37
「本当に美しい場所ですね」
「そうだな」
給仕の侍従が姿を消してから、感嘆のため息を洩らして呟いたローズに、ルバートは頷いて応えた。
厚手の敷布を地に敷き、二人はその上に直接座っている。
そこで今は昼食後のお茶を飲んでいるのだ。
離宮でもずいぶん牧歌的に過ごしたが、王宮にほど近い森でこのように過ごせるなど夢のようだった。
「ここは……家族で過ごした思い出の場所だ。母を崇拝していた父は、母の死後、ここを聖域のように崇め、誰にも立ち入らせなかったんだ」
やがて遠い過去を思い出すように目を細めて話し始めたルバートの言葉に、ローズは驚きを隠して静かに耳を傾けた。
ルバートが家族の話をするのはとても珍しい。
しかし、今は知りたいという気持ちよりも、思い出を語るルバートの邪魔をしたくなかった。
「母を亡くしてから父は心を病んだ。レイチェルを閉じ込め、私を遠ざけ、仲の良かった家族の姿は消えてしまった。それでもいつか、父が正気に戻ってくれるのではないかと待ったが……」
ルバートは嫌な記憶を締め出すように固く目を閉じた。
だがすぐに目を開けると、ローズに向けて悲しげに微笑んだ。
「私は王として、この国を守らなければならない。だが、愛は人を弱くする。だから私は愛などという愚かな感情には支配されないと誓った。将来、国を乱さないためには後継者が必要だが、条件で妃を選べば間違うことはないと。そんな傲慢な考えから、あなたにこの婚姻を押し付けてしまった」
「い、いいえ。わたしは自分の意思で選んだのです」
ルバートの決意を聞いて落ち込みかけていたローズは、最後の言葉に慌てて否定した。
それでもルバートは納得した様子もなく、ゆっくりと首を振る。
「私は故国を思うあなたの心を利用したんだ。そして、私の子を身ごもったあなたは苦しみ、衰弱し、危うく命を落としかけてしまった。私はあなたにそれほどの苦痛を課してしまったのだから、触れることを、会うことを、拒まれても仕方ないと思った」
「違います! そうではないんです! わたしは陛下に――ルバートに触れて欲しくて、もっと会いたくて……でも嫌われるのではないかと怖くて……」
敷布に置かれたルバートの手に手を重ね、ローズはありったけの勇気をかき集めて訴えた。
そんなローズの震える手をルバートは逆に握り返し、引き寄せる。
ほっと息を吐くルバートの腕の中で、ローズはうろたえた。
耳に聞こえる速い鼓動の音がどちらのものなのか、それとも両方なのかよくわからない。
だが、その音は不思議と心を落ち着かせてくれた。
「昨夜、あなたから私に会いに来てくれた時には、本当に嬉しかった。だからつい、逃げ出したあなたを捕まえ、私の望むままにしてしまった。それなのにあなたは今もこうして私の喜ぶ言葉をくれる」
そう囁いて、ルバートは抱きしめたローズの髪に、頬にと口づけた。
そして優しいキスは唇に移る。
この地は特別だからと護衛や侍従達を遠ざけてくれていなければ、ローズは恥ずかしさに身を隠してしまっただろう。
それほどにキスは熱く陶然とするものだった。
「わたしは間違っていた。この結婚を取り引きなどにしたばかりに、立派な息子を――ジュリアスを産んでくれたあなたに触れる口実がなくなってしまった。あなたは優しいからきっと求めれば応えてくれただろう。だが、それでは私はあまりにも身勝手が過ぎる。結局、私は自分の出した条件にがんじがらめになってしまったんだ。あれほどエリオットには忠告されていたのに」
やがて唇を離したルバートの後悔に滲んだ言葉が、まだぼんやりしているローズの頭に響いた。
ルバートはずっとローズを求めてくれていたということだろうか。
彼が優しいからでも、条件だからでもなく、彼女自身を求めてくれていたのだろうか。
ローズはどうにか頭をはっきりさせて、どきどきしながら真剣な藍色の瞳を見つめた。
「私は初めからあなたに惹かれていたんだと思う。少なくとも、普段は手厳しい者達が、あなたには好意的な噂ばかりしているのを聞いて、かなり興味を持ったのは事実だ」
ルバートはそう言って視線をそらし、周囲へ目を向けた。
近くに護衛や侍従達の気配はないが、動物達の気配は感じる。
ローズはルバートの告白に胸を熱くしながらも、やはりどうしても気になることを口にした。
「その……噂というのは、いったい誰が?」
誰が噂しているのかなどと尋ねるのはあまり行儀の良いものではない。
だが、どうにも何かが引っかかるのだ。
そんなローズの遠慮がちな問いに、ルバートはしばらく黙りこみ、そして口を開いた。
「私の母には秘密があった。母の一族に古くから伝わる力の秘密が。父はその力を知って、母を女神のように崇拝していたんだ」
「……秘密の力?」
それを自分が訊いてもいいのかためらいはあったが、好奇心には勝てなかった。
ルバートはローズに応えて微笑むと、空を仰いだ。
つられて見上げたローズの視界に、よく晴れた空を悠々と舞う隼の姿が映る。
「私が動物達と意思疎通が図れると言ったとして、あなたは信じるだろうか?」
「え?」
あまりにも突拍子のない言葉に、ローズは驚いてルバートに視線を戻した。
しかし、その表情に冗談を言っている様子は見られない。
ローズはわずかに困惑したものの、今まで不思議に思っていたことの答えがようやくわかった気がした。
離宮での人懐こい動物達を思い出す。
「それが……秘密の力なのですね」
質問ではないローズの言葉に、ルバートははっきりと頷いた。
「ああ、その通りだ。力は一族の者全員に受け継がれるわけではなく、比較的女性に強く現れるようだ。また、生まれながらに力を持った者や、成長してから力を持つ者と様々で決まりもない。私の力は成人を前にして急に強くなった」
「……では、セシリアやエリオットは?」
「二人とも力はあるが、それほどではないようだ。鳥に手紙を託す程度だろう」
「そうなんですね……」
ルバートが打ち明けてくれた大切な秘密をゆっくり受け止めて、心に仕舞っていたローズはそこで気付いた。
ずっと以前に聞いたことがあるモンテルオでの奇跡。そして今回起きた奇跡。
「メドラルデへ手紙を届けてくれた隼は、ルバートの力なのですね?」
「いや、力というほどのものでもない。隼や鳥達に頼んだだけだ。力がなくても伝書用に鳥を従えている者はいるし、狩りをさせる者もいるのだから」
何でもないというようにルバートは答えたが、力を使ってくれたことは確かなのだ。
ローズはその事の重大さに青ざめた。
「ですが、力のことは秘密だったのではないですか? それを、わたしなどのために――」
「ロザーリエ」
動揺するローズをきつい口調で遮り、ルバートは安心させるように微笑んでその手を再び握った。
「あなたは私にとって、とても大切な人だ。そのあなたが助かったのだから、例え世間に知れようともかまわない。それに幸い、誰に知られたわけでもないのだから気にする必要はないんだ」
「……ありがとうございます」
愛ではなくても、ルバートに大切だと思ってもらえている。
それも一族の秘密の力を知られてしまう危険を冒してまで助けてくれたのだ。
それは信じられないほど嬉しくて、込み上げる涙をローズは必死に堪えた。
ここで泣いては情けないと、無理に笑みを浮かべる。
「動物達と意思疎通ができるなんて、とても羨ましいです」
「まあ、便利ではあるな」
「そうですよね。家畜が病気になったりした時は、どこが苦しいのか、どうしてほしいのか、わかればいいのにとよく思いました。でも……」
「でも?」
急に口ごもったローズを訝しんで、ルバートが促す。
せっかく楽しい雰囲気になったのに、うかつな自分の発言を誤魔化すこともできず、ローズは恐る恐る続けた。
「その……捌く時は……できるだけ苦しめないようにしていたのですが……」
曖昧にしか説明できないローズの気持ちを察して、ルバートは励ますように握っていた手に力を入れた。
そして軽く口づけ、涙に潤んだ茶色の瞳を覗きこんだ。
「ロザーリエ、あなたは今までたくさんのつらいことがあっただろう。また楽な逃げ道もあっただろう。それでもあなたはいつも真っ直ぐ人生に向き合い、真剣に生きている。そんなあなたを動物達は応援していたんだ」
温かなルバートの言葉に、ローズは目を丸くした。
その勢いに涙が一粒こぼれ落ちる。
弱くて失敗ばかりだった自分を、動物達が応援してくれていたなんて思いもよらなかった。
買いかぶりではあるが、それでもとても嬉しい。
ルバートはローズの頬を流れる涙を優しく拭って微笑んだ。
「実は、あなたを応援する鳥達だけでなく、ルーにも私はよく叱られるんだ。女心が全然わかっていないと」
「……え?」
「まだ二歳にもならない猫のルーに女心を説かれるのはどうにも複雑だが、実際私は女心がわからないのだから仕方ないな」
ルバートは諦めのため息をついて、驚いたままのローズを見つめた。
柔らかな藍色の瞳にはかすかな不安が滲んでいる。
「私は今までに何度もあなたを傷つけたと思う。そして、この先もきっと傷つけるだろう。だが、私はあなたが好きだ」
突然の告白に、ローズははっと息をのんだ。
しかし、さすがに今のは聞き間違いだろうと耳を疑うローズの頬に、ルバートはそっと手を触れた。
「私はあなたに恋をした。だがその気持ちを認めたくなくて、あなた以上に条件に合う女性がいないからだと誤魔化して求婚したんだ。そのくせ、あなたの前の夫に嫉妬して、あなたにきつく当たったりもした。要するに私は、リチャードを笑えないほどに愚かなんだ」
ルバートはかすかに顔をしかめ、そしてふっと息を吐いた。
その瞳にはもう不安はなく、強い意思が煌めいている。
「私はこのブライトンの王だ。だからこの先も、民のことを、国のことを一番に優先させる。何かあれば、私は迷いなくあなたよりも国を選ぶだろう。それでも、あなたにそばにいてほしい。取り引きだからではない、私が心から望んだ妃として、あなたに私の隣に立ってほしい」
目の前のルバートを見つめながら、先ほどから夢を見ているのだとしかローズには思えなかった。
昨夜からずっと続く夢なのだと。
だが頬に触れる大きな手は温かく現実のようだ。
それに何より、どうあっても王であるルバートの言葉はローズの心に強く響いた。
本当にこれが現実ならば、伝えたいことがある。
ローズは自身の震える手をルバートの手に重ね、ずっと抑えていた気持ちを解いた。
「わたしは……わたしも、ルバートが好きです。すごくすごく、好きです。だからたくさん嫉妬もしました。これからもたくさんすると思います。それでも、そばにいたいです。王として立つルバートの隣で、わたしは王妃として少しでも力になりたいです」
にせもの王女でしかない自分を、ルバートは認めて受け入れてくれた。
それだけでもローズにとっては幸せなことだったのに、心から望んでくれている。
その気持ちに相応しくあれるよう、努力を続けていこう。
もう卑屈にはならない。誰からも認められる本物の王妃になりたい。
ローズの強く揺るぎない心はルバートへ真っ直ぐに届いた。
「ありがとう、ロザーリエ」
ルバートはぐっとローズを抱き寄せると、耳元に口づけるように囁いた。
その声は低くかすれている。
「力のことは今日あなたに伝えるつもりだった。しかし、私の気持ちについては……昨夜、あなたが私との間にある隔たりを越えて来てくれなければ、打ち明けることは出来なかっただろう。そんな意地ばかり強くて臆病な私を許してくれるだろうか?」
「もちろんです!」
続いたルバートの言葉にローズはきっぱりと応えた。
その凛とした声は、森の広場に明るく響き渡る。
すると、それまで静かに見守っていた鳥達が、二人を祝福するように歌い始めた。
それはすぐに大合唱になる。
「ここは見物客が多すぎだな」
ルバートがため息混じりに呟くと、ローズは声を上げて笑った。
心から笑える幸せがここにある。
やがて森の広場は国王一家の憩いの場となり、動物達も一家の訪問をとても喜んだ。
この後、ローズは名君であったルバート王を支え、ブライトンのさらなる発展に貢献した王妃として、民から多くの尊敬を集めた。
また、疲弊していた故国のために尽力し、新たな産業の興隆を助けた王女として、歴代エスクーム王家の誰よりも民に愛され、語り継がれたのだった。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
これにて『にせもの王女の結婚』は完結です。
また、『沈黙の女神』『さよならの選択』と続いたシリーズもこれで完結です。
ここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
もり




