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 ローズはハーブティーの入ったカップを置いて、小さく息を吐いた。

 先ほどまで不得手な刺繍をしていたのだが、妊娠中はあまり根を詰めない方が良いと、マリタに取り上げられてしまったのだ。

 食欲もなく、無理に何かを口に入れても戻していた時期は過ぎたものの、まだどことなく気分が悪い。

 安定期に入ってしばらく経つが、あまり部屋から出ることもできず、ローズは時間を持て余していた。


 気分転換に庭を散歩していても誰かしらに声をかけられ引き止められてしまう。

 結局はすぐに疲れて部屋に戻り、横になるのだ。

 少し前にはキャロルにも会った。

 キャロルはしばらく領地に帰っていたのだが、ローズの懐妊を知って祝うために戻って来たらしい。

 だがやはり、にこやかに笑うキャロルに対して、以前のように素直に接することはできなかった。


 ローズは残っていたハーブティーを飲み干して、また小さくため息を吐いた。

 子供を持つことを諦めていたローズにとって、この妊娠は言葉に出来ないほどとても嬉しい。

 だから体の不調は気にならない。ただ本当に赤ちゃんは大丈夫だろうかと心配になってしまう。

 今は栄養など気にせず食べたい物を食べ、ゆっくり休んでいればいいとドリーは言ってくれるのだが、皆にも心配をかけていることを思うと申し訳なかった。

 それでも少しふくらんできたお腹に手を添えると、自然に顔がほころぶ。

 夢ではない。本当にここに赤ちゃんがいるのだ。


(くよくよしていてはダメよね。赤ちゃんのためにもしっかりしないと!)


 明日からは少しずつでも以前のように王妃としての責務を果たそう。

 そう決意しただけで不思議と胃が軽くなる。

 ローズはゆっくりと立ち上がり、マリタ達を呼ぼうとした。

 そこにエムが前室より入って来て、ルバートの訪問を告げた。


「ロザーリエ、突然すまない。体調はどうだろうか?」


 軽く膝を折って挨拶しようとしたローズに真っ直ぐ歩み寄り、ルバートはその両手を握った。

 そのまま答える間を与えずにソファへと導き座らせる。


「……もう、ずいぶん良くなりました。ご心配をおかけして――」

「いや、謝罪は必要ない。あなたが少しでも回復したのなら嬉しい」


 三日ぶりに会えたことが嬉しくて頬を染めたローズが答えると、ルバートは安堵したように微笑んだ。

 その笑顔はあまりにも優しく美しく、ローズの顔はさらに赤くなる。


「ここのところ、二人でゆっくりする時間がずっと取れなかったのは残念だ。だが……ロザーリエ、ノルマハル離宮に行かないか?」

「ノルマハル離宮、ですか?」

「ああ。あそこはここよりもずいぶん暖かい。緑も多く、気分転換になるだろう。もちろんジェネルバとドリーも同行させるつもりだ」

「それは……素敵ですね。ありがとうございます」


 先ほどの決意とは逆に、ゆっくり休むことを提案されて、ローズは拍子抜けしてしまった。

 それと同時に、王妃として――妻としては必要とされていないのだろうかとつい考えてしまう。

 もちろんルバートの子を身ごもっている今、一番重要なのは体調管理だとわかっている。

 それなのに、また胸のあたりがもやもやとしてくるのだ。

 ルバートはローズのために少しでも気分良く過ごせるよう取り計らってくれ、こうしてわざわざ時間を作って会いに来てくれているというのに。

 ローズは我が儘な考えを振り払い、感謝の気持ちを込めて笑みを浮かべた。


「では、わたしは今すぐにでも荷造りを始めた方がよろしいのでしょうか?」


 珍しく冗談めかした言葉を口にしたローズに、ルバートも応えて楽しそうに笑った。


「いや。出発は少し待ってもらわなければならないから、荷造りは後でもかまわないだろう。私の留守はエリオットに頼んだが、出かける前にまだやらなければならないことがいくつかある」


 その言葉にローズは驚いた。

 動揺のあまり、何も飾らないままの言葉が口から飛び出す。


「陛下もいらっしゃるのですか?」

「そのつもりだが……私が一緒でない方が良いのだろうか?」

「いいえ!」


 真顔に戻ったルバートの問いかけを、ローズは慌てて否定した。

 あまりの勢いに、ルバートがかすかに目を見開く。

 自分でもその激しさを恥ずかしく思いながら、それでも絶対にわかってもらわなければと、ローズは続けた。


「陛下とご一緒できるのならとても、とても嬉しいです。ただ、その、陛下はいつもお忙しくしていらっしゃるようなので、てっきり……」


 秋の収穫から冬への備えをしなければならない時期はどこの国でも忙しいが、ルバート達はさらにエスクームへの援助に時間を費やされていたのだ。

 だからこそローズは迷惑をかけたくなくて、ルバートと何日も会えなくても何も言わなかった。

 ただ少しでもその姿を見たいと、ルバートの侍従から一日の予定をジェンに聞いてもらい、体調の良い時には散歩途中の偶然を装って出会えないかと頑張ってみたりもした。

 寝室への訪問がなくなれば、こんなにもすれ違ってしまう。

 夫婦でありながら伝えることのできない想いに、ローズは苦しんでいた。

 そして、諦めることに慣れていたために、まさか離宮へ一緒にと誘ってくれているのだとは思いもしなかったのだ。


 喜びに顔を輝かせるローズを目にして、ルバートはまた優しく微笑んだ。

 それだけでローズの胸は高鳴る。

 自分でも単純だとは思うが、気分はすっかり良くなっていた。


「執務の方はようやく落ち着いたところだから心配はいらない。あとはエリオット達に任せて、できれば私もあなたと一緒にゆっくり過ごしたいと思っている」


 胸がいっぱいになるほどの嬉しい言葉に、ローズは声も出せず頷くことしかできなかった。

 ひょっとして、ひょっとすると……。

 ほんの小さな希望の光が心に灯る。

 それはルバートが執務に戻ったあとも消えることはなく、ローズは夢見心地のまま旅の準備をさっそく始めたのだった。



 * * *



「陛下! 食べました!」


 ローズは嬉しそうに顔を輝かせて振り向くと、返事も待たずにまた前へと向き直り、手に持っているパンを小さくちぎって湖へと投げ入れた。

 すると、カモがにぎやかに鳴いて、パンをぱくりと飲み込む。


「かわいい……」

「ああ」


 呟いたローズの背後で、ルバートが頷いた。

 ルバートは水際で膝をつくローズをいつでも支えられるように屈んでいる。

 王宮を出発してから十日、離宮に到着してから三日になる今日、二人は離宮近くにある湖へとやって来ていた。


 旅を始めてからのローズは心配されていた体調も落ち着き、今ではすっかりつわりも治まっていた。

 それどころか、こうして幸せな日々を過ごしている。

 ローズはパンを全て湖へと投げ入れ、手を軽く叩いて立ち上がろうとした。

 そこへすかさずルバートが手を伸ばして支える。


「ありがとうございます」

「いや、そろそろ東屋へ戻ろう」


 二人並んでゆっくりと東屋へ戻りながら、ローズは改めて湖の畔に広がる美しい景色を眺めた。

 ノルマハル離宮は王領地にあり、このあたりでは狩猟を禁じているせいか、野生動物達も人間を怖がらないらしい。

 ローズにとって今までカモは特上のごちそうだったのだが、これからは考えが変わってしまいそうだった。


「これで今晩の食卓にカモのローストが出されるとつらいな」


 まるでローズの考えを見透かしたようにルバートが呟く。

 ルバートは驚きの視線を向けたローズに困ったような笑みを返した。


「だが、それが自然の摂理だ」

「はい」


 きっぱり言い切ったルバートの言葉にローズもはっきり応えた。

 北の離宮にいた頃には、ローズも皆と協力して野鳥を獲ったものだ。

 五年の間に家畜を捌くことだってできるようになった。

 情を捨てなければ生きていけない。

 それは当然のことで、非情なわけではないのだ。


 そんなことを考えながらローズはぼんやりルバートを見つめた。

 ルバートは東屋のゆったりとしたベンチにローズを座らせると、向かいに腰を下ろす。

 世間では残酷で非情だと噂されているが、本当はとても優しい人なのだと思う。

 だが、その優しさが残酷なのかもしれない。それとも優しさだけで心を与えてくれないことが非情なのかもしれない。

 

 テーブルに置かれたルバートの手はローズよりも美しく、湖面に反射する光に銀色の髪がきらきらと輝いている。

 それでも彼の魅力的な姿は力強さに溢れていて、とても男らしい。

 ローズは再び視線をテーブルの上に落とした。

 その手に触れたい、触れられたい。

 あの夜、結果的にキスを拒んでしまったことをローズはひどく後悔していた。


(もし、あの時……)


 恥ずかしがらずにキスを受け入れていれば、手を繋ぐ以上の触れ合いを今も持てたのだろうか。

 何度も頭の中に浮かんでくる考えを振り払い、お腹にそっと手を添えた。

 するとまるでローズを励ますかのように、赤ん坊が小さく動く。

 ほっと息を吐いたローズに気付いて、ルバートが心配げな視線を向けた。


「すまない、ロザーリエ。大丈夫か? 気分を悪くさせてしまったのなら――」

「いいえ、大丈夫です。そのように心配なさらないで下さい。もうすっかり体調は良いのですから」


 ローズは柔らかく微笑んでルバートの言葉を遮り否定した。

 ルバートは安堵の息を洩らし、ちらりとローズの腹部に視線を向ける。

 穏やかな沈黙の合間に、エムが冷たいハーブティーを運んで来てくれたがすぐに姿を消してしまった。

 他にも侍従や護衛騎士達がいるはずなのに気配はなく、遠慮したように遠くで鳴く鳥達の美しい声だけが辺りに響いていた。


「ロザーリエ、あなたに話したいことがある」


 ふいに沈黙を破ったルバートの言葉に、ローズは身構えた。

 

「はい、何でしょうか?」


 何かよくわからない恐怖にとらわれながら、それでもローズは笑みを浮かべて返事をした。

 そんな彼女をうかがうようにルバートはじっと見つめ、そして切り出した。


「私の前の妃、メルヴィナについて本当のことを、あなたには知らせておきたい」




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