36
「……ルバート」
「うん?」
幸せな眠りの中から夢見心地で呟いた呼びかけ。
夢に見たそのままにルバートの声が聞こえ、ローズははっきりと目を覚ました。
「え? あっ!」
驚いたローズは、ルバートの腕の中で慌てた。
カーテンの隙間から入り込む薄明かりが、朝を迎えていることを伝えている。
信じられない思いでルバートを見れば、ローズの反応を面白がるような笑みを浮かべていた。
「あ、あの――」
「ロザーリエ、まだ朝も早い。大きな声を出せば、皆を起こしてしまう」
囁く声には笑いが滲んでいる。
そしてルバートはローズをぎゅっと抱きしめ、しばらくして大きなため息を吐いた。
「このままでいたいが、それでは侍女達を驚かせてしまうな」
呟きながらルバートは起き上がると、ベッドを出てガウンをはおった。
それから振り向き、真っ赤になってシーツを肩まで引っ張り上げるローズを見て微笑む。
「あとで遠乗りに出掛けないか?」
「え?」
「今日の予定は変更が利くものばかりだろう? 詳しいことはあとで知らせるから、そのつもりでいてくれ」
そう言い残して出ていくルバートを、ローズは呆然として見送った。
やはりこれは夢かもしれない。
ルバートはローズと朝まで一緒に過ごしたばかりか、遠乗りにまで誘ったのだ。
身支度を整えて朝食の席についてからも、ローズはまだ信じられないでいた。
しかしその後、ルバートの侍従が詳しい時間と待ち合わせ場所を伝えてきたことによって、ようやく実感した。
(夢じゃなかったんだわ……)
うきうきした気分で乗馬服に着替え、ジュリアスに行ってきますと告げて、約束の場所へと向かう。
中庭を通り抜け、ローズは目的の場所を目にして、そこではっと足を止めた。
あまりに浮かれ過ぎていて今さら気付くなんて愚かとしが言い様がない。
待ち合わせの場所は、昨日ルバートと伯爵未亡人が一緒にいた東屋だったのだ。
そして、そこには今日も伯爵未亡人が優雅に座っていた。
「ローズ様?」
急に立ち止ったローズを訝しんで、ジェンが声をかける。
ローズは無理に笑みを浮かべ、また歩き始めた。
「何でもないわ」
笑顔を張り付けたまま呟いて東屋へ近づくと、伯爵未亡人はローズに気付いて立ち上がった。
彼女の上品なドレス姿ではとても乗馬は出来ないだろう。
知らずローズは詰めていた息を吐き出し、夫人に向かって頷いてみせた。
「王妃陛下、お初にお目にかかります。私、ルシアナ・テレンズと申します。テレンズ前伯爵の妻であり、現伯爵の母でもあります。息子の家督相続などの問題があり、ずっと領地に戻っておりましたため、ご挨拶が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます」
膝を折って立礼での最敬礼をする彼女を見下ろし、ローズはすっと息を吸い込んだ。
「テレンズ伯爵未亡人、そのような詫びなどは必要ありません。ですから、どうかお顔をお上げになって下さい。さあ」
「恐れ入ります」
また軽く頭を下げてから顔を上げたテレンズ伯爵未亡人の美しさに、ローズは改めて驚かされた。
遠くからでは妖艶な美女に見えたものだが、その美しい碧色の瞳には知性が煌めいている。
ローズの頭の中で、勝手に悪者に仕立て上げていた女性はどこにもいなかった。
「王妃陛下、お目にかかったばかりで恐縮なのですが、どうか私の婚約者を紹介させて下さいませ」
「……婚約者?」
「はい。リチャード・テレンズ卿……亡き夫の弟でございます」
伯爵未亡人の言葉を受けて、影のように立っていた男性が前へと進み出てきた。
そして戸惑うローズに向けて深く頭を下げる。
「リチャード・テレンズと申します。この度は国王陛下に結婚の許可を頂きに参りました。そして幸いなことに、昨日無事に許可を頂けましたので、すぐにでも領地に戻って式を挙げる予定でございます。その前に、こうして王妃陛下にご挨拶することができ、大変嬉しく思っております」
「……そうですか。それはめでたいことですね。どうかお二人が幸せに過ごせるよう、わたしからもお祝いをさせて下さい」
「ありがとうございます」
ローズは激しく混乱しながらも、どうにか言葉を繰り出した。
応えて、二人はまた深く頭を下げる。
そこへ、ルバートが足早に近づいて来た。
「遅くなって、すまない」
ルバートはローズに謝罪して隣に並び立つと、その表情を探った。
伯爵未亡人達を前にしても落ち着いているルバートの様子から、この出会いが偶然ではないとわかる。
昨夜の彼の言葉は本気だったのだ。
「私が遅くなってしまったばかりに、もう紹介の必要はないようだな。では、これで私達は失礼する」
ぐっとローズを抱き寄せてそれだけを告げると、ルバートは東屋から離れた。
今の一幕にどんな意味があったのだろうと疑問に思ったローズは、優しくエスコートしてくれるルバートを見上げた。
「陛下、今のは……」
「あの東屋は人目を忍ぶ場所にあるようで、実は王宮のいくつかの場所からはよく見える。だから彼女とは敢えてあの場所で会っていた。長年の習慣と言うか、昨日もあそこで二人に会ったのだが、そのせいで私の説明を前に、誰かがあなたに余計な不安を吹き込んだようだな」
ちらりと王宮の方へ視線を向け、ルバートは自嘲めいたため息を吐いた。
確かに窓には幾人かの人影が映っている。
「テレンズ伯爵家はサイクス侯爵家に次ぐほどの名門だ。そして広大で豊かな土地を有している。五年前、前伯爵が後継者であるまだ十一歳の息子を残して亡くなった時、彼女は困った立場にいた。そこで彼女は私と愛人関係にあるという話を広めることで、禿鷹どもから息子を守ったんだ。私は私で、煩わしい縁談を退ける口実になった。だが結局……」
そこで馬丁が厩舎から馬を連れ出す姿を目にして、ルバートは言葉を切った。
目の前の厩舎周辺では多くの人が立ち働いている。
その中で出来る会話でもなく、ローズはルバートの言葉の意味を深く追求したい気持ちをぐっと抑えた。
そもそも過去に嫉妬しても仕方ないのだ。
やがて出発した二人はしばらく黙ったまま馬を走らせた。
久しぶりの乗馬にローズは集中する必要があり、周囲には護衛もいる。
それでもローズが勘を取り戻し、護衛達が距離を置くと、ルバートは再び話し始めた。
「リチャードは……ずっと彼女に思いを寄せていたようだ。おそらく、前伯爵が生きていた頃から」
淡々と告げられた内容にローズは驚いた。
ルバートは苦笑を洩らしながらも続ける。
「前伯爵が生きていた頃のリチャードは酷く冷たく意地悪で、彼女を怯えさせていたらしい。そのため、彼女は息子と二人で残された時、周囲の言葉に惑わされ最悪のことを考えたんだ。リチャードは彼女の息子に次ぐ伯爵家の後継者だからな」
「では、ようやくあの方の想いは……届いたのですね」
「ずいぶんな遠回りだったがな。……恋をすれば人は愚かになる。嫉妬は人を狂わせる。難儀なことだ」
「……そうですね」
苦々しげに吐き出されたルバートの言葉に、ローズは泣きそうになるのを堪えて頷いた。
先ほどにこやかに微笑んでいた伯爵未亡人が一瞬だけ見せた表情が頭から離れない。
切望に滲んだ瞳はルバートへと向けられていた。
きっと自分も同じような表情をしてルバートを見ているだろう。
(それでも私はこうしてそばにいられるわ……)
ルバートの子供を産み、共に歩んでいける。
ローズは今ある幸せをかみしめ、隣に並んで馬を走らせるルバートをそっと見つめた。




