8
ブライトンを訪れてひと月。
ローズは悩んでいた。
そろそろエスクームへ帰るべきなのに、未だに言い出せないでいる。
ルーも固形食を食べられるようになり、引き止めるものは何もないのだ。
自分の意思の弱さに辟易して、ローズの口からため息が洩れた。
「どうかしたの?」
心配したキャロルに問いかけられて、ローズは慌てた。
「いえ、あの……」
「何か悩み事? わたしには言えないようなことなの?」
「いいえ。あの、キャロルは……本当にいいのかなって」
「何が?」
「わたしと一緒にいて、みんなから悪く言われたりしていない?」
この際だからと、ローズはずっと気になっていたことを訊いた。
ブライトンの貴婦人達に好かれているとは言い難い自分と仲良くすることで、キャロルに迷惑がかかったりしていないだろうか。
その疑問に、キャロルはふんっと鼻で笑って答えた。
「大丈夫よ。前にも言ったけど、あの人達はただローズを妬んでいるだけなんだから。ローズがお妃様になったら、みんなころっと態度を変えるわよ」
強気なキャロルの言葉にローズは曖昧に微笑むことしかできなかった。
自分が帰国したあとのことが心配なのだ。
キャロルには嫌な思いをしてもらいたくない。
それでも、彼女の話の中に時折友人らしき人達の名前が上がるので、安堵もしていた。
「それで、ちょっと聞いたんだけど、陛下と明日遠乗りにいらっしゃるって本当?」
「え?……ええ」
突然変わった話題に、ローズは戸惑いながらも頷いた。
案内したい場所があると、昨日ルバートに誘われたのだ。
明日こそはちゃんと話そうと決意していたローズはとても怖かった。
そのくせ浮かれてもいる。
「ねえ、わたしも一緒に行ってもいいかしら?」
「え?」
思わぬ言葉にローズは耳を疑った。
だが、キャロルはにっこり笑って返事を待っている。
さすがに自分の一存で決めるわけにもいかず答えに困っていると、背後でちょっとした歓声が上がった。
二人が振り向くと、エリオットが夫人達に囲まれていた。
キャロルは顔を輝かせ、エリオットに駆け寄る。
ころころ変わる展開についていけずローズが唖然としているうちに、キャロルがエリオットを連れて戻って来た。
「へえ……それでは、私も一緒に行こうかな」
「本当に!? 侯爵様がいらして下さるなら、わたしも気まずい思いをしなくてすみます!」
楽しそうに会話をする二人の後ろでは残された夫人達が苦々しげにこちらを見ている。
キャロルは嬉しそうに声を上げると、ローズに向き直った。
「良かったわ、ローズ。侯爵様も明日一緒に行って下さるって。これでわたしもお邪魔になるんじゃないかって心配せずに、あなたに付き合えるわ」
「え?……あっ」
一瞬、何のことかわからずきょとんとしたローズだったが、すぐに明日の遠乗りのことだと理解した。
とはいえ、返す言葉がみつからない。
その間に話題は流れ、四人での遠乗りは決定事項になってしまっていた。
* * *
「あの、今日は……」
「天気が良くて幸いだった。おそらく、明日からは荒れるだろうから」
「そうなのですか?」
王宮から馬をゆっくり走らせて一時間弱。
見晴らしのいい丘へとやって来た四人は馬から下り、しばらく眺めを楽しんでいた。
それから、まだ疲れがとれないと言うキャロルをエリオットと残し、二人は周辺の散策に出かけたのだ。
もちろん護衛はいるが声の届かない位置にいる。
ようやく二人きりになれたローズは今日のお礼を言うべきか、謝罪をするべきかでためらった。
だがルバートは和やかに天気の話を始め、ローズも興味を引かれた。
「この時期は西から流れてきた雲が、あのカントス山脈にぶつかり雨を降らせる。おかげでブライトンの土地は潤い、暑い夏の間も川は枯れることがない。だが今日は……」
言いながらルバートは西の空を指した。
ローズもそちらを仰ぎ見る。
「雲が厚く流れが速い。この時期に何度か起こる嵐の前触れだ。対応を間違えれば、甚大な被害を受けることもあるが、我々にはもう対処しうる経験と力がある」
自信に満ちた説明を聞いて、ローズは故郷と比べずにはいられなかった。
思わず言葉が口からついて出る。
「……カントス山脈の東側では、雨はめったに降らず、大地は枯れ、人々は飢えに喘いでいます。それでもヤギを飼い、わずかながらの作物を育て、細々と暮らしていました。ですが、近くにあった鉱山の採掘量が減ってからは無法者が流れ来て山々を荒らすようになりました。もうずいぶん昔のことです。奪われた人々は、やがて奪うことを覚えてしまいました」
なぜあの過酷な土地に人々は住むのだろう。
ずっと前からローズが疑問に思っていたことだった。
北の城は厳しい土地ではあるが、山岳地方ほどではない。
それでも郷愁の想いにかられている人々の気持ちが、ローズは今ようやく理解できた気がした。
どんなに厳しい土地であっても、自分が生まれ育った場所なのだ。
その地を捨てなければならないのは、どれほどに苦しく悲しいことだろう。
カントス山脈の向こう、南東に広がるであろうエスクームを想って、ローズは切なくなった。
やはりルバートには全てを打ち明けよう。
その上で、改めて援助をお願いしてみようと決意して、ローズはルバートの端正な顔をまっすぐに見つめた。
「陛下、実は折り入って――」
「まあ! なんて素敵な眺めかしら!」
せっかくの勇気をかき消してしまう陽気な声。
そして現れたキャロルと、申し訳なさそうな表情のエリオット。
昨日はっきり断らなかったローズが悪いのだが、どうしても苛立ってしまう。
そんなローズの心中などおかまいなしに、キャロルははしゃいだ声で続けた。
「あそこに見えるのがカントス山脈ね! ということは、東側があなたの国のエスクームよね?」
「……ええ」
「そして西側がモンテルオ王国。レイチェル様の嫁がれた国だわ。ねえ、ローズ、知ってる? 五年前にエスクームの野蛮な山岳部族がモンテルオに攻め込んだ時、レイチェル様が大活躍なされたんですって! しかも、動物達までもが味方したって。そんなお伽噺がモンテルオでは流行っているのよ!」
ルバートとエリオットが止める間もなくつらつらと語ったキャロルの言葉に、ローズは青ざめた。
「キャロル殿――」
エリオットが無機質な笑みを顔に張り付けて一歩前へと進み出る。
その時、突風が丘の上を吹き抜けた。
とっさにルバートがローズを抱き寄せ、強風から守る。
「大丈夫か?」
「は、はい」
少し余裕を失くしたようなルバートの厳しい問いかけに、ローズは真っ赤になって答えた。
エリオットに庇われたキャロルは嬉しそうにお礼を言っている。
「急ぎ戻ろう。予想より嵐が早く起こりそうだ」
そこからは皆がてきぱきと動き始め、素早く帰路についた。
途中、皆についていけなくなったキャロルを護衛二人に任せ、王宮へと急ぐ。
その間、ローズは黙って馬を走らせながらも、少し前を行くルバートの背を見つめ続けていた。