24
翌朝、見慣れない部屋で目覚めたローズは戸惑った。
しばらくの間はなぜだろうとぼんやり考えていたのだが、それも昨夜のことを思い出すまでだった。
勢いよく起き上がり、慣れない体の痛みに顔をしかめる。
(でも、気分は悪くないわ……。というか、最高の気分かも)
ローズは再びベッドに横になり、枕に顔を突っ伏してじたばたと悶えた。
昨夜の自分が信じられない。
いやで仕方なかった行為が、これほど違ったものになるとは思いもしなかった。
ローズの好きという気持ちだけではない、ルバートからの優しさと気遣いが、触れる手から、唇から感じられたからだ。
幸せな気分で起き上がったローズが今度こそベッドから出ると、その気配を察したのか、マリタが寝室へと入って来た。
「おはようございます。ローズ様、ご気分はいかがですか?」
「おはよう、マリタ。あの、とてもいいわ。ありがとう」
朗らかに挨拶しながらも心配を滲ませるマリタに、ローズは照れながら挨拶を返した。
その様子を目にしてマリタはほっと安堵の息を洩らし、カーテンを開け始める。
「それで、その……」
ローズは顔を赤くして言い淀み、意味もなく室内をきょろきょろと見回した。
そこにエムがお茶の用意をして部屋へと入って来る。
「ローズ様、おはようございます。朝食はすぐに召し上がりますか? それとも、もう少しあとになさいますか?」
「おはよう、エム。あの……陛下は……もう召し上がったのかしら?」
ローズの遠慮がちな問いに、エムは頷いた。
「はい。陛下はいつものお時間に召し上がったようです。今は朝議にご出席なさっていらっしゃいますが、何か御用がおありでしたら、お付きの者に事付けますが?」
「いいえ、いいの。大したことじゃないから」
大したことも何も、本当は特に用事などなかった。
ただルバートがどうしているのか知りたかっただけだ。
ローズは答えてくれたエムに笑みを向けながら、自分を戒めた。
かなり浮かれ過ぎている。
ルバートはいつもと変わりない生活に戻っているというのに、いったい何を期待していたのだろう。
気を引き締めたローズは、王妃としての一日を始めるための準備に取り掛かった。
* * *
「ゆっくり見てみたいから、部屋に戻っていて? でも時間になったら呼びに来てもらってもいいかしら? 夢中になってしまうかもしれないから」
ごく限られた者しか利用できない図書室の前で、ローズは付き添ってくれていたジェンに告げた。
午前中はずっと結婚祝いに改めて訪れる人々と面会して過ごし、先ほどまでは昼食会に参加していたのだ。
そしてやっと自由な時間が取れた今、ローズは楽しみにしていた図書室にやって来たのだった。
王妃になったことで制限されることも多いが、代わりにいくつか特権もある。
その一つが、この図書室を利用できることだ。
幼い頃から刺繍などよりも本を読むことが好きだったローズは、この王宮にある一般利用できる図書館の蔵書の多さには歓喜した。
それが特別な図書室もあると聞いて、かなり興味を引かれていたのだ。
この区画は立ち入りも制限されているため、護衛の必要もない。
昨日から少々窮屈な思いをしていたローズは一人図書室に入り、ほっと肩の力を抜いた。
それからゆっくりと書架を見て回った時には疲れも忘れ、目を輝かせていた。
(すごい……! どれから読めば良いのかわからないくらいだわ)
嬉しい悩みに頬をゆるめ、手近な本に手を伸ばす。
蔵書の量は一般利用できる図書館の方が圧倒的に多いが、こちらには貴重なものが多いようだ。
軽く目を通すだけのつもりが、いつの間にか読み耽っていた。
やがて扉が開く音がして、ようやく我に返る。
ジェンが呼びに来てくれたのだろう。
そう思い、入口からは見えない奥まった場所にいたローズはここにいると知らせようとした。
だが聞こえて来たのは二人分の足音と、男性の話し声。
(……陛下だわ!)
今日初めて顔を合わせられることが嬉しくて、ローズは顔をほころばせた。
エリオットと話し込んでいるルバートの声は低いが、室内が静まり返っているためによく聞こえる。
「――母子共に無事であって何よりだな。すぐにでも祝いの品を用意し、ストウへ送る手配をしてくれ」
「かしこまりました。ところで、それは陛下から? それとも王妃様と連名で?」
「連名に決まっている」
足を踏み出そうとしていたローズは、思わず動きを止めた。
自分のことが話題に出ているのは何となく気まずい。
しかし、ここで聞いているわけにもいかず、声をかけようとして、次に聞こえた名前に息をのんだ。
「メルヴィナ様もきっとお喜びになりますね。陛下がようやくご結婚なされたのですから。ずっとご心配なさっていらっしゃいましたし」
「余計なお世話だがな。あいつはいつも人のことばかりで、自分のことは後回しだ。グレンも苦労したようだ」
「それでいい加減に痺れを切らして、強引にメルヴィナ様を結婚にまで持ち込んだのですから……。実にグレンらしくなく、大笑いさせて頂きましたよ」
くくっと笑いを洩らすエリオットの声と共に、二人の足音が徐々に近づいて来る。
このままだと立ち聞きしていたことが知れてしまうのに、体が凍りついて動けない。
ローズは胸に本を抱えたまま、立ち尽くしていた。
「それで、今まで気にも留めていらっしゃらなかった後継者について急に問題になされ、ご結婚を決意されたのはやはり……メルヴィナ様のご懐妊がきっかけなのでしょうか?」
「エリオット、それは――」
「失礼致します。陛下、侯爵、お邪魔して申し訳ございません。先ほどの件について、大臣が火急にお会いしたいとおっしゃってますが、如何いたしましょうか?」
「わかった。すぐに行く」
突如割り込んだ声――侍従に遮られたことによって、ルバートが何と答えようとしていたのかはわからなかった。
しかし、ローズはただ呆然として、遠ざかる二人の足音を聞いていた。
メルヴィナが――ルバートの前妃が生きている。
それはとても喜ばしいことではあったが、悲しいことでもあった。
これまでの自分の存在を殺してしまわなければ生きていけないなんて、どんなにつらかっただろう。
以前、夫人達が話していたストウ領主夫人のことを、ローズは思い出した。
出産が近いと聞いたその女性がメルヴィナだろうか。
ローズは持っていた本を置くと、ゆっくり書架に近づいた。
そして目当てのものを探し当て、取り出す。
恐る恐る開いた最新の貴族名鑑。
そこにストウ領主の名を見つけ、ローズは小さく息を吐いた。
ストウ伯爵――グレン・フォーガスの妻の名はメル。
一年程前に結婚しているが、メルについての記載は簡潔なものだった。
両親は亡くなり、遠縁に当たるサイクス侯爵が後見人である旨を記しているだけ。
これが運命を受け入れる強さなのだろうか。
レイチェルの言葉はまるで、メルヴィナのこれまでの人生を表しているようにも思えた。
正直に言えば、ルバートの声に滲んでいたメルヴィナへの愛情が羨ましい。
だけど自分は全てを受け入れると決めたのだ。
ローズは知らず流れていた涙をぬぐい、貴族名鑑を書架へと戻すと、ブライトンの王妃として知るべきことが記された本へと手を伸ばした。




