第1話 トリップのキッカケは、ある果実? 失恋ムードが一転!
「……え? その冗談、ぜんぜん笑えないんだけど……」
『冗談を言ってるわけじゃない。本気で言ってる。唯花、オレたちもう別れよう』
その言葉を最後に、声の主である健太朗は、スマホの通話を切った。
これ以上私と話す必要はないとばかりに。
「ちょ、ちょっと待ってよ、健……」
私の口から彼をひきとめようとする言葉がこぼれた。
通話はもう切られちゃってるっていうのに――。
健太郎のスマホに再度かけてみようとも、思った。だけど。
彼は私の言葉には、もう耳をかたむけないんじゃないか。
健太郎のくちぶりが、私にそう直感させた。
今日は金曜日。
会社の帰りにふたりで会う約束をしていた私は、待ちあわせ場所である公園のベンチにすわっていたのだけれど――。
待ちあわせ時間ギリギリにかかってきたスマホで、私は無情にも彼に『フラれて』しまったみたい。
認めたくないけど、本人の口から
『別れよう。冗談を言ってるわけじゃない』
って、聞かされてしまったんだ。
こんな場合私は、自分が失恋したことを、自覚しなきゃいけないんだよね。
……はぁ、と私はため息をついた。
エープリルフールは、まだ先だし、たとえ今日が、四月一日のエープリルフールだったとしても、健太朗が私に別れを告げたときの低い声は、嘘を言っている雰囲気じゃなかった。
そもそも、エープリルフールに『別れよう』なんて心臓に悪い、笑えない冗談言う彼氏なんて、私はいやだし。
(……私、健太郎にフラれちゃった……)
別れを切りだされたのは、ついさっきのこと。
だけど、思いあたるフシがないわけじゃなかった。
健太郎と私は別々の会社で働いているけど、健太郎の同僚の中には、私の学生時代からの友人、苑子がいる。
今年に入ってから苑子に、
『健太郎くん、最近同じ課の女の子と妙に仲がよくてね。唯花、気をつけたほうがいいよ』
と忠告されていた。
苑子は、こうも言っていた。
『バレなけりゃ浮気じゃない。ふたり同時につきあおうって考えの男もいるからね。健太郎くんもそういう男だとは言わないけど、わたしの元彼は――残念ながら、すぐバレる嘘ばっかりつくようになってさ。フタマタかけられるのって、すっごくムカつくから、唯花には同じ思いしてほしくないというか……。おせっかいな報告だったらごめんね』
苑子は、事実をねじまげておおげさに吹聴するタイプじゃない。
同級生のときから、ひとの噂話はあまり気にしない、でもこまっている友達はみすごせない、めんどうみのいい性格だった。
その苑子が、健太郎には現在仲のいい女子社員がいると伝えてきたのだ。
思いかえしてみれば――。
苑子は、健太郎の会社での現状を話しているとき、私のことを心配しているようなくちぶりだったし。
『バレなけりゃ浮気じゃない。ふたり同時につきあおうって考えの男もいるからね。健太郎くんもそういう男だとは言わないけど――』
たしかに、健太郎はバレなければふたりとつきあおうと考えるタイプではなかったみたい。
――そのかわり、私はフラれてしまったわけだけど。
きっと、その、同じ課にいる女の子のほうがよくなっちゃったんだろうな……。
健太郎には、移り気なところがあるし。
もう私のことは、どうでもよくなっちゃったのかも。
最近は、つきあいはじめたころにくらべてデートの回数も少なくなっていた。
なにより近ごろの健太郎は、私といっしょにいてもあんまり楽しそうじゃなかった。
私は私で、いまの会社での仕事は、今月いっぱいでやめるから、ひきつぎで忙しかったし。
だけど、今週に入ってひきつぎも無事終わって――。
ひさしぶりに肩から荷をおろした気分で、今日健太郎とデートする予定だったんだけどなぁ。
――それでも、私たちおたがいに、はじめのデートのときみたいに、「相手といっしょにいられるだけでしあわせ」って気持ちからは、遠ざかっていたのかも。
(……先月健太郎と会ったのが、結局私たちの、最後のデートになるんだよね。あの日の健太郎は、私といるときも、となりにいるのがその人だったらよかったのに、とか、はやくデートを切りあげて、その人にメール送りたいとか……、そんなふうに考えていたから、あんまり楽しそうじゃなかったのかなぁ。それとも、いつ別れを切りだすかで頭がいっぱい――結局、面と向かっては言いづらくって、今日、スマホで別れ話をしたとか?)
健太郎にさっきフラれてしまったのは、まごうことなき事実だけど、このまえの私とのデートのとき、彼がいったい何を考えていたのかは、私の想像でしかない。
だけど私の頭は、自分で自分を落ち込ませるかのように、ネガティブな予想ばかりしてしまう。
彼氏にフラれたばかりなら、マイナス思考になってしまうのも、しかたがないよね……?
そう自分自身に問いかけたとき。
あたりにサーッと、風が吹いた。
もう春だというのに、いまの私の心と同調するような、冷たい冷たい風だった。
ベンチに腰かけている私の、すぐ目のまえにひろがる公園の池も、風のせいで水面がゆれた。
(……うぅ、三月とは思えないほど寒い……。もう家に帰ろうっと。私は今日、健太郎を待ってこの公園にいた。……だけど、私が待っていた相手である健太郎は、私のもとには、きっと永遠に帰ってこないんだろうし――)
今日は部屋でひとり、おもいきり泣きたい気分。
こういうとき、ひとり暮らしでよかったと、しみじみ思う。
大声で泣きわめかないかぎり、周囲に泣いていることを気づかれる心配をせずに思いきり泣きはらせる。
声をださずにひとりで泣くことは、昔からなれている。
小学生のころ、大すきだった祖母がなくなったときも。
その祖母の形見の、大事な鏡を割ってしまったときも。
大切な人と会えなくなってしまったときも。
当時いっしょに暮らしていた両親を心配させないように、声をだすのを我慢して泣いていたことを思いだす。
しめっぽい気分のまま、私は持っていたスマホをショルダーバッグに入れ、自分のアパートにもどるため、ベンチから腰をあげた。
公園の出入口をめざし、体の向きをかえたとき。
地面に捨てられたゴミと思わしき、黄色の物体が視界に入った。
どうやらそれは、バナナの皮のようだった。
普通の公園ならば、なぜ地面にバナナの皮だけが唐突に落ちているのか、不思議に思うかもしれない。だけど――。
あいにくこの公園は、数年まえにあるドラマのロケ地になったことがある。
そのドラマには、ヒロイン役の女性タレントがこの公園でバナナを食べるシーンがあるらしい。
ドラマをみていない私には、
(なんで公園でバナナを食べるの?)
という感想しかなかったんだけど、ドラマをみていた友達の話によると――。
なんでも、公園で初デートをするヒロインは、ヒーローから「何が食べたい?」と聞かれるそうだ。
ヒロインは、公園内の屋台で売られているアイスクリームの味を聞かれたと思い、バナナ味のアイスを食べたいという意味で『バナナがいい』と答える。
だけどヒーローは、ヒロインは果実のバナナを食べたいのだと思い、ヒロインを公園のベンチで待たせると、わざわざ遠くの八百屋だったか、果物屋だったか――まで走って行き、バナナを買ってくる。
ヒロインは、ふだんクールなヒーローが自分のためにここまでしてくれるなんて……と感激! そのあと、ふたり仲よくこの公園でバナナを食べるシーンが名シーン (迷シーンや珍シーンじゃなくて?) としてドラマファンのあいだで語りつがれているという。
そして、そのドラマのヒロインとヒーローのマネをして、この公園でバナナを食べるカップルが急増したらしい。
それまでは、地元民以外でこの公園にくる人たちといったら……。
だいぶまえにパワースポットを紹介するサイトで、公園内の一部が紹介された記事を読んだ人たちくらい。
どんなご利益があるのか、私は知らないけれど、女性の来園者が一時的にとても増えたことは、うっすらと記憶している。
でも、パワースポットめぐりをしているっぽい人たちも、最近はあんまりみかけないから、……それほどご利益はなかったのかも。
ここにあるものといったら、池と芝生と木や花、あとベンチくらい。遊具もない、ちいさな公園だし。
(ドラマも終了してから数年がたっているし、さすがに公園内でバナナをほおばる恋人たちをみかけることは、ほとんどいなくなってきたって、テレビ番組の聖地巡礼についてくわしい友達から聞いたのになぁ……)
聖地巡礼のカップルであろうと、なかろうと、ゴミとなったバナナの皮を持ち帰ることなく、ほうり捨てていくなんて――公共マナーはちゃんと守ってほしい。
皮を踏んで、すべってころぶ人がいたら、あぶないし。
……ん、バナナの皮って、本当は、たとえ踏んでしまっても、大昔のコントのように、ステーンッ! と、すべったりはしないんだっけ?
ころんでもころばなくても、どっちにしても、ゴミを放置するのはよくないけど。
(それはそうと――、通り道に落ちてるからって、わざわざバナナの皮をふんでいく必要はないよね)
私は、自分の前方にあるバナナの皮を踏まなくてもいいように、体を道の左がわによせた。
――瞬間。
体のバランスがくずれ、上半身がつんのめり、ななめ左方向に体がよろけてしまった。
ずっと健太郎を待ってベンチにすわっていたから、足がしびれてきてたのかもしれない。その結果……。
グシャッ!
さけようとしていたはずのバナナの皮を、結局、踏んづけてしまった。右足で、おもいきり。
私の身にふりかかった不運は、まだ続いた。
たとえ踏んでしまっても、コントやギャグマンガのようには、すべらないと予想していたにもかかわらず、想像をはるかにこえ、私の体は前へ前へと押しだされていった。
(このままじゃ、私、池に落ちる……!?)
今度の予想は見事に的中してしまう。
柵のない池に、私は頭からころがりおちてしまった。
ボッシャーンという大きな音とともに、体が目のまえの池に勢いよく沈んでいく。
(そんな、嘘っ! この池の深さはたしか、30センチくらいだったはず。それなのに、なんで私の体は水中に沈んでいっているの?)
せめて顔だけでも水面からだそうと懸命になってもがいたけど、気がつけば、全身水の中。……って、だから、どうして30センチほどの深さしかないはずの池に、体ごと沈んでるの!?
しかも池の水は、春とは思えないほど、冷たい。痛いくらい。
助けを呼ぼうにも、顔も、必死にバタつかせている両手も、水につかってしまっている。
――唯花、唯花―
え? ……だ、誰っ!
私の名前を呼ぶのは、知らない女の人の声だった。
声は、池のそばの地上から聞こえてくるというよりも、私の頭に直接響いてきている。
妙にはっきりとした、鮮明な夢をみているときのような感覚。
……あ、私、気をうしなって夢のなかにでもいるのかな? ちょっと、待って! いま気をうしなったら、かなりヤバいんじゃないの!? このまま、おぼれ死んじゃうことになるかも……。
もしそうなら、いままでの人生が走馬灯のように思いだされたりするとか?
私はホンモノの走馬灯すら、みたことないのに?
臨死体験したって言う人がよく話すらしい、きれいな花畑みたいなところに行っちゃったりするの?
死んだおばあちゃんが手をふってたり??
おばあちゃんのことはすきだったけど、私まだ死にたくはないよ。
……でも、もう遅いの?
――唯花、唯花―
あいかわらず誰かが『唯花』って、私のことを呼んでいる。
私の頭に呼びかけてくる声は、いままで聞いた記憶のない、若い女性の声で、私のおばあちゃんの声とはちがうけど。
いわゆる『あの世からのおむかえ』の声なんだろうか。