千切り絵の中の家
ここに住んで、30年になる。
ここ最近、良い事がない。
定年退職してから、夜警の仕事に行く夫の一之。
ダルいとバイトもまともに行かない長男の重幸。
2番目の朋之は、音信不通。
この家を建てた時、押しかけて住み着いた夫の両親は、未だによくわからない。
パートの食品加工会社から帰ると、台所のゴチャゴチャした洗い物を片付けてから、夕飯と夫の弁当を作る。
二つの冷蔵庫が無理やり入ってるので、四人掛けのテーブルとイスで、身動きが取れないが、最近は全員で食卓を囲む事もなくなっていた。
夫の両親は、自分達で支度してご飯を食べているので、その点は楽だ。
重幸の分も夫のように、お弁当にして、ラップをかけ、冷蔵庫に入れておけば、勝手に食べてくれる。
夜勤の夫と顔をあわせるのは、この時間だけだ。
ご飯を食べると、弁当を持って出勤して行く。
後片付けをしていると、珍しく重幸が、顔を出した。
「親父は。」
「お父さんは仕事。
ご飯食べる。」
「うん。」
さっき皿に乗せたので、まだ温かかったが、レンジにかけてから出す。
ジャーのご飯をよそい、電源を切る。
水を出してやると、旨そうに飲んだ。
「オフクロ、俺、就職決まったわ。」
あら、ビックリ。
「そう、漬物出そうか。」
「それだけ。
俺、宅建の資格、受かったんだよ。
で、就職。
もう少し、喜んでよ。」
「そうね。
ビックリしちゃってる。
ほら、アレよアレ。
トラップ、とか、ね。」
「ひでえなあ、まあ、仕方ないか。
最初の会社が合わなくて、回り道してたからな。
親父には、オフクロから、言ってくれ。
なんか、照れるからさ。」
頷きながら、涙があふれた。
涙を抑えて顔を上げると、おばあちゃんが、そこに突っ立っていた。
「おばあちゃん、重幸、就職が決まったんですよ。
今知らされて、ないちゃいました。」
あまり感情豊かな人ではなかったが、その時は本当にゾッとした。
「知っちょる。
お報らせがあったからな。
咲和子さん、お湯。」
あわてて、ガス台にヤカンを載せて、お湯を沸かし、持ってるポットに、入れて渡した。
「重幸。
良い事の前触れがあったからな。
良かった良かった。」
お湯を受け取ると、おばあちゃんは部屋にとって返って行ってしまった。
残された私たち二人は、しばらく呆然としていた。
「俺、今はじめて、言ったんだけど。
なんで。」
ハムを箸で挟んだまま、重幸が、聞いてきた。
「わ、わからないわよ。
おばあちゃんと話したの今日、初めてだし。
お父さんには、後でメールしておきなさいね。
話はおかあさんからするけど、報告はしておいてね。」
嬉しそうに重幸が、うなずいてくれた。
それからしばらく、忙しかった。
変に機嫌の良いおじいちゃんとおばあちゃんが、就職祝いを奮発してくれて、重幸は新しいスーツで、新天地に飛び込んでいった。
就職先が、隣の県なのは仕方ない。
暇を持て余していた時、掃除と洗濯ぐらいしなさいと、仕込んでおいて良かった。
食事は、今の時代、なんとかなる。
重幸の引越しも終わり、静かな日常が帰ってきた途端、おじいちゃんが庭で転んだ。
85歳でも、頭も足腰もしっかりしていて、世間がいう、介護とかの経験がないまま、今日まできたが、さすがに覚悟した。
腰を打っての入院で、おじいちゃんはみるみる弱り、身内の方を呼んだ方が良いと、お医者さんに、言われた。
朋之の携帯の番号が、生きていて良かったが、あの風船人間は、波に乗って、小笠原諸島の父島にいた。
朋之の到着を待って、おじいちゃんは、ひと月の入院から、旅立って行ったのだった。
葬式が終わる頃、ようやく朋之の生活がわかった。
小さな頃から好奇心の塊だったのだが、それが高じて、小笠原諸島に興味を持ち、父島の観光ホテルで住み込みで働いていたのだ。
船舶免許も取り、観光客相手の仕事をすると、言う。
「知ってる、母さん。
あんな遠い島なのに、東京なんだよね、小笠原ってさ。
その上、若者の人口が、増えてて家族ぐるみで移住して来る人もいるんだよ。」
良い話ばかりしてて、かえって不安になるのは、取り越し苦労なのはわかってはいる。
「でも、台風、凄いんじゃない。」
その時、おばあちゃんが割って入ってきた。
「そんなもん、ここにだって、台風は来るじゃないか。
良い報らせがある内に、したい事をすれば、良い良い。」
「ありがとう、ばあちゃん。」
「そうですね。」
と、しか、言いようがなかった。
重幸も、怪訝な顔をしている。
なんなんだろう、おばあちゃんの良い報らせって。
その後、何回か聞いてみたが、良い良いと、いうだけだった。
小笠原に帰った朋之は、したい仕事をしてるらしい。
小笠原諸島の美しい景色と短い文で、知らせてくれるので、かえって前より身近な気がする。
重幸は、不動産管理の仕事をしていて、全国を飛び回っていて、今度はこっちが、音信不通になっていたが、それでも新盆には、顔を見せてくれた。
その頃、町内に小さな事件が頻発していたが、パートに出ていたし、夫は夜勤の仕事だったし、私達夫婦は、何も知らなかった。
朝、パートの為玄関を出ると、おばあちゃんがいた。
「お早うございます。」
「おや、咲和子さん、行ってらっしゃい。」
ほうきとちりとりを持っている。
夕べ風が強かったから、前庭のゴミでも、気になったのだろうか。
時間がないので、そのまま出勤した。
帰宅した時には、もう忘れていた。
おじいちゃんが、亡くなっても、おばあちゃんは、自分の事をしていた。
せめて夕飯ぐらいは、一緒に食事しましょうと、水を向けても、ひとりじゃないから、心配いらないと、仏壇の前のちゃぶ台で、頑なに、ご飯を食べているのだ。
無理強いも出来ず、お茶なんかに誘うと、忙しいと断られる始末。
夫は、昼前に帰ってくるが、パンなんかを食べて、すぐに寝てしまう。
おじいちゃんが生きていた頃は気にならなかったが、おばあちゃんは、昼間ひとりで何をしているのだろう。
おじいちゃんの三回忌がやって来た。
久しぶりに帰っていた、重幸に相談したが、別段変わったようには見えないから、様子を見たらと、言われた。
「でもさ。
あの日、就職の報告をした日、良い報らせって言って、なんかニヤニヤしてたよね。
あれって、なんなんだろう。
予言とかなんだろうか。」
「夢見が、良かったとかなら、母さんでもあるけど。」
「それそれ。
神様かなんかからの、ご神託とかさ。」
「やめてよ。
そんな話、お父さんから、聞いた事無いわ。」
あの日の事を思い出して、ゾッとした。
そう。
なんだか、背筋が寒くなるのだ。
結局、様子を見ようと、いう事になった。
滅多に近所の人と、立ち話なんかはしないが、その日の午後、買い物帰りに呼び止められた。
「大変だったわね。
おばあちゃん、大丈夫だった。」
隣の奥さんが、アッと口を押さえた。
「なんの事、何かあったの。」
「てっきり、知ってて早いのかと。」
下を向いてゴニョゴニョしている。
「工場の点検で、いつもより早上がりになっただけなのよ。
何があったの。」
仕方ないという顔で、隣の奥さんが話し出した。
「もう何年も前から、はす向かいの杉田さんの奥さんと御宅のおばあちゃん、喧嘩してるのよ。
確か、おじいちゃんが入院した頃からじゃないかしら。」
そんな話、初めて聞く。
「なんでも、杉田さんちの不幸を笑ったとか、注意したとかで、こじれたのよ。
で、長患いしていた杉田さんの奥さんのお母さんが、とうとう施設に入っちゃって。
悪い事に、旦那さんの会社が、なんとかってのに引っかかって、危ないらしいって。
で、喧嘩が又始まっちゃって、今朝の九時過ぎに、御宅の玄関でもめてるとこを、通報されちゃったのよ。」
ええ〜っ。
警察ざた。
あんぐり口が開いた。
「大丈夫よ。
その頃には治って、お巡りさん、何事もなく帰って行ったわ。」
「でもでも、喧嘩、玄関で。
もう何年ももめてる。
知らないかったわ、まるっきり。」
隣の奥さん、バツが悪そうだった。
「なんなの、いったい。」
「私も良く知らないんだけど、杉田さんちから、子供が出て行ったって、いう声は聞こえたわ。
杉田さんは、そんなものいないって、怒鳴ってたけど、おばあちゃんは、オカッパだって言って、引きさがらなかったのよ。
まあ本人に、聞かなくちゃ、わからないわよ、この喧嘩。」
「ありがとう。
聞いてみます。
何かわかったら、又教えてね。」
鍵を開けるのももどかしく、おばあちゃんの部屋に駆け込んだ。
おばあちゃんは、いつものちゃぶ台にお茶を2つ乗せて、のんびりテレビを見ている。
「騒々しいね。
テレビが聞こえないよ、咲和子さん。」
無事なので、その場にヘナヘナと座り込んでしまった。
足音の大きさに、夫が起きてきた。
そうか、あの時間帯、夫はまだ帰ってきてない時間だから、家に居たのは、おばあちゃんだけだったのだ。
「どうした。
上まで響いたぞ。」
落ち着かないまま、口火を切った。
杉田さんの奥さんが怒鳴り込んできたのは、本当だった。
夫も訳がわからないから、かいつまんで話した。
「なんで、喧嘩になってるの、教えて。」
おばあちゃんは、どこ吹く風という顔をしている。
「本当の事を言っただけだろう。
あそこンチは、駄目だ。
福に見放された。
そう、教えてやったのに。
逆恨みだよ。」
「ばあさん、それじゃあ、ただの悪口じゃないのかい。
病気の年寄り抱えた家に。」
「見たまんま言うただけだ。
嘘なぞついとらん。
せっかく教えたのに、なんもせんからだ。」
これまた、乱暴で男口調で、こんなおばあちゃん、見た事ない。
「出て行った家は没落する、なあ。
こんな可愛い子が愛想をつかすからには、運も尽きるというモンだ。」
横を向いて頷いて、ニコニコしている。
怖い。
ゾッとする。
何かを見てるみたいだ。
いや、そこに居るみたいだ。
「お騒がせいました。
お父さん、チョッと。」
怒りを何処にぶつけてよいかわからない夫の手を引いて、部屋から出た。
どのみち今夜、夫は仕事を休むわけにもいかない。
いつものように、晩御飯とお弁当を作る。
一緒に食べながら、隣の奥さんから聞いた話を詳しくし、重幸と朋之に言った、おばあちゃんの良い良いの話もした。
「工場は、ラインが半分しか動いてないから、明日休暇、もらうわ。
杉田さんの奥さんに謝って、話を聞きましょうよ。
おばあちゃん、何を見たのか、わからないけど。」
心当たりはあったが、確信はなかった。
茶碗と箸を持ったまま、夫の一之が頷く。
「何か、買ってきます。
手ぶらじゃ伺えないでしょう。
おばあちゃんが悪くなくても、玄関まで来られて、警察ざたなんて。」
アッと、思い出した。
「出勤前、玄関の外におばあちゃんが、ほうき持っていた事があったの思いだしたわ。」
夫が首を振る。
「わからん。
食欲もない。
行くだけ行って来るから、ばあさんを頼む。」
「はい。」
ほとんど手の付いてない夕食の場から、立ち上がり、押し付けられた弁当を渋々持って、仕事に行った。
私は思い切って工場長に電話をして、休みを取った。
今は人手が余っているから、すんなり休みがもらえた。
台所を片付けて、おばあちゃんの様子を見に行くと、座椅子に座ったまま、居眠りをしている。
夫の仕事の関係で、我が家の夕飯は早い。
1時間も遅れてから、おばあちゃんは、夕飯を作り食べる。
今もおじいちゃんの分まで作り、仏壇に話しかけながら、食べている。
長い夜が、明けた。
夫が帰宅する前に、菓子折りを用意した。
帰宅した夫は、シャワーを浴びたら、杉田さんちに行くという。
「眠くない、大丈夫。」
「どうせ寝られん。」
支度が整ったのは、昼前だった。
はす向かいの杉田さんの奥さんが出てきた。
なんと、座敷童でもめていたのだ。
おばあちゃんは、杉田さんちから、座敷童が、出て行ったのを見たと言うのだ。
「いや、わたくしの故郷には、座敷童の言い伝えなんかありません。」
夫もまさか、座敷童なんて初耳だった。
「それは、こちらは存じ上げませんが、座敷童が出て行った家なんて、言いふらされちゃ、怒鳴りに行きたくもなります。
大人気なかったのは、こちらも悪かったですが、こんな事が続くようなら、町内会長さんに間に入ってもらおうかと、考えていたところなんです。」
警察ざたの後、町内会長なんて。
事態がわかったので、おばあちゃんに注意しますと、頭を下げてきた。
夫は怒りで真っ赤だ。
杉田さんの奥さんも、これ以上の騒ぎは不本意ですと、頭を下げてくれた。
家に帰ると、怒鳴り込みそうな夫を止めた。
「私が話します。
あなたは、聞いていて下さい。
怒鳴っても、言い返されたら、歳を取っても、あなたの親なんですから。」
頷く夫と、共に、おばあちゃんの部屋に入った。
「おばあちゃん、その子、座敷童でしょう。」
おばあちゃんが、こちらを振り向き、ニヤッとした。
「杉田さんちが嫌になってきたのさ、ねぇ。」
おじいちゃんが座っていた座椅子に話しかけている。
「出て来るところを見たんですか。
杉田さんの家から。」
「いや、ちがう。
あそこンちに、この子がいたんじゃわい。
それが、ある日見えなくなった。
おぼえてるか。
重幸ちゃんが就職した日、来たのさ。
じいさんも、見えてた。
じいさんは、長患いせずにポックリ逝きたいと、この子に言った。
私は、孫の就職を、って、頼んだ。
霊験あらたかだったろうが。
座敷童様々じゃわい。」
おばあちゃんは鼻高々だ。
「おばあちゃん、座敷童の出て行った家の話をすると、今いる座敷童の機嫌が損なわれて、出て行ってしまうそうですよ。
おごる平家は久しからず、です。
源氏から出て行った座敷童の話をしたばかりに、平家からも座敷童が、出て行ったから、あんなに栄えたのに、一族もろとも滅びそうです。
おじいちゃんは、亡くなったから、願いが叶ったようですけど、重幸と朋之は、就職先に何かがあったら、どうします。
必要以上の福を願って、その子が、嫌になって出て行って、不幸が舞い降りてきたら、どうします。」
おばあちゃんの顔色がみるみる変わった。
「さあ、頼みましょう。
この家は、栄えてます。
どうぞ他の不幸な家庭を、助けに行ってあげてください。」
おじいちゃんの座椅子に、深々と頭を下げた。
夫も真似して、頭を下げたので、おばあちゃんもこれ以上の福は入りません、と、頭を下げたのだった。
おばあちゃんの座敷童は、消えた。
もちろん、病院に行って、薬をもらったからだ。
「そんな、病気があるんだな。」
潮風に吹かれながら、甲板で夫と二人、小笠原諸島への船の上にいた。
おばあちゃんは、介護保険で、施設にショートステイに行くように、なっていた。
思い切って、二人で休暇を取り、朋之に会いに行くのだ。
「あの日、調べたのよ。
見も知らぬ子供や人が、見えたりする病気があるって、わかったの。
加齢のせいで、脳が幻覚を、見せてるんだけど、本当に見覚えのない子供だったりして、それが、座敷童伝説を、生んだんじゃないかって、書いてあったわ。
霊とかも、これじゃないか、って人もいたわ。
顔は知らないけど、服とか格好は知ってるから、惑わされるそうよ。
たまたま、杉田さんちの中に最初の子供が見えて、次が自宅だったのね。」
「じいさんは話を合わせたのかな。
迷惑な話だ。」
「良い事だけなら、良かったのよ。
でも、わからないものね。
一緒に暮らしていても、そんな物を見ていたなんて。」
「じいさんが、見えたと言わなけりゃ、ばあさんもあそこまで、暴走しなかったかもしれないけど、みんなの福を祈ってくれていたから、怒れないしな。」
「そうよ。
ああいった病は、自分の中で閉じ込めていて、外に出さない人もいるから、怖いのよ。
治療すれば改善するのに、自分がおかしくなったって、思う人もいるんですって。
それぐらい、リアルなのよ、幻覚が。」
一之がにっこり笑う。
「平家の話は、良かったよ。
本当に聞こえたからね。」
「苦肉の策よ。
あれ以上、杉田さんに迷惑かけられないでしょう。」
海の色が明るく深くなった。
南国の色だ。
もう直ぐ朋之に会える。
彼女も紹介してもらう予定だ。
おばあちゃんは、最近施設で、塗り絵や書道や折り紙をしている。
中でも千切り絵が上手で、自宅の部屋にも飾ってるほどだ。
千切り絵の景色の中に、小さな家があって、その窓から、小さな女の子がのぞいている。
オカッパで、ピンクのリボンをしているが、おばあちゃんの若い頃は、三つ編みが流行っていて、オカッパ頭の女の子の思い出は無いと言っていた。
それでも、千切り絵の家の中には、オカッパ頭の女の子が、微笑んでいのだった。
今は、ここまで。