薄紅葉蕩尽す
夢を見る。
湖の真ん中に一本の楓が生えている。青々とした楓。そこには一人の黒々とした髪の少女が立っていて、幹に手を置き、見上げている。こちらから表情は見えない。でも、美しい人だと思う。
その日から眠る度に同じ夢を見る。同じ夢だが、楓と少女の姿は違う。楓は日毎に紅く色付き、少女は日毎に成長していく。幹に置かれた左手の薬指にはいつしか指輪が輝き、黒々とした髪は白く老いていく。
少女から老女へと。
未だに表情は見えない。でも、私はもう知っている。彼女が一体誰なのか。
いつしか楓はあと一枚を残して紅葉していた。幹に置かれた瑞々しかった手は人生が刻まれた皺だらけの手に変わっていた。
あと一枚の薄紅葉。
私は思う。そのままでいいと。そのままで構わないと。
それなのに、
手は幹から葉へと伸ばされる。
私は彼女の名前を呼んだ。
初めて見えたその表情は――幸せそうに微笑んでいた。
たった一枚の薄紅葉が紅葉し、全て紅く染めた葉が舞い落ちる。
私の視界を真っ赤に染める。
一枚一枚が伝えてくる。
出会ってから恋をして、恋人になり妻になった。
彼女が感じていた私の声、温度、表情が伝わってくる。
私はこんな声で貴方を呼んでいたか、私はこんな温度で貴方に触れていたか、私はこんな表情で貴方を見ていたか。
そっと右手に触れるものがあり、見ると妻が隣で私の手を握っていた。
「綺麗でしょう? 貴方が染めてくれたのよ?」
そう言う彼女は少し恥ずかしそうでもあり、誇らしげでもあった。
私はその手を握り返して言う。
「君だったからだよ」
彼女は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに目を細めた。
目が覚めた。
右手の中に感触がして掌を開く。
そこには二枚の紅葉が握られていた。
壊さないように両手で包むと胸元に抱き締める。
電話が、鳴った。