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「殿下! もう少しでございます!」
「ジュリアス、頑張って!」
寝転んだジュリアスが懸命に体をひねり、初めての寝返りに挑戦している。
その様子をローズやマリタ、乳母のジーンや侍女達が固唾をのんで見守り、応援していた。
そして見事に成功したジュリアスは満足げに笑い、その姿に拍手喝さいを送っていた女性陣は頬をゆるめた。
みんなすっかり小さな王子の魅力に参っている。
「さあさあ、殿下はそろそろお昼寝のお時間ですよ。ローズ様もご準備なさらないと」
興奮冷めやらぬ中でドリーが手を叩き、皆に時間を思い出させた。
はっとしたマリタ達は慌ててローズの支度に取り掛かる。
ローズはジュリアスを抱いて立ち上がり、頬に軽くキスしてからジーンに預けた。
「では、お願いね」
「はい、かしこまりました」
これからサロンでのお茶会に出席しなければならないローズは、育児室へと戻るジュリアスを見送った。
療養中だった三ヶ月の間はほとんど一緒に過ごせていただけに寂しく感じてしまう。
それでも王妃としての義務を放り出すわけにはいかないのだ。
そんなローズの気持ちを察して、みんな出来る限りジュリアスと過ごせるようにと取り計らってくれていた。
またルバートも忙しい中でどうにか時間を作り、ジュリアスに会いに来る。
夜にはローズと食事をとることも多く、その日あった出来事などをお互い話し、笑い合う。
だが、ローズがベッドから出られるようになってから、ルバートが寝室に訪れることはない。
それでも十分に幸せなのだ。
だからローズはいつもの笑みを浮かべ、洩れそうになるため息を飲み込んだ。
「そういえば、もうすぐサイクス侯爵とジェネルバ医師がお戻りになるそうね?」
「はい、そのようですね。カントス山脈の調査も一旦終了だとか……。北の城でもいくつかの薬草は育っていますけど、やっぱり原生地の方が難なく増やせるでしょうし、早くエスクームの特産になればいいですねえ」
「ええ、そうね」
サロンへと向かいながらマリタと会話して、憂鬱な気分を振り払う。
今回、メドラルデの薬がローズを救ったことで、一般的にはまだ知られていない薬草がエスクームにはたくさんあることがわかったのだ。
それは主にカントス山脈の東側だけに生息しており、ローズ達が北の城に移る時には種苗を持ち出して植え、どうにか北の大地でも育てようとしたほどだ。
しかし、いくつかの薬草はまったく育たず、ローズは叔父に許可をもらってメドラルデと共に山まで採りに行くこともあった。
それを今回、枯渇してきた鉱石の代わりに山脈で薬草を育て増やせば、一つの産業になるのではとのルバートの意見に、ジェネルバは嬉々としてエスクームへの視察に向かったのだった。
ちなみにメドラルデは、ローズが目を覚ますと早々に北の城へと帰り、最近は文句を言いながらも楽しそうにジェネルバの調査に付き合っていたらしい。
やがてサロンに着いたローズは、扉の前で一度呼吸を整えた。
ここからは王妃としてしっかり役目を果たさなければならない。
今日は近々成人する貴族の令嬢達が挨拶に来るのだ。
そこで認められればお披露目の舞踏会を開くことを許される。
とは言っても形式的なもので、さらにここ十数年は王妃不在だったため、このお茶会が復活したのは昨年からだ。
ローズも昨年は令嬢達と同様にかなり緊張していたのだが、今年はずいぶん自信もついている。
胸を張り、皆の待つサロンへと足を踏み入れたローズは、間違いなく王妃としての風格を漂わせていた。
それから始まったお披露目のお茶会は恙なく進んだ。
初々しい令嬢達から挨拶を受け、夫人達ともにこやかに話をしてお茶を楽しむ。
だが次第に疲れを感じたローズは、どうにか一人でバルコニーへと抜け出した。
バルコニーは見晴らしも良く、眼下の中庭を抜けて吹く風が芳しい花の香りを運んでくれる。
ちょっとした休息を得て、ローズは色とりどりに咲く花々を見下ろした。
中庭には多くの低木や草花が所狭しと植えられ、その間に延びる小道が東屋へと続く。
その東屋へ目を向けたローズはそこではっとした。
ルバートといつかの女性が向かい合わせに据えられたベンチに座っていたのだ。
思わず二人の周囲に視線をやり、側近くに侍従や護衛が控えていることにほっと息を吐く。
大丈夫、二人きりではない。
そんな浅ましい考えを嫌悪しながらも、込み上げてくる嫉妬をローズは抑えられなかった。
見なかったことにしよう、気付かなかったことにしよう。
そう自分に言い聞かせ、ゆっくり後じさるローズの背後から弾んだ声が上がる。
「まあ、あちらにいらっしゃるのは陛下と、テレンズ伯爵未亡人じゃないかしら?」
驚いて振り向いたローズに、声の主――キャロルは楽しそうに顔を輝かせて、一歩二歩と近づいた。
そして内緒話をするように声をひそめて続ける。
「きっとどなたもおっしゃらないでしょうから、友達として忠告させて頂きますわ。あのお二人はずっと親しい仲でいらっしゃったのよ。ですが、伯爵未亡人がお妃様になられると色々不都合が生じる方も多く、お二人の仲は認められなかったそうですの。ですから、王子殿下がお生まれになった今、伯爵未亡人がよりを戻そうと陛下にお近づきになっているのかもしれませんわね。どうかお気を付け下さいませ、王妃様」
形ばかりの憂慮を含んだ言葉は、ローズの胸に突き刺さった。
王が愛妾を持つことは珍しくない。
実際、ローズの父にも愛妾は何人もいた。ビスレオにしてもローズだけでないことは知っていた。
妻としては騒ぎ立てず、受け入れるか見過ごすべきなのだ。
だが、頭ではわかっているのに、心が拒絶してしまう。
真っ青になったローズを見て、キャロルは意地悪く目を細めた。
「でも、仕方ないですわよね。女のわたしから見ても、テレンズ伯爵未亡人は魅惑的な方ですもの。嘘偽りのない本物の気品に溢れているわ」
――にせもののあなたと違ってね。
そう続きそうなほど、嫌味なキャロルの言葉を耳にして、ローズは部屋に逃げ帰りたい気持ちをぐっと堪えた。
震える両手をお腹の前で固く握り合わせ、背筋を伸ばす。
「あなたとは以前、いくらか親しかった時もありましたが、今はもう何の付き合いもありません。それなのに、許しも得ずいきなりわたしに話しかけるのは無礼でしょう? 一度ご自分の振る舞いを見直された方がよろしいのではなくて? そうすれば、あなたもいつか本物の気品を身につけられるかもしれませんもの」
まっすぐにキャロルを見据えて放った言葉は、いつの間にか静まり返っていた室内にも響いた。
自分の発した悪意ある言葉が怖くて、心臓がばくばくしている。
それでもローズは王妃として、威厳を保ったまま真っ赤になったキャロルを残し、室内へと戻った。
そこでセシリアと目が合い、よく言ったとばかりの笑顔を向けられ、どうにか笑みを返して夫人達の輪に加わる。
言い過ぎたことはわかっていたが、すっきりしたのも事実だ。
視界の隅にひっそりとサロンを出て行くキャロルの姿が入ったが、ローズは気づかないふりをした。
この先もこのような苦い思いを何度となく味わうことになるだろう。
その度に気付かないふりをしてやり過ごすのだ。
だからローズはお茶会が終わって部屋に戻ってからも、何事もなかったかのように過ごした。
しかし、夜になり寝室に一人になると、途端に虚しさに襲われる。
(本当にこのままでいいの……?)
もちろんいいわけがない。
本当はもっとルバートと触れ合いたい。温かい手を感じたい。そして彼を一人占めしたい。
それが無理なことはわかってはいても、このまま諦めてしまってはきっと後悔する。
一度だけ。一度だけ、勇気を出してみよう。
そう決意したローズはベッドから立ち上がり、二人の寝室を隔てる扉の前に立った。
以前、この扉を開けた時には傷ついた。
でももう一度だけ、当たって砕ければいい。
ローズは震える右手を叱咤して、一枚目の扉を開けた。




