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「ローズ、と言うのだな。あなたの名は」
「――はい」
「では、今から名前で呼ばせて頂いてもよいだろうか?」
「ええ、もちろんです」
「私のことも、ルバートと呼んで頂いてかまわないが?」
「いえ、それは……」
上手い返答がみつからないローズは、誤魔化すために震える指先を叱咤してカップを持ち上げ、口へと運んだ。
偽物の自分がルバートと親しくなってはいけない。
間違っても婚約が成立してしまうようなことがあってはならないのだ。
それなのに、今のこの状況はローズにとって戸惑うばかりだった。
朝食後のひと時をゆっくり過ごしていたローズの許へ、国王からの正式な使者が訪れた時には、謁見の間に呼び出されるものだと思っていた。
だが使者から差し出されたのは、午後のお茶への招待状。
そして、美しい花々が咲く中庭を臨むサロンで、ローズは初めてルバートと対面したのだ。
温かな笑みを浮かべてローズを歓迎してくれたルバートは、残酷で冷淡だという噂とはまるで違うように見える。
それどころか、差し込む日射しに輝く銀色の髪や深い藍色の瞳など、美しいと形容するべき姿は噂以上だった。
その彼と今、サロンで二人きりなのだから緊張しないわけがない。
しかも、ローズは大きな嘘を抱えているのだ。
「先に聞いておくが、あなたには心を寄せている相手がすでにいるのだろうか?」
「え?……い、いいえ。そのような方はおりませんが……?」
唐突な質問はローズを驚かせた。
一瞬、状況も忘れて答えが素直に口から飛び出す。
そんな彼女をルバートはじっと見つめていた。
(やっぱり、年齢を誤魔化していたこと……ばれた?)
居たたまれなくなったローズは、座り心地の良い椅子の上で身じろぎした。
今すぐ逃げ出してしまいたい。
しかし、当然ながらそんなことはできるわけもなく、ローズは景色を楽しむふりをして、視線を窓の外へ移した。
「私は……無理強いはしたくない。あなたの意思を確認した上で、妃にしたいと思っている」
意外な言葉にローズはルバートへと視線を戻した。
その深く思わしげな藍色の瞳に嘘は見えない。
「……陛下はどうなのでしょうか?」
「どうとは?」
「その……陛下も、わたしがお気に召さなければ、このお話はなかったことになるのでしょうか? その場合、わたしは国へ――」
「いや、そのようなことにはならない」
浮かんできた当然の疑問に、ルバートはきっぱりと答えた。
だが、ローズに納得できるわけもない。
「なぜです? それでは陛下のご意思を無視してしまうのでは?」
「私の意思は貴国にこの話を申し込んだ時点で決まっている。それを、やって来た王女が気に入らないなどと言って、あなたの名誉を汚すようなことはしない」
それは気遣いに満ちた言葉に聞こえたが、そこに心はないように思えた。
たとえ今ここにローズではなく従妹の一人が座っていても、ルバートは同じことを言うのだろう。
その関心のなさに、ローズがずっと抱えていた罪悪感が薄らいだ。
従妹達は叔父の言う通り純真で、結婚に夢を見ている。
もし彼女達がここに来ていたら、この美しい国王に恋をして、酷く傷つくことになっていたかもしれない。
そう思うと、従妹達を庇う気持ちが沸き起こりローズは大胆になった。
「陛下はなぜエスクームの王女をお妃にと考えられたのですか? ブライトンには何一つ得るものなどないでしょう?」
本当は好きな人がいるのだとでも適当に告げて、この場から、この国からさっさと出て行くべきだろう。
エスクームに戻ればきっとまた役立たずと言われる。
それでも一時我慢すれば、元通り北の城で平和に暮らせるはずなのだ。
(でもそれは、わたしだけの平和だわ。次の王女を求められたら?)
ルバートの真意を知ってからでなければ、逃げ出すわけにはいかない。
決意に満ちた強い眼差しをルバートへと向けて、ローズは答えを待った。
「……私は、エスクームを支配したいのだ。王女を娶り、刺客を放ってエスクーム王を亡きものとし、その混乱に乗じて若くして王となる義弟の後見となれば実質的な支配が成せるだろう? 後々は大陸全土を配下にすることを目指している。そのために妹をモンテルオへと嫁がせ、援軍を送ったのだから。サクリネ王国には近々サイクス候をやるつもりだ。あそこは新しい妃を迎えても未だ王女しか生まれず、第一王女が初めての女王となるのではと言われているからな」
朗々と語り出したルバートを、ローズは唖然として見た。
しかし、それも一瞬。
ローズは感情を隠さず、不機嫌に眉を寄せた。
「嘘です」
「何が?」
「全てです。陛下はそのようなこと、考えてはおられません」
「……なんだ、ばれたか」
呟いて、ルバートは楽しげに笑った。
その笑顔を目にして、ローズは胸が高鳴ったが、それでもどうにか自分を叱咤して、なおも答えを求めた。
「陛下、誤魔化さないで下さい。わたしは国を、民を裏切れません」
真っ直ぐなローズの言葉に、ルバートは笑みを消した。
そして、探るようにローズの茶色の瞳を覗きこむ。
自分の魅力ない顔のことはよくわかっている。だから、あまり見ないでほしい。
その思いから、ローズは逸らしたくなる顔を必死にルバートへと向けていた。
「では、正直に言おう」
そうルバートが告げた時、ローズはほっとするどころか耳をふさぎたくなった。
本当は夢を見ていたいのに、現実はいつも厳しい。
だけどローズは夢を見る資格さえないのだ。
固く両手を握りしめながらも、ローズは微笑んで頷いた。
「私には後継者が必要だ。しかし、残念ながら先の結婚では、得られなかった。その上、ここ数年は様々なことに忙殺されてそれどころではなく、ようやく落ち着いた今、改めて後継者が必要だと考えるようになったのだ」
ルバートはそこで言葉を切ると、大きく息を吐き出した。
それと同時に、ローズ自身が気付いてもいなかった希望がしぼんでいく。
「エスクームはあの戦から衰退の一途を辿っている。弱き者達は困窮を極め、住み慣れた土地を捨てて他国へ流れ、体を売り、子を売り、良心を売って生きている者も多い。その状況を、私は隣国の王として見過ごすことはできない。――と言えば聞こえは良いが、正直なところ、これ以上貴国の民が我が国に流れて来てもらっては困るのだ。何事にも限りはあるのだから」
ルバートにちらりと視線を向けられたローズは、恥ずかしさのあまり顔を赤くした。
民を裏切れないと言った彼女が身にまとっているドレスは最高級のものだ。
国の威信のためではない、叔父の見栄のためにあつらえられたドレスは客間の衣裳部屋に数多く仕舞われている。
たとえその大半が従妹達のものを仕立て直したドレスなのだとしても、言い訳にはならない。
「私はエスクームの民が土地を捨てないですむよう、故国に戻れるよう支援したいと思っている。だが、これは慈善事業ではない、取り引きだ。王女に私の子を生んでもらう代わりに、エスクームには援助を約束しよう」
自分で答えを望んでいながら、傷つくなんて馬鹿げている。
従妹達相手でも、ルバートはこれほどにはっきりと言ったのだろうかと考え、ローズは自嘲した。
あの愛らしい従妹達を前にして、ここまで言えるはずがない。
きっと自分だからこそ、〝役立たずのロザーリエ″だからこそだろう。
「わたし……」
「今すぐ答えを出す必要はない。私の望みは利己的なものだ。だから、よく考えて欲しい」
言葉を詰まらせたローズに、ルバートはなだめるように告げて席を立った。
「今日はこれで失礼するが、また明日の夜にはお目にかかれるだろう」
足早に立ち去るルバートの背を見送ったローズは、混乱する思考を落ち着かせようと何度か深呼吸を繰り返した。
ここまで聞いてしまっては、もう後戻りできないような気がする。
王女として、民のためを思うなら引き受けるべきなのだろう。
(王女として……)
ローズは込み上げてくる笑いを、慌てて口を押さえてこらえた。
許されるならば、この皮肉に大笑いしただろう。
やはり自分は役立たずだ。
控えていたマリタと客間へ戻りながら、それでもローズは懸命に打開策を考えていた。