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「すごい……なんて綺麗な……」
ローズは目の前に広がる色とりどりのバラに感嘆の声を上げた。
ブライトン王宮自慢のバラ園は今が一番の見頃だ。
だが、この美しい庭園は限られた人間しか入れず、ローズは今、ルバートに案内してもらっていた。
「喜んで頂けたようで良かった。以前、エスクームの王城を訪れた折に、バラ園らしき庭を見かけたので、どうかと思ったのだが……」
「ええ、確かにエスクームにもバラ園はありますが、これほどの規模ではありませんから」
そのバラ園はローズの母のお気に入りの場所で、彼女も幼い頃はよく手入れを手伝っていた。
あの頃の経験もあって、北の城での農作業も苦にならないのかもしれない。
そこまで考え、ローズは自分を叱咤した。
二人きりのこの機会に、国へ帰ると、それでも援助してほしいとお願いしなければならないのだ。
この忙しい時期に、畑も家畜の世話も、もう一カ月以上も任せきりにしているのだから。
「あの、陛下……」
やっと勇気を出して切り出そうとしたローズの耳に、小さな声が届いた。
そのために急に足を止めた彼女をルバートが訝しむ。
「どうかされたのか?」
「いえ、今……」
返事をしながらローズは声が聞こえた方へそっと近づき、茨の茂みを覗いた。
「何かいるのか?」
「それが……」
答えかけたローズは、再び小さな小さな声を耳にして、その場にしゃがみこんだ。
そしてドレスが汚れるのもかまわず、そのまま地に這いつくばって茂みの中に手を伸ばす。
「ローズ殿、私が……」
ルバートが代わろうとした時にはもう、ローズは手を引いていた。
刺で傷ついたローズの右手に少々強引に掴まれているのは、同じく傷ついた子猫。
茶色の毛玉のような子猫は、ローズが片手で掴めるほどにとても小さい。
「すぐに手当てをしないと」
「ええ。それに何か食べ物も必要でしょうか? 体もとても冷えているみたいです」
「いや……ああ、とにかく部屋へ戻ろう」
ルバートは何か言いかけたものの、思い直したのか軽く頷いた。
それから上着をさっと脱ぐと、驚いて目を丸くするローズの手から子猫を抱き取る。
「これに包んで運んだ方が良いだろう。さあ、行こう」
踵を返したルバートにローズも続く。
急ぎながらも歩調を合わせてくれるルバートの気遣いと、何より上着を脱いでまで子猫を庇ってくれる優しさに、ローズの想いは募るばかりだ。
「でも、どうしてこの子はあんな場所にいたのでしょう? 母猫が心配しているかもしれませんよね……」
胸のときめきを誤魔化したくて、ローズは子猫に意識を集中した。
庭園を出てからは、護衛や侍従達が驚きながらも二人の後をついて来ている。
ルバートは腕の中でか細く鳴く子猫を見下ろした。
「どうやらカラスに追われて、母猫とはぐれてしまったらしいな。茂みに逃げ込んだものの、今度は茨に絡まって動けなくなったようだ。まったく、あいつらはからかっただけでも、こいつにとっては死活問題なのに」
「あいつら?」
「カラスだ」
「……動物について詳しいんですね?」
ため息混じりのルバートの言葉は意外で、ローズは微笑んだ。
彼の新しい一面を知ることができたようで嬉しい。
しかし、ルバートは少し困ったように顔をしかめた。
「まあ、ほどほどには」
それきり黙りこんでしまったルバートに、ローズは動揺した。
なぜだか怒らせてしまったようなのだが、理由がわからない。
ひょっとして馴れ馴れし過ぎたのだろうかと落ち込んでいるうちに、客間についてしまった。
「あの……」
部屋へと入り、子猫を受け取ろうとローズが両手を差し出すと、ルバートがその右手にそっと触れた。
そして眉をひそめる。
「まずは消毒しなければならないが、深い傷もあるのでかなり痛むかもしれないな」
「だ、大丈夫です。あの、ありがとうございました。子猫はご迷惑にならないよう、こちらで――」
顔を真っ赤にしたローズがどうにか応えていた時、ノックの音が響き、続いて年配の男性二人が部屋に入って来た。
一人は医師で、もう一人は獣医師らしい。
ローズと子猫が手当てをしてもらう間も、ルバートはずっとそばにいた。
農作業で荒れてしまった手を見られてしまったのも恥ずかしいが、この状況も気まずい。
だが、皆の前では何も言えず、ローズはおとなしくされるがままになっていた。
「陛下、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「迷惑? 何のことだ?」
ようやく手当ても終わり医師達が退室すると、ローズは深く頭を下げた。
しかし、ルバートには上手く伝わらない。
「子猫とわたしの手の傷のことです。ご心配をおかけしてしまい、お忙しいのにこうしてお付き合い頂いて申し訳なく思っております。しかも医師までお呼び頂いて、ありがとうございました」
「いや、私は迷惑だと思うなら、初めから手を出したりはしない。あなたともっと時間を過ごしたいと思っていただけなのだが、逆に気を使わせてしまったようだ」
「いいえ、そのような……」
改めた謝罪とお礼に、ルバートからは信じられない言葉が返ってきて、ローズはうろたえた。
怒らせてしまったと思っていたのに、ルバートはあくまでも優しい。
気の利いたことも言えずローズが焦っていると、メイドが子猫用のエサを持って来た。
「ちょうど離乳の時期で良かった。幸いノミなどもいないようだし、このまま固形のものを食べられるように切り替えていけば、飼うことも可能だがどうだろう?」
懸命にエサを食べようとする子猫を二人で見守りながらのルバートの言葉に、ローズはぱっと顔を輝かせた。
「わたしが飼ってもいいのですか!?」
「ああ」
「ありがとうございます! あ……」
珍しく声を上げたローズに、ルバートは頷いた。
だが、ローズは何かを思い出したように小さくため息を吐く。
「でも、このお部屋で飼うわけにはいきませんね」
「かまわないが?」
「いえ、こんなに素敵なお部屋なのに、傷つけてしまうかもしれませんから」
ルバートは疲れて眠り始めた子猫を指先で軽く突いてから、残念そうに呟くローズに優しい眼差しを向けた。
「気にする必要はない。子猫の柔らかい爪でつく傷くらい、どうってことないだろう。大きくなるまでにちゃんとしつければ良いのだから」
「あの……でも、このお部屋は陛下の妹君が……」
「ああ、あれはそれこそ気にしないだろう。そもそもすでに嫁いだ身だ。とやかく言うわけもない」
「……本当に、この子を飼わせて頂いて良いのでしょうか?」
子猫が大きくなるまでこの国にいることはできない。
それでも、この幸せなひと時の思い出に、許されるならエスクームへ連れて帰りたい。
現実に戻ったローズは縋るような気持ちでルバートを見つめた。
応えて、ルバートは微笑む。
「もちろん。遠慮しないでくれ」
「……ありがとうございます」
その温かな笑みは子猫のためのもの。
わかっているのに、もう止めることができない。
ローズにとって初めての感情。だけど、これが恋だと知っている。
期待はしない。夢も見ない。
それでも、想うだけなら許してほしい。
ローズは浮かれる心を抑えるように胸元をぎゅっと掴み、震える声でどうにかお礼を口にした。