、もっとずっと時代が進んだときに建てられたような雰囲気だ。
産業革命は『まだ』起きていないってことは、17世紀から18世紀初頭ごろのヨーロッパに似た文化・生活様式ってこと?
ティコティスの説明はテキパキしている。
しかも、『産業革命』という、世界史でおなじみの用語まで使ってきた。
(この世界は、産業革命まえということは――主な移動手段は、徒歩か馬車。陸路じゃないなら船。通信手段は手紙なのかなぁ)
それにしても、ティコティスは何者なんだろう。