16
あの告白の日から、ローズは無意味とも言える時間を王宮で過ごしていた。
午前中は王宮の庭を散策し、帰りに図書室で本を借りて、午後は本を読んで過ごす。
以前はこれにお茶会や昼食会などが入っていたのだが、今はどうしても招待を受ける気になれず、全て断っている。
しかし、四日目の午後になって、突然の来訪者がローズの部屋へ現れた。
「突然の訪問をお許しください。どうしても殿下に紹介したい者がおりまして」
爽やかな笑みを浮かべて入って来たエリオットは女性を連れていた。
ローズは歓迎の笑みを顔に張り付けて二人を迎えたが、女性の顔を目にして小さく息をのんだ。
年齢を感じさせない美しい顔はルバートによく似ている。
正確には淡い金色の髪を除けば、レイチェル王女にとてもよく似ていたのだ。
「あら、エリオット。あなたからの紹介なんていらないわ。女同士でお話したいことがたくさんあるのですから、さっさと出て行ってちょうだい」
「殿下、この酷い言い様の女性は私の母で、サイクス侯爵未亡人の――」
「やめてちょうだい、エリオット。その呼び方は一気に年を取ってしまった気がするわ」
正式に紹介しようとしたエリオットを遮り、彼の母親は前へと進み出てローズに温かな笑みを向けた。
「初めまして、殿下。私はセシリア・マクミランと申します。どうかセシリアとお呼び下さいませ」
「あの、……セシリア様、わたしのことはローズと……」
今さら正式に名乗ることもできず、もごもごと名前を口にしたローズの気持ちを察してか、セシリアは了承したとばかりに大きく頷いた。
「では、ローズ様とお呼びさせて頂きますわ。私、ローズ様のお話を聞いて、お会いするのをとても楽しみにしておりましたのよ。この王宮での生活はどうも退屈で。ほら、薄情な息子と胡散臭い甥相手だと会話も楽しくないでしょう? やっぱり女の子がいなくちゃね」
「胡散臭いって、母上……」
自国の国王を評した言葉に抗議しかけた息子を、セシリアはしっしと追い払う。
今現在、ブライトンで国王であるルバートに次ぐ実力者であるエリオットをこのように扱えるのは、間違いなく彼の母親だけだろう。
ローズは驚きつつ、セシリアにソファを勧めた。
セシリアはすぐさまお茶を運んで来たマリタに、身分を感じさせない気安さでいくつかの質問をしている。
それから始まった会話は予想外にとても楽しく、ローズもしだいに緊張を解き、最後には笑い声を響かせもしていた。
そして翌日――。
昼過ぎに訪れたセシリアを前にしてローズはひどく困惑していた。
「それでね、薄情な息子はめったに屋敷に戻らないし、そうなると私は一人でしょう? 人手もそれほどいらないっていうのもあるのだけれど、何よりこんなおばさんよりもローズ様の方が、仕えるにしても若い子はやりがいがあるってものではなくて?」
「いえ、そんなことは……」
若い女性二人を伴ってやって来たセリシアは、二人をローズの侍女にしてやってくれと言うのだ。
エムとジェンという二人はもうすでにマリタと打ち解けて控えの間に引っ込んでしまっている。
「二人はどこかのお嬢さんのように遊び半分で侍女になったわけではないのよ。だから王宮に仕えていたというだけで実績になるの。もちろん、彼女達のご両親はちゃんとした人達だし、浮ついた子でないことは私も保証するわ。マリタの負担を減らすためにも、この王宮に滞在する間だけでいいから、仕えさせてあげてちょうだい。ね?」
「ですが、二人にはかえって迷惑をかけるかもしれません。わたしは何かと……不慣れですから……」
「あら、慣れる必要なんてないわ。慣らせばいいの。それよりもね、王宮の東サロンをお借りして、私の帰国の挨拶を兼ねた昼食会を明日開くの。急だけど是非出席して頂けないかしら?」
自分に仕えることによって、彼女達には不利になってしまうかもしれない。
そんなローズの心配をよそに、セシリアはあっという間に話題を変えてしまった。
どうやらセシリアにとってエムとジェンがローズに仕えることは決定事項らしい。
「今回お招きしているのは私のお友達ばかりなの。ですから形式ばったものではなく、ローズ様もそれほどお気を使われることもないと思いますわ。それに皆様、本物の淑女ですから」
「セシリア様、わたしは――」
「さ、もうお暇しなければ。メニューもまだ決めておりませんの。では、明日を楽しみにしております」
ローズが辞退しようとした言葉も受け付けず、セシリアは柔らかな笑みを浮かべてさっさと立ち去ってしまった。
残されたローズはどうしようもなく、ただ途方に暮れた。
* * *
「まあ、ローズ様! とてもお綺麗です! やっぱり、ジェンとエムに任せて正解でしたよ。侯爵夫人はお見通しだったんですねえ」
結局、断る理由も思いつかず、昼食会に出席するために支度を整えたローズを見て、マリタが感嘆の声を上げた。
側ではジェンとエムが少し誇らしげに微笑んでいる。
「ローズ様には絶対、この髪型がお似合いになると思っていたんです」
「それに、口紅の色はもう少し赤い方がお似合いになるとも思っておりました」
「ええ、ええ。本当にそうだわ。やっぱり、年寄りはだめねえ。こんな器用な髪形になんて、あたしは結えませんからねえ」
「マリタ……」
鏡越しにマリタを見ると、彼女はにっこりと笑った。
マリタはローズにとって侍女というより、母親であり大切な友達だ。
今回のことで気を悪くしてほしくなかったが、心配はいらないようだった。
「さあ、ローズ様。自信を持って行ってらっしゃいまし。今日のローズ様は特別にお綺麗ですからね。あたしは鼻高々でお留守番をさせてもらいますよ」
胸を張って、つんと鼻を突きだしたマリタにローズや二人の侍女は笑った。
こうして、いつもローズの心を軽くしようとしてくれるマリタには感謝してもしきれない。
ローズは笑みを浮かべたまま再び鏡に視線を戻した。
正直に言えば、まだ少し信じられない。
(お化粧と髪型だけで、ここまで変わるなんて……)
それだけではなく、持っていたドレスにジェンが少し手を加えてくれたおかげで、ずっとローズに似合うようになった。
我ながら悪くないと思ってしまう。
もちろんキャロルや他の令嬢達のように華やかな美しさを手に入れたわけではないが、ほんのちょっとだけ自信が持てる気がした。
時間になり部屋を出て、久しぶりに明るい気持ちで王宮内を歩く。
しかし、サロンへ到着した途端に前回のことを思い出したローズは、入口で躊躇してしまった。
そんな彼女の許にセシリアは笑顔で迎えに来る。
「ローズ様、いかがなされたの? お待ちしておりましたのよ」
ローズはどうにか力を抜いて、サロンへと足を踏み入れた。
「セシリア様、今日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、こうしていらして下さって嬉しいですわ。それにローズ様の今日の髪型、とてもよくお似合いになって、素敵だわ」
「まあ、本当に。今までと少し雰囲気が変わって、華やいで見えますわね」
如才ないお決まりの挨拶が交わされた後、セシリアはローズの変化にすぐに気付いて褒めた。
すると、そばにいた夫人が賛同する。
今までにも会えば礼儀正しく接してくれた伯爵夫人だ。
それからは女性達が集まれば自然と始まるお洒落と美容法の話題で盛り上がり、ローズは驚くほど自然に仲間に入れられていた。
それも、参加者のほとんどが初めて顔を合わせる夫人達ばかりだったせいかもしれない。
だが彼女達は有力貴族の夫人であり、セシリアがいない王宮は退屈なので領地に戻っていたのだという。
「田舎には田舎の良さがありますものね」
「ええ。馬に乗ったり、羊の群れを眺めたり……。そうそう、今年はたくさん子羊が生まれたのよ」
「まあ、良かったじゃない。あら、そういえば、ストウ領主夫人が近々ご出産の予定だそうよ」
「そうなの? それでこの間の伯爵位授与の際に奥方様はご欠席だったのね。それにしても最近はおめでた続きね。レイチェル様がお産みになった王子殿下も健やかにお育ちだそうだし、セシリア様は三人のお孫さんのおばあちゃんだもの」
「ほんとうにねえ。でも、エリオットが片付かないことにはちっとも安心できないわ」
「きっと、もうすぐよ。それにほら、ひとまずは陛下がお先になさらないことには……ねえ、ローズ様?」
「え? は、はい」
食事も終わり、甘いデザートと共にお茶を飲みながら和やかに進む夫人達の会話をのんびりと聞いていたローズは、突然話を振られて慌てて返事をした。
しかし、期待に満ちた視線を向けられて動揺する。
その時、ずいぶん耳に馴染んだ声が入口から聞こえた。
「母上、皆様方、私達も少しお邪魔してもよろしいですか?」
〝私達″と聞いて、ローズの胸が苦しいほどに速く打ち始める。
緊張しながらゆっくり振り向くと、そこにいたのはエリオットと、いつかの医師だった。
ほっとするべきはずなのに、がっかりしてしまう。
あの日からルバートとは会っていない。
ローズは落胆する気持ちを隠して、皆と同様に歓迎の笑みを浮かべた。
そして、一通りの挨拶が交わされてしばらくすると、ジェネルバ医師はローズを中庭への散歩に誘った。
「右手の傷はすっかりよくなりましたな。それに両の手の荒れも」
東屋でひと休憩したところで、ジェネルバがにこにこしながら言った。
ぽっちゃりとしてローズよりも背の低い老齢の医師はどこか人を安心させる雰囲気がある。
ローズも微笑んでお礼を口にした。
「あの時はありがとうございました。しかも手荒れに効く軟膏まで処方して頂いて、本当に感謝しております」
「いやいや、なんてことはない。あの時の子猫も元気になりましたかな?」
「はい。もうすっかり」
その後はサロンへと戻りながら、他愛ない話の合間に過去の病歴などをローズは訊かれた。
やはり仕事がら気になるのかしらと思いつつ、全てを素直に話す。
「王女殿下、このような老いぼれに付き合って頂き、ありがとうございました。とても楽しい時間が過ごせました」
別れ際、ジェネルバはローズの両手をそっと取ると、恭しく持ち上げて額に軽く触れた。
それは尊敬の念を表す仕草であり、謝罪を表す仕草でもあった。
「先生?」
戸惑うローズにジェネルバはまたにこやかに微笑みかけただけで、何も言わない。
そのままエリオット共に去って行くジェネルバを夫人達と見送りながら、ローズは不思議な感覚にとらわれていた。
(医師や薬師って、何か不思議な力でもあるのかしら……)
そんなことをぼんやりと考えているうちに会は終了し、ローズはセシリアや夫人達に心からのお礼を言って部屋へと戻った。
ローズの心はここ最近にないほど凪いでいた。
だがそれも、次の日になって再び鉢植えを持ったルバートが訪れるまでだった。




