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 産婆のドリーとの面談は極秘に行われた。

 ローズはセシリアの招待を受けるかたちでサイクス侯爵家の屋敷へ訪れ、そこでドリーと会ったのだ。


「あらあら、まあまあ。おかしいですねえ。あたしにはローズ様のどこがお悪いのか、ちっともわかりませんがねえ」

「でも、評判の薬師に言われたのよ? 彼女はわたしを一目見て〝無駄″だって。子供を授かることは無駄だって言ったの。彼女は薬を調じるだけではなく、どんな病気だって一目で見抜くって評判で……」


 人懐っこい顔に優しい笑みを浮かべて言うドリーに、ローズは悲しげに訴えた。

 どうか希望を持たせないでほしい。

 もしかしたら子供を授かることが出来るかもしれない。ルバートのプロポーズを受けることが出来るかもしれない。

 そんな思いが一瞬のうちに心を満たしてしまう。

 ドリーはふっくらとした手でかすかに震えるローズの両手を包んだ。


「その薬師がローズ様に何を視られたのかはわかりませんが、あたしが先ほど診させて頂いた限りでは何も問題はありません」

「……何も?」

「ええ、何もです」


 ローズの両手をぽんぽんと軽く叩いて、ドリーはふと真剣な表情になった。


「ローズ様、人は時を経れば変わるものです。健康な人が病気になったり、病気の人が健康になったり。そして時は、運命さえも変えていくのです」

「運命を?」

「そうですよ。頑張っている人には運命の女神様は微笑んでくれるものです。女神様は時々残酷にもなられますが、それでも諦めなければちゃんと道を示してくれるのです。ですから過去を振り返ってばかりいては、進むべき道を見逃してしまいますよ」

「わたし……わたしにも、女神様は微笑んでくれるかしら?」


 すがるような声でローズは問いかけた。

 また期待しても良いのだろうか?

 本当に信じても良いのだろうか?

 ローズの儚い希望に、ドリーは満面の笑みで頷いた。


「もちろんです。ローズ様はずっと頑張っておられましたからね。女神様はちゃんとご存知ですよ」


 初対面のはずのドリーの言葉は不思議ではあったが、なぜか心にすんなり入ってきた。

 ローズの今にも泣きだしそうだった顔に笑みが浮かぶ。


「ありがとう、ドリー」

「いいえ、何てことはありませんよ」


 ドリーの温かな手から伝わる優しさは、ローズの心までも温めてくれる。

 そのぬくもりは亡き母を思い出した。

 世界にはたくさんの不思議があると教えてくれたのは母だ。

 それは神様からの贈り物なのだと。だからもし不思議に触れることがあれば、神様の恵みを与えられたのよ、と。

 あの頃はまだ幼くて、母の言葉をお伽噺のように聞いていた。

 成長するにつれ、すっかり忘れてしまっていたけれど、今なら母の言いたかったことが何となくだがわかる気がする。

 ローズはドリーの手を強く握り返すと、もう一度お礼を口にした。


「ありがとう、ドリー。わたし、決めたわ」


 強くきらめくローズの茶色の瞳を見て、ドリーは満足そうに微笑んだ。



 * * *



 翌日、ローズは朝のうちに、時間のある時にお会いしたいと、ルバートに侍従を通じて伝えてもらった。

 するとすぐに、午後には部屋へお邪魔すると返ってきたのだ。

 そんなに早く会えると思っていなかったローズは、心の準備も整わないままルバートを迎えた。


「申し訳ございません。お忙しいのにお呼び立てしてしまって」

「いや、気にしないでくれ」


 一通りの挨拶が終わり、ソファに落ち着くと、ローズの緊張は高まった。

 言わなければと思うのに、口が上手く動かない。

 ローズは右手で左手の甲にぎゅっと爪を立て、勢いに任せて口を開いた。


「先日の、陛下からのお申し出なのですが……その、陛下のお気持ちにまだお変わりがないのでしたらお受けしたいと思います」


 最後の方は息継ぎも出来なかったが、ついに言えたとローズはほっとした。

 もちろん心臓は苦しいほど速く打っているし、興奮しているのになぜか顔色は悪い。

 本当は今すぐ取り消して逃げ出したかった。

 しかし、弱気な自分をぐっと抑えて答えを待つローズの蒼白な顔を、ルバートはじっと見つめ、やがて頷いた。


「ありがとう。あなたが私との結婚を承諾してくれて、とても嬉しい」


 温かい笑みも、喜ぶ言葉もとても優しいものだ。

 それなのに、ルバートの心は残念ながら感じられなかった。

 だがそれも覚悟の上。

 ローズは一度大きく深呼吸をすると、再び口を開いた。

 今度は不思議と落ち着いている。


「ただ、少し条件があります」

「条件?」

「はい」


 訝しげに眉を寄せたルバートに怯みそうになる自分を叱咤して、ローズは続けた。


「婚姻の後、二年の間にわたしが身ごもらなければ、離縁して頂きたいのです」

「それは――」

「お願いです。でなければ、わたしにはお受けすることができません」

「……わかった」


 悲しげにも見えるローズの必死な願いに、ルバートはしぶしぶ了承した。

 ローズの体からはかすかに力が抜けたが、右手はまだ左手に重ねられたままだ。


「もう一つ。条件というより、約束してほしいことがあります」

「……聞かせてくれ」


 真剣な表情で促されて、ローズはまた左手に爪を立てていた。

 しかし、今はその痛みさえも感じない。


「もし……もし、陛下に、心から望む方が現れた時にも、どうかわたしのことはかまわずに離縁して下さい」

「まさか。そのようなことは起こり得ない。それに万が一起こったとしても、そのように身勝手なことはしない」

「いいえ。心を偽り、お互いを縛り付けることこそ、身勝手なことではないでしょうか? ですから、先に約束して頂きたいのです」

「……それでは、あなたも同様だ。もし、あなたの心を奪う者が現れたとしたら、どうか私に教えてほしい。そして、あなたを自由にしよう」

「――はい。もし、わたしに誰か他に想う方ができたなら、必ずお伝えいたします」

「頼む」


 今度のルバートは先ほどよりもはっきりと頷いた。

 その姿は自信に満ちている。

 ローズは一番困難に思えた条件の提示をやり遂げて酷く疲れを感じた。

 そこへ、ルバートがいきなり立ち上がる。

 はっとして続こうとしたローズを軽く手で制して、ルバートは彼女の隣に腰を下ろした。

 そのまま驚くローズの左手を取る。


「私のプロポーズを受けるには、これほどの痛みが必要なのだろうか?」


 爪の形に付いた傷から血がかすかに滲んでいる。

 自分の悪い癖に気付いて、ローズは慌てて首を振った。


「ち、違います。そうではなく、ただ緊張して……」


 震える声での弁解は途切れてしまった。

 ルバートがローズの傷ついた左手に唇を寄せたのだ。

 温かく柔らかな感触がローズの心まで揺さぶる。

 心臓は胸を突き破りそうなほど激しく打ち、顔からは火が出そうなほどに熱く、まだ息をしているのが不思議なほどだった。

 そんなローズの混乱した頭に、ルバートの低く艶のある声が響く。


「あなたはもっと自分を大切にするべきだ。このように傷をつけるなど、見ていられない。だからこれからは私がそばであなたを、あなた自身からも守っていく」


 耳にした言葉が信じられなくて、ローズは動揺に潤んだ目をルバートへ向けた。

 柔らかく細められた藍色の瞳に偽りは一切見えない。

 途端にローズの胸を満たしたのは安堵だった。


 きっと、この恋が叶うことはないだろう。

 それでも確かに幸せはここにある。

 進むべき道は決して平坦ではないけれど、もう見失ったりしない。

 ローズは温かな笑みを浮かべるルバートをまっすぐに見つめ、迷いない気持ちで微笑んだ。




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