12
どんなにつらく悲しい時でも、ぐっと堪えて耐えていた。
その涙がついに溢れ、流れ落ちていく。
「泣かないでくれ」
囁いたルバートは、ローズの頬を濡らす涙をそっとぬぐった。
それなのに涙は次々とこぼれてくる。
ルバートは焦るローズの両手を包み込むように握り、柔らかく微笑んだ。
「この手の傷もずいぶん良くなったようで私は嬉しい。この五年、あなたは北の城で部族の女性達と苦労しながら田畑を耕し、家畜を世話して暮らしてきたのだろう? 戦後、王城に戻ることもできたのに、戦で夫を亡くし、父親を亡くし、息子を失くした女性達を守り、共に生きることを選んだ。私はあなたの強さに敬服している」
静かに語られた言葉に、ローズは目を丸くした。
驚きのあまり涙も止まる。
「どうして……?」
エスクーム王城でもほとんど知られていないことを、なぜルバートが知っているのか。
その思いのままに疑問を口にしたローズに、ルバートはわずかに決まり悪そうな顔をした。
「私の耳には、色々なことが何かと入ってくる。だからこそ、初めからあなたのことも知っていたし、置かれている状況も知っていた。だが、自分の目で見てあなた自身を確かめたかったんだ」
そう言われて、ローズは顔を赤くした。
いったいどこまで知っているのだろうと不安にもなる。
それに何より今の状況が信じられない。
ルバートはこんなに近くにいて、しかも手まで握られているのだ。
徐々に頭が働きだしたローズはこの場から逃げ出すことを考えた。
それを見透かしたように、ルバートの手に力が入る。
「陛下、あの……」
せっかく動き始めた頭がまた混乱して、どうしたらいいのかわからない。
動揺するローズをなだめるように、ルバートは静かに呼びかけた。
「ロザーリエ」
それはまるで愛情がこめられているような優しい声。
母が亡くなって以来、こんなにふうに名前を呼んでくれる人はいなかった。
ダメだとわかっているのに勘違いしそうになってしまう。
深い藍色の瞳に引き込まれないように自分を叱咤するローズの視線をルバートはそのまましっかりとらえると、ゆっくり口を開いた。
「ロザーリエ、どうか私と結婚してほしい」
言葉は耳に届いているのに、頭が理解するのに時間がかかった。
それでもローズが返事を口にする時には、心はとても落ち着いていた。
「申し訳ございません、陛下。わたしにはお受けすることができません」
* * *
「侯爵様! お待ちしておりましたのよ!」
エリオットがサロンに入ると、夫人達は食後のお茶を楽しんでいるところだった。
再度のエリオットの登場に喜んで、その場がざわつく。
その中で、主催者の伯爵夫人より早く歓迎の声を上げて駆け寄ったのはキャロルだ。
皆が眉をひそめたが、お構いなしにキャロルはエリオットの腕に抱きついた。
あまりにも馴れ馴れしいその行動に、年配の夫人達が息をのむ。
「今、皆様に先日の遠乗りのお話をしておりましたの。陛下と侯爵様にご一緒できて、とても楽しかったんですもの」
「そうですね。私も楽しかったですよ。昔はレイチェル様とよく遠乗りに出かけたものですが、あの頃のことを思い出しました」
応えたエリオットの言葉に、キャロルは誇らしげに顔を輝かせた。
レイチェル様に似ていると今までに何度も言われていたが、やっとサイクス侯爵も気付いてくれた。
そう思い、キャロルが得意げな笑みを浮かべて見上げると、エリオットからは冷やかな視線が返ってくる。
「王女殿下はとても乗馬がお上手でしたので、レイチェル様のお姿と重なって見えたほどです。本当に素晴らしい腕前でしたね」
にこやかにローズを褒めるエリオットの言葉が聞こえたのか、キャロルの背後でくすくす笑う声がする。
先ほどまで遠乗りのことを自慢して聞かせていた令嬢達だ。
キャロルは真っ赤になった顔をわずかに歪めて微笑んだ。
「侯爵様はお優しいのですね。騙されていらしたというのに、まだあの方のことを殿下とお呼びして差し上げるなんて」
「騙されていた? 何のことです?」
エリオットもまた微笑んで問い返した。
しかし、なぜかキャロルは背筋が冷たくなり、縋っていた腕を離してわずかに後じさる。
「さ、先ほども申しました通り、あの方は王女殿下などではなく、にせものでしたのよ? 今日はもう、朝からその話で王宮中がもちきりですもの。ですから、てっきり侯爵様もご存じだとばかり……」
「やはり陛下はお怒りなのですか? あの方を呼びつけられたのは、そのためなのでしょう?」
徐々に声が小さく頼りなくなっていく娘を援護してか、キャロルの母親であるモリスン男爵夫人が割って入った。
エリオットは夫人へと視線を移して頷く。
「ええ、陛下は少々ご立腹なさっていらっしゃいます」
「まあ! やっぱり!」
モリスン男爵のあとについて来た小太りの夫人が、エリオットの返答に嬉しそうな声を上げた。
先ほどローズにまくし立てていた人物だ。
「まったく、エスクーム国王は何を考えているのかしらね。こんな侮辱を受けるなんて信じられないわ! 危うくあんな卑しい方とご婚約なさるところだったなんて、陛下がお気の毒で……」
少々芝居がかった言葉に皆が頷く。
しかし、エリオットは微笑んだまま首を横に振った。
「ひとつ申し上げておきますが、陛下のご意思はお変わりありませんよ」
さらりと告げられた言葉は、その場に一瞬の静寂を落とした。
すぐには意味がのみ込めなかったのか、夫人達は顔を見合わせている。
「でも、あの方はレイチェル様を苦しめた張本人じゃないですか! エスクームは国王軍を囮にして、野蛮な部族にモンテルオの街を襲わせたのでしょう!? その部族長の妻だったなんて、憎むべき相手だわ! なのに――」
「黙りなさい、キャロル」
「だって、お母様」
「キャロル!」
納得いかないとばかりのキャロルの訴えは、母親によって遮られてしまった。
それでも不満そうではあったが、母親の厳しい声音に仕方なく口を閉ざす。
そのやり取りを目にして、エリオットは悲しげにため息を吐いた。
「では、我々はレイチェル様を囮にして、エスクームに攻め込んだのですから、王女殿下に憎まれてしかるべきですね」
穏やかに指摘されて、夫人達は青ざめた。
確かにエリオットの言葉通り、レイチェルがモンテルオ国王の許へと嫁いだのは、エスクームを油断させるために先代国王――ルバートの父が命じたことだった。
おかけでエスクームとの戦には勝利を得ることができたが、その喜びも長くは続かなかった。
一部の特権階級のみが富を占める悪政に、ルバートはエリオット達と共に剣で以て異を唱えたのだ。
夫人達は当時の王宮内の混乱を思い出し、目の前のエリオットを見つめた。
エリオットもルバートも、普段の優しさからは想像もつかないほど非情になれる。
そのことをすっかり忘れてしまっていた夫人達は後悔に身を震わせた。
「もちろん陛下は王女殿下の――ロザーリエ様のことはご存じでした。陛下は五年前に戦後の交渉でエスクーム王城にしばらく滞在されていたのですから。そして、この度のお妃候補については、陛下ご自身がロザーリエ様を望まれたのです。ただ、諸々の事情を慮って、ロザーリエ様には素性を偽って頂くことにしたのですが、このような結果になってしまい残念でなりません。陛下はロザーリエ様のことが悪意ある噂として王宮内に広まってしまったことに、ご立腹なされているのですよ」
重苦しい空気が流れる中、エリオットは再び穏やかに微笑んだ。
「それでは、私はこれで失礼いたします。ご歓談中のところ、お邪魔して申し訳ありませんでした。皆様、どうかこの後も楽しんで下さい」
エリオットは軽く一礼すると踵を返し、呆然とする夫人達を残して部屋を出るとそのままバラ園へと足を向けた。
今度は鳥達がエリオットを歓迎して飛んで来る。
「さて、余計な嘘をついたと、陛下はお怒りになるかな?」
ベンチに腰掛けたエリオットは、友人に対するように集まって来た鳥達に話しかけた。
応えて鳥達は陽気に鳴く。
その美しい歌声を聞きながら、エリオットは長い間もの思いに耽っていた。




