鳥籠
あれはまだ私が旅をしながら絵を描いていた頃の話だ。
ある街で私は彼とであった。偶然同じ宿に泊まっていて、そこで夕食が相席になったのがきっかけだった。彼はとても気立てが良く好感が持てた。
彼には連れに女の子がいた。彼と同じくらいか、少し年下の愛らしい少女であった。彼は前よりも稼ぎのある職を探しにきたのだと言った。
「彼女にもっといい暮らしをさせてあげたいのです」
それが理由らしい。
幸運な事に彼は条件に合う仕事を見つけ、アパートの部屋も借りることが出来た。
それからも私は彼らと一緒に食事をしたり散歩へと出掛け、打ち解けた仲になった。
そんなある日のこと。街は祭りで賑わっていた。祭りのため仕事が休みになった彼と少女に誘われて、私も外へと繰り出した。
* *
広場の中央で音楽に合わせてペアになった男女がくるくると踊り回る。そんな景色を見ながら私と彼は酒を飲み交わしていた。彼の連れの女の子は踊りの輪の中に加わって楽しそうに笑っていた。
曲が終わると踊っていた男女はお辞儀をして別れた。そしてすぐに次の曲が始まり、一人となった男女がまた新しい相手を探してペアをつくっていった。
少女は曲が終わったところでこちらに帰ってこようとしていた。そこへ後ろから若い男が呼び止めた。ずいぶんと身なりがいい男で、従者を一人連れていた。彼女はその若者の手に手を添えて輪の中へと踵を返した。
私は踊るその二人を見て、何やら胸騒ぎがした。そっと隣の彼に目をやると、彼はただ真っ直ぐに二人の姿を瞳に映しているだけだった。
* *
祭りの日から五日が経った。逸るようなものも見つけられず私は何もキャンバスに描かないまま、明日には街を出ることにした。日が暮れてから、別れの挨拶をしようと彼の家へと向かった。
家の中に迎い入れられると、私が持参した手土産と彼が用意してくれた少しばかりのつまみとで最後の酒を酌んだ。静かな夜だった。けれども、少女だけはそわそわと窓の外を何度も確認していた。
ノック音で彼女は、はっと玄関のドアに顔を向けた。ゆっくり、そろそろと彼女はドアを開けた。そこには小柄な男がいた。どこか見覚えがあった。いつかの祭りで見た若者の従者であったことを思案して思い出せた。
「主人がおまちでございます」
その言葉を聞いて彼女は胸の前で手を握り締め、おたおたと従者と彼とを見比べた。
「行っておいで。楽しんでおいで」
椅子から腰を上げ彼は彼女のもとへと近づき、彼女の髪を優しく撫でた。
「お召し物はこちらでご用意してございますのでご心配なさらず」
従者が導くと、彼女は申し訳無さそうに、けれどもどこかいそいそとドアの向こうへと消えていった。
祭りのあの時の胸騒ぎがまた私の中で沸き起こった。良いのかと訴えかけるような勢いで、思わず彼の方を見た。そして私がそれを口にする前に、彼はぽつりぽつりと語り出した。
「公爵家のご子息からパーティーの招待状を頂いたそうで。あの祭りの日以来よく会っているようですが、なにぶん僕は働いているので昼間の事はよくわかりません」
「こんなこと言うのもなんだが……その……」
私がなかなか言い出せずに口籠っていると、彼は小さく笑った。
「わかっています」
「なら、何故」
「僕たちは駆け落ち者なんです。彼女は貴族の一人娘、僕はそこで働いていたただの下男。最初は田舎へと逃げました。ですが、彼女はとても甘やかされて育てられたので、家事も仕事も出来なくて自信を失ってしまい、そのうえ元のような贅沢な暮らしも出来ない」
わかるでしょう? と彼は問うような視線を私に送った。
「だが、それでも君達には愛があるはずだ。少なくとも君はそうだろう」
「ええ、愛しています。――けれども、あの二人にも愛はあります。彼女の運命の相手は僕ではなかった。踊り、見つめ合っていたあの二人が恋に落ちた事は、傍から見ていてもわかる程です。当人たちも驚いた顔をしていましたね」
「あの二人の出会いは運命だったと? ならば君は、――君はどうなんだ」
「もちろん僕にとっては彼女が運命の相手です。そして、彼女の運命の相手は彼だった。ただ、それだけの話です。ですが彼女が彼に会うまで僕を好きでいてくれた事は、嘘ではないのです」
「浮気心ではないのかい」
「いいえ。嘘ではないが、真でもない、恋心です。彼女は本当に、大事に大事に育てられ、それはもう鳥籠の中で暮らしているかのようでした。僕は思うのです、籠の中の彼女の出会いは限られたもので、その限られた中から僕が選ばれたのだと」
「では、皮肉なものじゃないか。君たちは結ばれるために外へと逃げ出したというのに、そのために彼女は君ではない運命の人に出会ってしまったなんて」
「悲しくないと言ったら、素直ではありませんが。僕は彼女に幸せになって欲しいのです。僕は彼女を、愛していますから」
* *
目が覚めて、私は少し肌寒さを感じたので毛布を引き寄せた。昨晩、酒瓶が空になるまで飲み続けてうっかり彼の家で眠りこけてしまったのだ。
見ると、彼は既に起きていて湯気を立てたカップを手に、窓の外を眺めていた。
すると激しく玄関のドアが叩かれた。彼が開けると、少女と身なりのいい若者とその後ろに従者も控えていた。
「お父様の、お父様の追っ手が……」
開口一番に少女が切羽詰りながら言うと、彼は一瞬間身体を強張らせた。
若者は小さく震える少女の肩を抱きしめて励ましていた。
数秒間、彼は瞑目した後に呟いた。
「自首します」
その言葉に少女は顔を歪めて隣にいる若者の服を握り締めた。
「嫌よ、そんな……。どんなに叱られてしまうか」
私は呆れた。彼女は過保護な親のおかげで叱られるだけで済んでしまうかもしれないが、ただの下男であった彼が、しかも貴族の令嬢と駆け落ちしたとなるとそうはいかない。へたすると死刑に処される場合もあるのだ。
「自首するのは、僕だけです。僕があなたを誘拐して連れまわし、隙を見つけてあなたは逃れ、そして……運良く保護されたのです」
彼は若者に顔を向けた。
「――そう、口裏を合わせてくださいませんか?」
「ああ、約束しよう。彼女は私が必ず守る」
若者はしっかりと頷いた。
「駄目よ、逃げましょう」
「その必要はないよ。僕達は終わってしまったんだ」
「そんなことないわ。だって、私はあなたを……、あなたを……」
その先を口に出来ない彼女に、私は酷く怒りが沸いた。いっそ怒鳴りつけてしまおうかとさえ思った。
しかし彼が、優しく微笑みながら彼女を擁したものだから、それも叶わなかった。
「うん。……うん。ありがとう。幸せにおなり。公爵家の方とのご縁談に、旦那様だけでなく、いったい誰が反対などしようか」
彼はそっと彼女の背を押して促した。
「さ、もうお行きなさい」
彼女はドアの外へと一歩出て、振り返り、ついには涙を零した。
「ごめんなさい……」
泣いてくれなければ、謝ってくれなければよかったのに。いっそ彼を利用した悪女であったのなら、彼も遣る瀬無い思いに苛まれる事も無かったろうに。
最後に出て行こうとした若者が、彼に握手を求めた。だが彼は若者の手を見つめただけで、頭を下げて応えたのだった。
彼の最後の抵抗だったのかもしれない。運命というものに対する。
* *
家の中は再び二人きりとなった。
私は我慢できずに言った。
「お逃げなさい。捕まれば、ただでは済みますまい。君ばかりがこの様な目に合うのを私は黙って見ていられない」
「ありがとうございます。ですがそれはできません。自分なりのケジメをつけなければいけませんし、物事ははっきりさせておかないと要らぬ噂が立ってしまうかもしれませんので。恋敵の僕を殺して奪った、とか」
「君が、そこまでする必要はあるのか」
私は半ば唖然としながらも語気強く聞いた。
「はい。あります」
きっぱりと、答えは返ってきた。
そして彼は私に横顔を見せて言った。
「すみませんが、呼んできてはもらえませんか? そうすれば、あなたもいくらかもらえるはずです」
「それで、私が喜ぶとでも?」
「旅立つあなたへせめてもの餞別《せんべつ》です。とても無礼ですが許してください。手持ちもそれほど無いので。旅費の足しにでもしてください」
「そんな事はどうでもいいのだ。わたしに君を裏切らせないでくれ」
「いいえ、決して裏切りなどではありません。友情です。捕らえられてしまうのなら、あなたによってでありたいのです。それでどうして未練など残りましょうか。酷な頼みとはわかっていますが、最期だと思って聞いてやってください」
* *
後ろ手に縛られ、二人の男に脇を挟まれながら去って行く彼の背中に、待ってくれと私は呼び止めた。彼は立ち止まって顔だけをこちらに寄越した。
「最後にもう一つだけ、教えてくれ。君がここまでする必要がある、その理由を」
「とても単純な事ですよ。彼女の幸せを想い願っている、僕のそれを叶えるためです」
そのような答えが返ってくるのではないかと心のどこかで予測していたのに、実際にそう答えられると私は何故だか落胆を感じた。
「――僕は、彼女だけでいいのです。彼女を好きなままでいたいのです」
言って彼はまた歩き出した。
彼もあの少女と同様に、鳥籠にいたのではないだろうか。彼の出会いもまた限定的なもので、同じ籠の中にいた彼女を運命の相手と信じ込んでいた。本当はもっと違う場所に、外に、彼の運命の相手がいたのかもしれない。――そんな思いを私は拭い切れなかった。
だが、もし彼にこんな事を言ったとしても、彼の最後の言葉で一蹴されてしまうに違いない。
その後彼がどうなったのかは知らない。けれど、彼によって得た硬貨を、私は今も引き出しにしまって使わずにおいてある。