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「さて、私はいつサクリネ王国へ発てばよいのでしょう?」
執務室へと向かうルバートに追いついて、エリオットが楽しげに問いかけた。
ルバートは不機嫌そうに唇を歪める。
「盗み聞きとは悪趣味だな」
「陛下の冗談ほどではありませんよ。昔から本当に不器用ですよね」
従弟であり、五年前の功労者でもあるエリオットは、国王となったルバートに唯一軽口をたたける人物だ。
腐りきった国政を抜本から改革した苦労をともに味わったせいか、ずいぶん気安い仲になっている。
ルバートがこれ見よがしに後悔のため息を吐くと、エリオットがにやりと笑った。
それから話題は移ったが、執務室に入った途端にエリオットは真顔に戻る。
「それで、どうなさるおつもりですか?」
「どうとは?」
「あの王女殿下のことですよ。まさか、このまま正式に婚約なさるおつもりではないでしょう?」
「そのつもりだがな」
「本気ですか? このまま素直に騙されて差し上げるのですか?」
「騙されるも何も、私が望んでいるのはエスクームの王女だ。向こうが王女だと寄こしたのが彼女なのだから、何も問題ないではないか」
淡々としたルバートの返答に、エリオットは呆れた様子で嘆息した。
幼い頃から心を殺して生きてきたルバートは、他人の感情にも自分の感情にも無関心だ。
唯一彼の心を動かした相手でさえ、自ら手放してしまった。
あくまでも王として生きるルバートの不器用さを理解してくれるのならば、村娘が妃になってもかまわないとさえエリオットは思っている。
執務椅子に座った途端に次から次へと指示を出し始めたルバートに応えながら、エリオットはもう一度小さく嘆息した。
* * *
ローズは鏡の前に立って、こぼれそうになるため息を飲み込んだ。
もうすぐローズのために開かれる歓迎晩餐会が始まる。
そのために精いっぱい着飾ってはみたものの、どう見ても自分の姿は冴えない。
頑張ってくれたマリタ達に申し訳ないほどだ。
(もうずっと付き合ってきた顔だもの。今さらよね……)
わかってはいる。わかってはいるのだが、今日エスコートしてくれるのはルバートなのだ。
一昨日に謁見の間で見た華やかな貴婦人達に加わるだけでも気後れするのに、あれほどに美しい男性の隣に立たなければならないのは女としてかなりつらい。
(でももし本当に結婚したら……)
あり得ない想像をして、ローズは身震いした。
昨日、ルバートを初めて目にした時の驚きは忘れられない。
そして今日の昼過ぎ、忙しい彼に代わって王宮内をわずかだが案内してくれたエリオットと見た、レイチェル王女の肖像画には思わず息をのんだ。
女神と崇められていたのも当然だろうと納得するほどに美しい絵姿だったのだ。
とすれば、とても可憐だったという最初の妃は、きっとルバートの隣に並んでも遜色ない女性だったのだろう。
改めて鏡を見たローズは顔をしかめた。
(馬鹿馬鹿しい。何を無駄なことを)
昨日から必死に考えて、もう結論は出したのだ。
しばらく滞在したら、エスクームへ帰ろう、と。
こうして晩餐会まで開いて歓迎してくれているというのに、恩を仇で返すような行為だが、どうしてもローズには受け入れられないのだ。
帰国したら従妹達と話をしようとも思っている。
彼女達が夢を見ているだけでなく、もし王女としての覚悟を持っているのなら、ルバートの許に嫁ぐことを勧めてみるつもりだった。
叔父の怒りは買うだろうが、それでも国のためにと最後には同意してくれるはずだ。
何より、愛らしい従妹ならば、ルバートともお似合いだろう。
まるで自分に言い聞かせるように考えて、ローズはようやく気持ちを落ち着けることができた。
そこに、ルバートが迎えに現れたと告げられ、慌てて居間へと向かう。
「お、お待たせ致しました」
「いいや。こちらこそ、待たせたのでなければよいが」
「大丈夫です」
どうにか笑みらしきものを浮かべて応えたローズに、ルバートも穏やかに微笑み返す。
その笑顔はせっかく落ち着いたはずのローズの心を乱れさせ、脈を速くさせた。
「昨日のドレスもよく似合っていたが、今夜のドレスは一段とよく似合っている。青はあなたを引き立てる色だな。とても美しい」
「……ありがとうございます」
お世辞だとわかりすぎるほどわかっているのに、息が止まりそうなほど嬉しい言葉。
ローズは真っ赤になった顔を伏せ、もごもごとお礼を口にした。
それから会場まではずっと、昔に憧れていた可愛らしいお姫様になれたようで、夢を見ている気分だった。
だが夢は必ず醒めるものだ。
「まあ。なんてやぼったいお姿なのかしら」
「本当にねえ。あれほど不釣り合いなお二人もいないわよ」
「そもそも、なぜエスクームの王女様がお妃候補になれたのかしら。あの国はもう何の力もないのに」
中傷めいた会話は、隣に座るルバートとは反対側からローズの耳に届く。
ローズがそちらの方へと顔を向けると、今度はこれみよがしに聞こえるくすくす笑う声。
どこかおかしなところがあるのか気になって、ローズはそっとドレスを見下ろした。
どうしても自信が持てなくて、周囲の視線に人一倍過敏になってしまう。
そんな自分が大嫌いで、戦後は北の城でひっそりと暮らしていたのに。
それが――。
「何かお口に合わないものでも?」
「い、いいえ。その、どうしても緊張してしまって……」
ルバートがかすかに眉を寄せ問いかけたのは、ローズが急に動きを止めたからだ。
頑張って料理と会話を楽しんでいるふりをしていたのだが、あることに気付いてローズは動揺してしまった。
(もし、本当のわたしを知っている人がいたら……?)
会場にはたくさんの人達がいる。
その中には、ローズの正体を知っている人物がいてもおかしくはないのではないか。
今さらながら心配になって会場を見渡したローズは、その気配がないことを確認してほっと胸を撫で下ろした。
人前に出ることは苦手だったので、昔から必要最低限しか公の場には出なかったことが幸いしたのかもしれない。
ブライトンの侵攻が始まった時には西の山岳地帯におり、それからも王城に戻ることはなかったのだから。
ローズはもう忘れられた存在なのだ。
今回のことがなければ北の城から離れることもなかっただろう。
もちろん、身代わり王女の役目を無事に終えた後は、北の城へと戻るつもりだ。
こうして着飾って、おいしい料理を口にするのもあと少しだけ。
そう思うと、ほんの少し名残惜しい気持ちになり、ちらりと隣へ目を向けた。
と、ルバートのまっすぐな視線とぶつかる。
その探るような藍色の瞳に驚いて、ローズはとっさに目を逸らしてしまった。
(どうしよう……今の、すごく失礼よね)
気まずさを誤魔化すようにワインを口へ運び、喉へと流し込む。
それがまずかった。
一息に飲んだせいでワインにむせてしまったのだ。
「大丈夫。落ち着いて、ゆっくりでいいから」
激しくせき込み始めたローズの背を、ルバートが優しく叩く。
だが、その温かい言葉もなぐさめにならないほど、周囲からの視線は冷たい。
息苦しさと羞恥で真っ赤になったローズは、逃げ出したくなる衝動を必死に抑えていた。