前篇 彼女の憂い
カーテンの隙間から洩れる日差しで目が覚めた。
「んー……まぶし……」
細い光の筋は私の顔を直撃しているらしく、目を閉じていても痛いぐらい眩しい。
んんんー……と唸りながら横を向き、ようやく目を開ける。
少しチカチカする視界に写るのは見慣れた風景。
「あー、もう朝かぁ」
のそりと起こした体はひどく重い。重力に負けてまた横になってしまいそうだ。
強張った体は思うように動かず、あちこちの関節が悲鳴をあげている。
さもありなん。
どうやら床で寝落ちしてしまったらしい。
顔を左右に振るのさえ難儀なほどに首の筋肉は強張っている。
彼を待っている間にちょっと仮眠のつもりが爆睡。固いフローリングの床が寝心地良いはずもなく、こんなことになっているわけだ。
「ああ、もー。またやっちゃったよ……」
ひとりごちながら、コリの酷い個所をマッサージする。無理のない範囲で首を動かせばゴキゴキと盛大な音が立つ。
「ひっどい音」
まるで骨が折れてしまいそうなほど派手な音だ。おもわず苦笑いが漏れた。
壁にかけた時計は午前九時三十分をさしている。完全に寝坊だ。
東に窓面があるうえに二階にあるため、この部屋は早朝から陽が射す。だから、普段だったらこんなに遅くまで寝こけていることはない。夏なんて室温の上昇に耐えきれなくて目が覚めてしまうくらいなのだ。
いつの間に寝てしまったのか全然覚えていないけれど、こんな時間まで寝ていたのだから相当疲れていたんだろう。
とりあえずは顔を洗って、シャワーを浴びてスッキリ目を覚ましたい。倦怠感に苛まれながらもどうにか立ち上がり、私はバスルームへと向かう。
視界の端に何か違和感を覚えて振り返る。ゆっくりとあたりを見回して、ふっと思った。
……あれ? うちのカーテンってあんなのだった?
けれど、模様替えをした覚えもないし、そもそも私が寝ている間に変わるはずもない。同棲中の彼が帰ってきて替えた――というのも否定できないけれど、そもそも面倒くさがりのあの人が自分で替えるはずがない。私を叩き起こして『替えて』なんて言うのが関の山だ。
「やだ、まだ寝ぼけてるのかな。早くお風呂でスッキリしてこないとね」
そもそもカーテンは彼の趣味で選んだものだから、私の趣味とは少しずれている。だから少し愛着が薄いのかもしれない。それと寝ぼけ眼が相まって、違和感を感じたんだろう。
私はかぶりを降って、洗面所に向かった。
湿気がこもるのを防ぐために洗面所のドアはだいたいいつも開け放している。ここをしめるのは私か彼がお風呂に入る時と、めったにないけれど友人を呼ぶときだけだ。
このアパート、裏野ハイツは有り難いことにバスとトイレが別だ。ゆっくりお風呂に入るにはやっぱり独立していた方がいい。
ユニットバスが多い中、このアパートを見つけられたのは幸運だったと思う。築年数がちょっといっているけれど、駅まで徒歩七分の近さと、このあたりにしては広い間取りと良心的な家賃。これだけそろっていれば少しぐらいの古さは問題じゃない。
契約を決めるまで木造と言うことで騒音問題を心配していた。けれど、角部屋だし、唯一のお隣さんになる左隣の部屋の住人はとても静かだ。
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「あれ?」
気がつけば、私はぼんやりとベッドに腰を下ろしていた。
「うーん……やっぱり調子悪いのかなぁ」
洗面所に向かったのは覚えているのに、そのあとの記憶が曖昧だ。
服を脱いでバスルームに入った……ような気はする。けれど、気がするというだけで確たる記憶がない。寝ぼけていたからと言うには少し変だ。
おまけに体のこわばりも、関節の痛みも全然良くなっていないし、風呂上り独特の爽快感すら感じない。
寝ぼけたせいじゃないとすれば体調が悪いとしか思えない。
その証拠に、ギュッと握った指先は凍るように冷たい。
「とりあえず横になろ」
ベッドに身を投げ出せば、スプリングがキシリ、と小さく鳴った。
「ユージくん、いつ帰ってくるかなぁ」
独り言がこんなに多くなったのはいつからだろう?
彼と喧嘩が多くなったころ? それとも彼があまり家に帰らなくなってから?
考えれば考えるほど辛くなってくるから、私は急いで自分の思考に蓋をした。
辛いことは何も考えなくていい。
ただユージくんの帰りを待っていればいいのだ。
彼が快適に過ごせるように部屋を整えて、彼の好きな料理を作って。待っていればいい。
ここ数日、帰って来てないし、連絡もないけれど、それはきっと仕事が忙しいからだ。今までも帰ってこないことがあったけれど、いつだって数日たてば無精ひげを生やしつつ疲れた顔をして帰ってきたじゃない。
だから何も心配することはない。ここでいつも通り待っていれば何の心配もないのだ。
考えることをやめた私の目には、部屋が横倒しにうつる。本当は私が横になっているだけなのだけれど、自分を中心に考えれば世界はいま私に対して横倒しになっているのだ。私に合わせて世界が向きを変えている。そう思うとなんだか愉快になってきた。天動説をはじめて考えた人もこんな気持ちだったんだろうか? なんてね。
「少し、寝ようかな……」
午後少し回った時刻。午前中はあれほど燦々と降り注いでいた太陽の光も、今はもう入って来ない。
そのかわり、きっと隣のリビングダイニングには西日が差し始めていることだろう。
見慣れた光景だから、目をやらなくてもありありとその光景が思い浮かぶ。
壁掛け時計の秒針が、チッチッと小さな音を立てて時を刻む。
あの秒針が、あとどれくらい時を刻めば彼は戻ってくるんだろう?
寂しい。信じているけど、でも、やっぱり一人は寂しい。
寂しいと繰り返しながら私はゆっくりしたまどろみに沈み始めた。
それにしても。
ああ、首が痛い。
寝違えって本当に厄介だ。
痛い、寂しい、痛い。
こんなに切ないのに、涙は出てこない。
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目を覚ましたのは夕方だった。
薄暗くなった部屋には、隣のリビングキッチンから夕焼けの光が差し込んでくる。隅々に闇がこごり青く沈む部屋を侵食するような赤い光。床に映し出されるその赤は夜に向かって徐々に減っていくことだろう。
私はまだ重たい体をゆっくりと起こした。
「ユージくん、まだ帰ってない……」
明かりひとつない部屋は静まり返り、彼の気配の片鱗すらない。
遠くから漏れ聞こえてくるのは、子どもたちがさよならを告げる声。
闇とは言えないけれど不鮮明な視界。でも明かりはつけないまま部屋を斜めに横切った。
閉じたままのカーテンの隙間をくぐってベランダへ出た。
真正面に広がるのは東の空。目の覚めるような群青に一番星が光っている。
ハイツ、と言うのは高台にある建物の意味があるらしい。
その点でこの裏野ハイツは名前の通りでもある。丘ともいえないくらいの高さではあるけれども、周囲の土地から少しだけ隆起した、高台と言えなくもない場所に建っているのだから。
だから二階建てとはいえ、住宅街にあるにしては少しばかり見晴らしがいい。
ハイツの横からまっすぐ東に延びている道路は、なだらかな下り坂ののち平坦になる。平坦になって少し歩いたところが最寄駅だ。
ここでこうして待っていたら、ユージくんが帰ってくる姿が見えるかもしれない。
そんな淡い期待が胸に湧いた。
私はベランダの手すりに腕をのせ、その上に顎を乗せて暮れなずむ街を眺めていた。
時折吹く微風が私の髪をなびかせる。
のどかで、ありふれた日常の風景。
不意に人の気配がして下を見た。
駐輪場の脇に、三歳ぐらいの小さな男の子がポツンと立っている。
頭にはヘルメットをかぶっているので、おそらく母親が自転車を停めている間、そこでそうして待っているのだろう。その証拠に、錆の浮いた駐輪場の屋根の下から、ガチャガチャという金属音や、レジ袋らしいガサガサという音が漏れてきている。
その小さな男の子は見覚えのある顔だった。
たしか……
真下の部屋――103号室に住んでいる子だ。三十代らしいご両親との三人暮らし。でも小さい子がいるとは思えないくらい静かで、大声や泣き声はついぞきいたことがない。
黒目がちで大きな目、ふっくりした頬、日焼けしにくい体質なのか色白の肌。キッズモデルでも充分通用するんじゃないかと思うくらい可愛らしい子だ。
件の一家が引っ越してきたころ、少年はまだ歩くこともできないほど小さな赤ちゃんだったのに。いつの間にか大きくなったなぁ。……なんて思いながら眺めていると、少年は私の視線に気が付いたのか顔を上げた。
即座に目が合う。何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。男の子の顔には何の感情見えない。ただ小さな唇が生真面目なふうに一文字に結ばれていて、意思の強さを少しだけ感じさせた。
じっと見つめ合うのも居心地が悪くて、私は彼に向って小さく手を振った。顔にはきっとぎこちない笑みが浮かんでいるだろう。小さな子どもと縁のない生活を送っている私には彼くらいの歳の子とどう接していいか分からない。だからどうしてもぎこちなくなってしまうのだ。
もしかしたら無視されてしまうだろうか。それとも、ぷいと横を向かれてしまうだろうか。反応が気になって少しだけドキドキした。
けれど、男の子の反応は想像と違った。細い右腕を胸のあたりまで上げ、小さな手を振ってくれたのだ。
それだけのことなのに、酷く胸が暖かくなった。
部屋に引きこもって、ただ彼の帰りだけを待っている私にとって、男の子とのやりとりは久々の他人との交流だったのだ。
ツンと痛くなった鼻を持て余しながら、さらに大きく手を振った矢先、母親らしい女性が片手にバッグとスーパーのレジ袋を提げながら男の子に近づいた。
痩身の女性の肩あたりにはすこしばかりの生活疲れが見て取れたが、それでも充分幸せな生活を送っているように見える。男の子に向けられた笑みが穏やかで、また母親を見つめ返す男の子の顔には安心しきった表情が浮かぶ。
ああ、幸せな家族なんだ。
今、家賃の安いここに住んでいるのはマイホームの資金をためるためで、お金がたまれば希望に顔を輝かせながら出て行くんだろう。
良く知りもしない家族の未来を想像して、嫉妬ともなんともつかない渦が胸に生まれた。
眼下では、少年が何かを語りながら私の方を指さす。
その指につられるように顔を上げた母親と目があう直前、私は急いで会釈をした。
が、彼女は焦点のすこしぼやけた目で私を見たあと私を無視するかのように少年に向き直ってしまった。
一言、二言なにか喋ったあと母親は男の子の手を引いて歩き出した。
手を引かれて歩きながら、男の子はもう一度私を見上げて、空いた方の手を振ってくれた。
私も慌てて手を振り返したけれど、男の子に見えたかどうかは定かではない。
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男の子の母親に無視されたことが、なぜだかやけにショックだった。
私は残照の残るダイニングキッチンに置いたダイニングテーブル――と言うほど立派なものではないけれど――に座ってそわそわと悩んでいた。
木造のアパートゆえ二階の物音は一階に響くだろう。私は知らないうちに階下のあの家族に騒音で迷惑をかけていて、彼女はそれに腹を立てているのだろうか。
だから目が合っても知らんぷりなんだろうか。
心あたりがないわけではない。
ユージくんと喧嘩をすれば罵りあうこともあるし、苛立ち紛れに彼がテーブルの上のものを床に払い落としたこともある。
彼が疲れて苛立った時はわざとらしくドスドスと大きな音を立てて歩いたりもするし、私だって出勤前はバタバタと走り回ったりしていた。
どうしよう。
謝りに行った方がいいのかな。今さらだ、って鼻で笑われたりしないだろうか。ようやく来たかとばかりに罵詈雑言を受けるだろうか。
そうだ。彼が帰ってきたら一緒に謝りに行こう。ひとりで行くより心強いもの。
あ、それから。明日あたりカーペットを買いに行こう。床に敷けば少しは防音になるかもしれないもの。だから、明日にはこの首が治っているといいな。
もし配送が頼めなかった場合、自分で持って帰ってくるしかなくなる。痛む首を抱えての大荷物はしんどい。
私は痛む首筋をさすった。
途端。
玄関の鍵がガチャガチャと音を立てた。
しんとした部屋に突然響き渡った甲高い金属音に、私は文字通り飛び上がった。
続いてドアノブがガチャガチャと動く。
「だっ、誰!? ……ユージくん?」
恐る恐る聞くが返事はない。
そうだ。
そうだ。
なんで忘れていたんだろう?
ここのところ、ずうっと夜になると変なことが起きるのだ。
なんでこんな怖いことを忘れていたんだろう?
もしかして、昨日の夜、床で寝落ちしたのは恐怖のあまり失神したとか!?
なのに、思い出そうとしても思い出せない。
やだ思い出せないくらい怖い思いをしたってこと!?
全身からさぁっと血の気が引いた。
体がカタカタと震える。
やだ
混乱する私の後ろを、ふっと何かがかすめた。
まるですぐ後ろを誰かが通ったような空気の流れ。
そして、はぁ、と疲れたようなため息が聞こえた。
声の源はすぐそこ。
なのに、そこには何もない。
違う。
何かが、イル。
見えない何か。
異質なモノが、イル。
目を凝らしていると、その『何か』がぼんやりと姿を現し始めて、あっという間に黒い影になった。
まるで成人男性のシルエットのようなそれはゆらり、ゆらりと部屋の中を歩いている。
さながら部屋の主であるかのように。
ユージくん、ユージくん、ユージくん!!
怖いよ。ひとりじゃ怖いよ。
はやく帰ってきて!
心の中で祈った。声を出したらアレに気づかれてしまう。
と当時に、ようやく思い出した。
昨日の夜もアレが来た。ちょうどこのくらいの時間かもう少し遅い頃。
いまと同じように玄関ドアをガチャガチャと言わせながら入ってきたんだ。
それから何時間もアレに気づかれないように息をひそめて過ごして……。疲れ切って眠ってしまったのだ。
思い出した。思い出して、しまった。思い出さなきゃよかった。だって、思い出してしまったらアレが長時間この部屋に居座ることまで分かってしまうんだもの。
思い悩むうちに、ふいに視界が明るくなった。
あの黒い影がどうやら照明のスイッチを押したらしい。
「ひっ!」
驚いて小さな悲鳴が口をつく。慌てて口を塞いだけれど後の祭り。
「なんだ? 誰かいるのか?」
低い低い男の声がした。どうやら黒い影が発した言葉らしい。驚いたことにあんなに化け物然とした姿でも人間みたいな声が出るんだ。妙なところで感心してしまう。
黒い影はのそりと動くと、洗面所の入り口に立つ私のすぐそばまでやってきた。
けれど、奴には私の姿が見えないらしく、あたりをきょろきょろと見回す仕草をした。その後に洗面所やバスルーム、トイレの中を順番に確認しているんだろう。
「気のせいか。……だよなぁ」
独りごちた影。
息がかかるくらい耳の近くで囁かれた。吐息が耳を掠めて全身が総毛だった。
影はひとしきりウロウロしていたけれど、やがて奥の部屋へと戻っていった。
今よ。
今のうちに……逃げなければ。
私は震える足を叱咤して、奴に気づかれないように玄関へと向かった。靴を履く余裕はない。裸足のまま三和土に下りた。
あの化け物に気付かれないように、そっと部屋を出て――
違う。それじゃダメだ。
逃げたらきっと明日からもあの怪物はやってくる。やってきて一晩中ここに居座る。
ユージくんと私のこの部屋に。
ダメだよ。
それはダメだ。
だって、あんな化け物がいたら、帰ってきたユージくんが困るもの。
私が何とかしなきゃ。
大丈夫。
そうよ。私はあんな化け物には負けない。絶対に。
私はゆっくりとリビングダイニングを突っ切った。奥の部屋に入り、黒い影の横に立つ。
影との距離は約三十センチ。
怒りを込めて睨んでいるうち、影の姿がだんだんと鮮明になってきた。
どこにでもいそうな顔立ちの、おそらく二十代後半くらいの男。服装はこれまたありふれた白のYシャツにストライプのネクタイ。すべてが粘土で作られたかのように灰色一色だ。肌もネクタイの色もスラックスの色も分からない。
これはもしかして幽霊ってやつなんだろうか?
昨夜はただただ怖くて怯えていただけだけれど、反撃しようと思い立った今となってはつぶさに観察する余裕が生まれた。……本当は怖いけど。
「出て行って」
男の姿をしたそれに向かって言った。我ながら気迫の籠った声が出た。
「なっ!?」
男は体をびくりと震わすと、あたりをきょろきょろと見回した。それでも私の姿は見えないらしい。生きている人間が見えないなんて、変な幽霊だ。
霊感のない人が幽霊を見ないように、幽霊もまた霊感のない人間が見えないんだろうか?
生まれてこのかた心霊現象になんて遭ったこともなかった私だ。霊感ゼロな自信はある。だから奴は私のことが見えないんだ。
なぁんだ。
それなら怖くない。
「出て行け」
さっきよりも一段と低い声が出た。
奴はびくりと体をこわばらせて、一点を見つめている。そこ以外を見たら何か怖いものが見えてしまうとでも思っているかのようだ。
「聞こえないの?」
男の耳元で囁いてみた。
普段の私だったら絶対にできないだろう。
でも、今は違う。
どうしてもこいつを追い出したかった。何を勝手にユージくんと私の部屋にあがりこんでいるの。沸々と湧いた怒りで、胃の下のあたりがじくじくと熱くなる。
こんな理不尽があってたまるか。
許さない。
許さない。
絶対に許さない。
ここは私の家だ。
「出て行け」
繰り返した声は、恨みと怒りで地を這うほどに低かった。
本当にこれは私の声なの? という疑問は心の隅に追いやった。
じっと睨みつけているとなぜか男の姿が鮮明になってくる。
灰色だった姿は徐々に色を帯びて、次の言葉を発するころには、まるで生きた人間のようにクリアに見えていた。
「早く出て行け、この……」
恐る恐るといった態でこちらに振り向いた男は、どうやらようやく私の姿を認識したらしい。
しっかりと目が合った。
途端、男の顔が青ざめ、目はこれ以上ないくらいに見開かれた。大きくあけられた口はひゅうひゅうと息を漏らすだけで、声のひとつも出せないらしい。
「ここはお前なんかが入ってきて良いところじゃない。早く出て行け」
男は腰を抜かしたように後ろに手を付き、後退ろうとしている。私から距離を取ろうとしているんだろうけれど、それは全く成功していない。
なんて怖がりで無様な幽霊なんだろう。そう思ったら、自然に笑みが浮かんだ。
「ひっ! ひい……」
男がようやく発したのは、そんな情けない声だった。
「分かったらさっさと出て行け!!」
「うっ、うわあああああああ!」
怒鳴った途端、男は弾かれたように悲鳴を上げ、こけつまろびつしながら逃げて行った。
ゆっくりと振り向けば、開いた玄関ドアがゆっくり閉まるところだった。
その向こうから尾を引くような男の悲鳴が聞こえたけれど、ドアが閉じた途端その声も聞こえなくなった。
「追い出し成功! 私ってすごくない? 幽霊に勝っちゃった」
これで一安心。彼がいつ帰ってきても大丈夫。
ふふふと忍び笑いが漏れてしまった。
でも、このくらい笑ったっていいよね? だって、私、頑張ったんだもの。
「今日は良い気分で眠れそう」
爽快な気分でベッドに横になった。
「早く帰って来ないかなぁ、ユージくん……」
緊張がほぐれたせいか睡魔が襲ってきた。
部屋の明かりを消す気力も起きないくらいの倦怠感が体を襲う。
ああ、首が痛い。
首の痛み、明日には治ってると良いけれど。
そして、彼も帰ってくると良いのだけれど。