17
「陛下……」
あの日から一度も会うことのなかったルバートの突然の訪問に、ローズは驚いて挨拶の言葉も出てこなかった。
そんな彼女に、ルバートはあの日と同じように鉢植えを差し出す。
「まだ花は咲いていないのだが、実はこれが私の一番好きな花なんだ」
「……アジサイ、ですか?」
「ああ」
戸惑いながらも受け取ったローズは、たくさんの小さな蕾を見つめながら呟くように訊ねた。
応えたルバートは、飾り棚に向かうローズを目で追いながら続ける。
「アジサイの花は土が変われば色を変え、毒で以て身を守っている。そして時期がくれば葉を全て落とす。だが次の季節になると、また多くの葉を繁らせ、花を咲かせる。私はアジサイの強さが好きだ。さらに言えば、花よりもその青々とした葉が美しいと思う。芽吹いたばかりの葉はまるで緑色のバラのようにも見える。是非、あなたにも次の季節に見て欲しい」
ルバートがこんなにも花に詳しいのは意外だった。
確かに豊かに繁る葉は美しく、毒があるようにはとても思えない。
それでも、眺めるだけならば楽しめるアジサイにローズは心を和ませた。
「ありがとうございます、陛下」
「いや……」
かすかに笑みを浮かべて振り向いたローズは、そこでまた立ったままであることに気付いた。
慌てて席を勧め、緊張しているエムにお茶を頼む。
しばらくは二人とも無言でお茶を飲んでいたが、やがてルバートが話し始めた。
「エスクームへの援助については、だいたいの方針が決まった。詳しくはまだ詰めなければならないが、簡単に言えば、我々は物質的な援助ではなく、人材と技術を援助しようと思っている」
「人材と、技術……」
予想外の内容にローズは戸惑った。
だが少し考えれば、それがどんなに素晴らしいことかがわかってくる。
徐々に理解していくにつれて喜びに顔を輝かせるローズを、ルバートはじっと見つめた。
「エスクーム国王は国内に他国から人員を入れることを渋るだろうが、それは交渉しだいだ。そのあたりはエリオットとモンテルオの王弟であるリュシアン殿下に任せることになるだろう」
「……モンテルオ?」
「そう、モンテルオだ。流民に関しては、モンテルオでも問題になっている。我々ブライトンだけでは難しいことも、両国が協力すればきっと叶うはずだ」
「……本当に……ありがとうございます」
お礼を口にしながらも、ローズは震える体を抑えるように膝の上で固く両手を握りしめた。
先ほどまでの興奮が冷めていく。
信じられないほど素晴らしいことなのに素直に感謝できない。
感じているのは、わだかまりよりも恐怖だ。
すっかり色を失くしたローズを、ルバートはさらに追い詰める。
「近日中にはモンテルオ国王夫妻が来訪する。そこで援助についての話し合いが行われる予定だが、その際はあなたにも同席して頂きたい。だから、それまでにあなたの立場をはっきりさせたいと思う」
「わたしの……立場?」
「ああ。あなたは今、私の婚約者候補としてここに滞在している。だが、このまま婚約が成されないのならば、皆にその旨をはっきりと伝えなければならないだろう?」
ローズはルバートの無機質にも思える整った顔をぼんやりと見つめた。
婚約が不成立になっても王宮に滞在し続けるには相当の覚悟が必要だろう。
だがローズにとって、そんなことはどうでもよかった。
モンテルオ国王夫妻に対面する。ただそれだけが、酷く苦しかった。
いったいどんな顔をして援助を乞えばいいのかわからない。
そんなローズの苦悩を察したのか、ルバートは表情を和らげ声に優しさを滲ませた。
「私は今でもあなたとの婚約を望んでいる。あなたを婚約者として、フェリクス国王とレイチェルに紹介したい」
「ですが――」
「もちろん、あなたの懸念を無視するわけにもいかない。それなのに、――いや、だからこそ、あなたに酷なお願いをしなければならない」
ルバートは不安な面持ちのローズから目を逸らすことなく続けた。
「先に言っておくが、これからあなたがどんな答えを出そうと、援助の件とは一切関係ない。だから、あなたの心のまま遠慮なく断ってくれ」
そう前置きすると、ルバートは深く息を吐いた。
そして身構えるローズにまた視線を戻す。
「あなたは子が出来ないと言う。だが一度、ドリーという女性に会ってくれないか? ドリーは熟練の……産婆なんだ。それではっきりしたならば、私もこれ以上あなたに婚約を、結婚を迫るようなことはしない」
ローズは驚きに目を見開いた。
まるで何かの契約について話しているような言葉だが、きっとこれは二度目のプロポーズなのだろう。
残酷とも言える条件つきだが、それも当然なのだ。
しかし、なぜそこまでルバートが自分にこだわるのかがわからない。
ローズは胸に渦巻く疑問をそのまま口にした。
「……なぜ、わたしなのですか? わたしのような結婚歴のある子供の産めない女ではなく、陛下のお妃様として相応しい女性は他にいるはずです」
「いや、あなたほど条件を満たしている女性は他にはいないだろう。だからもし、あなたが子供が出来ないかもしれないという理由で私との婚約を拒んでいるのなら、はっきりさせておきたいんだ。それに例え私が他の健康な女性と結婚したとしても、必ず子を授かるとは限らないのだから」
「……そうですね」
迷いないルバートの返答に傷つくなんて間違っている。
条件については初めて会った日に聞いていたのだ。
ただ、胸に渦巻いていたものが疑問ではなく、期待だったのだと気付かされてしまった。
どうあがいても得られないものを、何度も夢見てしまう自分にはどうしようもなく呆れてしまう。
ローズはふっと笑いを洩らして顔を上げた。
「わかりました。わたしはいつでもかまいませんので、どうかその方に、お会いさせて下さい」
「……本当に? もし無理ならば――」
「大丈夫です。わたしにとっても、きっと良いことなのだと思います」
ルバート達の計画を達成させるには、おそらくこれから何年もかかるだろう。
それほどの恩を受けながら何も返せないのは、あまりにも心苦しい。
産婆に会うことも、そこでどんなことを言われたとしてもちゃんと受け止められる。
そう思うと晴れやかな気持ちになり、ローズは笑みを深めた。
ルバートはそんなローズの表情を探るように見ていたが、やがて大きく頷いた。
「では、すぐにでも手配しよう」
その後はお決まりの簡単な別れの挨拶を交わし、ルバートは去っていた。
立ってその背を見送ったローズは、そのまま飾り棚へと向かった。
棚には美しく咲き誇るカトレアと青々としたアジサイが並んでいる。
その不釣り合いな姿にローズはまた笑いを洩らした。
(でも……陛下は一番お好きだっておっしゃったわ……)
ローズはアジサイへと手を伸ばし、緑色の小さな蕾に触れた。
花が咲けば美しい色合いになるが、所詮は装飾花でしかない。
実をつけることなく枯れていく。
(それでもまた、時期がくれば花を咲かせるもの)
冬の寒さにも耐え、新しい季節にまた葉を芽吹かせ、花を咲かせる。
芽吹いた葉はバラのようだとルバートは言っていた。
だがローズは今までそんなふうに思ったこともなければ、ちゃんと見たこともなかった。
決まったものしか見ていない、表面上のものしか見えていなかったからだ。
せめて自分の周りで何が起こっているのかだけでも、しっかり目を開けて見なければいけない。もう目をそむけていてはいけない。
だから強くなりたい。何度でも花を咲かせるアジサイのように強くなろう。
ローズは新たな決意を胸に秘め、晴れやかに微笑んだ。




