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第二章 ・・・ 2

 あたしがことの事態を説明しているあいだ、ずっと久保田さんは眉をしかめていた。

 依頼の内容、あたしを護衛して欲しいと伝えても、さほど驚いた素振りを見せたりしない。

 どこかあたしと悠汰のことで、近々なにか起こるというのを知っていたようだ。問い詰めたら、功男さんから悠汰が苦労することになるだろうと、明言されたのだと白状した。

「あなた、まだ功男様と繋がってたの?意外ね」

「一度だけだ」

 変わらない不機嫌な口調で言う。まだこの状況に納得できないのか、そのときの状況が釈然としないものだったのか、あたしにははっきりしない。

 背もたれに大きくもたれかかりながら、偉そうに久保田さんは言った。

「事情は解ったけどな、いきなりこんな呼び出しは無いだろう。準備期間があったなら、その間に言えよな」

「なるべく秘密裏に事を運びたかったのよ、しょうがないでしょ」

「この事、悠汰は知ってんのか?」

 その名前にあたしは反応する。

「久保田さん。その名前はここでは出さないで」

 これだけで、久保田さんには察してもらえるだろう。悠汰にも言わずに進めてきたことを。久保田さんと会うときはいつも悠汰がいた。だからこういうやり方しかできなかったのだ。

 案の定、彼は呆れたようなため息を吐いた。

 あたしが久保田さんに護衛を頼んだのは、千石さんや前田さんがまだ信頼できないという単純なものではない。

 彼らがたとえ信頼できるボディーガードだとしても、それだけなのだ。久保田さんは、なにかあれば自分で判断して動くことが出来る。そこが決定的な違いだ。その判断もあたしはアテにしていた。

 それなのに、まだ諦めの悪い態度をしている。

「それより祥子君に何も言ってきてないし、困るんだよ。こういう依頼のされ方すると!」

「それなら大丈夫よ。さっきあたしからメールしといたわ。先生をよろしくお願いいたします、ですって」

 久保田さんの前に立って携帯を見せ付けながら、にんまりと微笑んだ。そしたら久保田さんはがっくりと肩を落として、なんつー用意周到な……と呟いた。

 彼の事情ぐらい熟知している。祥子さんは久保田さんの助手だ。ほんわかした印象を醸し出しているけれど、実はしっかりしている人だ。

 ああいう人は見習いたいと思う。あたしの気性では無理だろうけど……。

「見積りなんていらないから、後から正式な額を要求してくれればいいわ。お父様が払うってことで了承は得てるの」

「ちょっと待ってくれ、玲華。この男は何者だい?」

 ずっと黙って見守っていた綾小路先輩が口を挟んだ。それに久保田さんが、僅かに冷たい反応をしたのを、あたしは見逃さなかった。

 だから仕方なくあたしから紹介する。

「久保田さん。探偵してるのよ」

「なんて俗っぽい。こんなもの信用できるのか?」

「おまえよりマシだ」

 ついに本音が出た。

 こういう咄嗟の反応が、内面は理論派というより情緒派なんだろうなと思わせるところだ。

「なんだって?玲華がどう思っているか知らないが、この件では遥かに僕の方が存在価値がある!訂正したまえ!」

「オレはいいぜ、別に。このまま帰っても」

「ああ!その言葉通り帰った方がいいな。痛い目にあって泣く前に!」

「ちょっと待って。なんでそこで喧嘩になるのよ!」

 想像したより、二人の性格は合わないみたいだ。なにより綾小路先輩からの空気が刺々しい。

「別に喧嘩しているつもりはない。少なくともオレには。……とにかく、オレはあいつには嫌われたくないんだよ。勝手に共犯にしないでほしいんだが」

 厳しい上目遣いであたしを見てくる。

 それが二の足を踏む本当の理由のようだ。

「解ってるわよ。だからさっさと終わらせて戻るのよ!いつもの日常に」

「おまえがさっさとサインしちまえば終わりだろ」

「ことはそんなに単純じゃないのよ」

 あたしは自分の定位置に戻って、どっさりと腰を下ろした。

「玲華」

 斜め向かいから綾小路先輩が重々しく口を開く。

「本当は何があるんだい?何か裏があるようにみえるんだけど」

「なによ。お祖父様があたしを選んだのは見込み違いだったと言いたいの?お祖父様をも蔑視した言葉ね」

 ふん、とあたしは顔をそむけた。

 その動作をじっと久保田さんに見つめられているのがわかった。なにかを見抜こうとしている目だ。

 そんなことないよ、と返してくる綾小路先輩は反して弱々しかった。

「それで?今後としてはこのお坊ちゃんと婚約発表して、オレとかこの鉄面皮が君のことを守って……それで?その先には何があるんだ?」

 久保田さんのなかでは、綾小路先輩がお坊ちゃんで、千石さんが鉄面皮になってるようだ。

 千石さんに連れてこられるときも、あまり良い雰囲気じゃなかったんだろうなって想像できる。だけど千石さんはそう呼ばれても、ただ立っているだけで、一度もぴくりとも表情を変えなかった。

「はっきりさせとこう、君の狙いを。味方が欲しいなら手の内を明かすべきなんじゃないのか。なにも言わずにただ守ってくれってのは虫の好い話だ」

「それは……」

 痛いところをつかれた。

 あたしに狙いがあることを、久保田さんは読んでいたのだ。

「貴様。なんという無礼な……」

「黙ってろ」

 綾小路先輩が反発するのを、一言で久保田さんは制した。経験値の違いからか綾小路先輩は黙る。しかしそれすらもプライドに障っているようだった。

「君がゲーム感覚でやってるのならいい。こちらもそれなりに守ってやるさ。でも違うんだろう?そして周りも本気ときている。だったらこちらも生半可な覚悟ではやられるんだ」

 気づいていないのかしら、久保田さんは。その言い方は、ほぼ引き受けていると言っているようなものだ。

 あとは納得のいく目的をあたしが言えるかどうか……。

「……あたしが、お金目当てだとは思わないのね」

 勝手にそう思っていてくれていたのなら、どんなに楽だっただろうか。

 でも久保田さんはそういう面では優しくない人だ。仕事に、誠意を持ってやってるからこそ、厳しくなるんだ。

「そんな単純じゃないんだろ。たとえお金目当てだとしてもその先には必ず理由がある。そうみえる」

「僕も、玲華がただの欲望に駆られてっていうことは考えられないよ」

 綾小路先輩もあたしの性格を知っている。

 二人に同時に見つめられて、はっきりと困ってしまった。

「わかった言うわ。でもいまは駄目。ちょっと時間がほしいの。あたしだけの問題ではないから」

 そう言ってかわすことぐらいしか、いまのあたしには出来なかった。


   * * *


 それからすぐに西龍院家ではあたしと綾小路先輩の正式な婚約発表がなされた。

 あくまで内密に一族内のみに報せるように。

 大部分は祝す者、遠巻きに見つめる者だったが、中にはそれが単なる予防線であることが解っているだろう。

 この時期だ。それは仕方ない。

 それでも正式発表である以上(ないがし)ろには出来ない。それがそもそもの狙いだったから、特に問題視にはしなかった。

 次の日から、久保田さんには自由に館内を歩き回ってもらった。

「あなたには先入観がないから人間観察をしていてほしいの」

 そう言うと片眉を上げて、複雑な表情をしながらも部屋から出て行った。

 この家の中は、おおまかに表すと六つの大きな建物が、これまた広い廊下で繋がれている。広さは様々だ。奥の塔が左右に二つ、一番高くて五階建て。正面の門側には三階建ての塔が真ん中の広いフロアと繋がっている。

 真ん中の一番奥が、また三階建てで最上階がお祖父様のいる部屋だ。二階はお祖父様専用の使用人が住んでいる。一階には家族の者がお祖父様と会う為の部屋がいくつもあった。訪問する人数に合わせて使い分けているらしい。この塔自体がアポがないと近づけないようになっている。

 そして中央の中庭には、これまた大きい噴水がある。

 中心の噴出し部分の周りを埋める溝は二メートルくらいの幅で深い。そのうえ暗くて底が見えない。

 子どもの頃から近づいてはいけないと、大人たちに言われていた。

 客間は西の塔と、その前の三階建ての塔。

 さすがにこの部屋より豪華で揃っている客間はないけれど。

 東側の五階の塔から先。毅叔父様や稔叔父様といった本来の住人の部屋があるところへの立ち入りは、そこに住む者以外許されていない。

 久保田さんも行けないだろう。ガードマンがちゃんと立っているのだ。

 同居しているのはお祖父様を筆頭に毅叔父様一家と稔叔父様。

 そしてお祖父様が囲ってる女性、伊津子(いつこ)様にその子供清二(せいじ)様。同じく十和子(とわこ)様とその子供の加奈様と加絵(かえ)様姉妹。

 あとは女性が死去や離れて子供のみ残っている状態で、清志郎(きよしろう)様一家に和志(かずし)様一家に、いまだ独り身の恵美(めぐみ)様だ。

 家系図のまとめを、見取り図とともに久保田さんに渡した。

 その先でのあの複雑な表情だ。呆れてものもいえない……といったところだろう。こんなもの、争ってくれと言っているようなものだから。

(あたしだって、これが普通なんて思ってないわよ)

 なにも知らない子どものころは、これが当たり前だと思っていたけれど。

 いくら身近にそういうものを見せ付けられたとしても、お祖父様に惹かれた女性たちの気持ちは理解できない。

 特別になれないと解っていても、一緒になりたいと思わせるなにかがお祖父様にあるのだろうか?

 それとも、自分だけは本当に特別だと幻想を抱いたのだろうか。

 ――男の理想とはこういうものだ。それをワシは具現化したに過ぎない。

 一緒にいるなかで、お祖父様はそう言っていた。

(かなりの利己的主義ね)

 きっとお金だけで引き寄せられた女性もいるのだろう。それを納得したうえで、お祖父様はここに置き認知までしている。それのどこが理想なのかさっぱり理解できない。

「聞いているの?玲華さん」

「……もちろん、聞いてますわ」

 しまった。聞いてなかったわ。

 あたしといえば、あれからひっきりなしに部屋に誰かが来ている状態だ。

 一人ずつ―――もしくは一組みずつ―――と個々で対応すると宣言し、そのせいで順番待ち状態だ。

 好感を持たれようと優しく話しかける者が大部分を占めたが、やはり中には脅すようなことを言う者、卑猥で下劣な言葉を投げる者もいる。

 あれから三日経ったが、さすがに疲労感をおぼえる。

 いま目の前にいるのは毅叔父様の奥方八重子様だ。毅叔父様に所用があるようで、奥方直々に訴えに来たのだ。

 内容は、主要人物だけを相手にしろということだった。こういう平等な対応に慣れていないらしい。自分たち夫婦は、とくに特別だと自負しているのがまざまざと感じられる。

「他の方たちなど相手にすることはありません。夫やわたくしが本気になれば、あなたも無事では済まなくなりますよ」

「そうはいきませんわ。皆に平等にチャンスを与えるのはお祖父様の意志です。あなた方の説得の場だけ設けていては、それは不公平ではありませんこと?」

「玲華さん、後継者になりたいのではないの?」

「ええ。なりますわ。しかしお祖父様の仰るとおり、皆に納得していただくにはこの試練は必要不可欠だと思っております。本音といたしましては、こうしてる間にも本質的なところを勉強したいのですけれどね。そう、いまの企業すべての現状を把握したい、と……」

 挑む気持ちで八重子様を見据える。

 大規模な企業になればなるほど、人の目につきにくい闇の部分ができる。八重子様は僅かに視線を逸らした。毅叔父様がまっさらな清廉潔白とは言えないようだ。そしてこの人もそれを知っている。

「いまから勉強ですか。遅すぎるのではないの?引き継いだ途端、落ちぶれるのが目に見えていますわね。言っておきますが、経済学などで学んだところで素質がなければ何にもなりませんよ」

「そう、人を惹きつけるものが必要ですわね。他の誰よりも、そこには自信がありますわ」

「なんですって?」

「恐怖政治は続きません」

 赤子をひねり潰すごとくな残忍さを毅叔父様は持っている。あくまでいまは大人しくしているが、いつそれが豹変するかわからない。毅叔父様がここへ来たときには、そう思わせるような刺すような視線を放ってきていた。

「小癪ですわね。君子気取りですか」

 八重子様はそう吐き捨てた。この人も女性としての貫禄が充分ある。使用人が皆、怯えて仕えていることをあたしは子供の頃から知っている。

 また来ます、と言い残して八重子様はあくまで優雅に切り上げた。

 いますぐどうこうするつもりはないようだ。まだ期限があるからかもしれない。

 とにかく夜は毅叔父様、昼は八重子様が必ず一度来る。最後までこの手法で押し通すのは、並大抵な精神力でないと、もたないかもしれないと思った。

 八重子様が部屋から出て、安堵感から深い吐息が出る。

 これは早めになんとかしないと、いつ限界に来るかわからない。

「休憩なさいますか?」

 あたしが次の言葉を発しないからだと思う。千石さんがそう言ってくれた。

 体だけ反転させて、ソファに行儀悪く体を預けながらあたしは訊く。

「いいわ。ねえ、それよりあのことなんだけど……」

 あたしがした三番目のお願い。

 それがまだ果たされてなかった。

「それでしたら明日(あす)約束が取れました」

 動かない目で抑揚なく告げられた。

 それならそうと、早く報告してほしい。

「あなた、なにか企んでるの?」

「なぜですか?」

 なんの変化もなく反問される。

「違うのなら、なにか不満なのかしら?あたしのすることが」

「どうしてそう思われるのか、まったくわかりません」

「あたしがこの家と関係ない人を呼ぶのに反対だから、すぐに言わなかったんじゃないの」

 仕方なく直球で訊く。この人にはまわりくどい言い方では駄目なのだ。

 多少、苛立った自分を戒めた。

「いいえ。そのことはとくには……。ただ、あの方もお忙しいようで、なかなかお時間が空いてないようでしたので、はっきり決まるまでは、と」

「そのことはって言ったわね。さっさと白状しなさいよ、不満があるなら」

 ここまで追い詰めてようやく、千石さんの表情が硬いものに変わった。目が泳いでいる。

「私の意見など聞いてどうしようというのですか?」

「あのねえ。隣でただ黙って立たれているのが、どれほど圧迫を感じるかわかる?あたしはお祖父様じゃないんだから、思ったことは言ってくれて良いのよ」

 千石さんは感情を表さない。

 だけどそれは無関心でいるわけではないのだ。それならば言って欲しい。無用な警戒もあたしだってしたくない。

 逡巡したように黙り、そして意を決したようにあたしを見た。

「では、僭越(せんえつ)ながら申し上げます。私は久保田修次を近くに置くことに不満を抱いてます」

「…………え?」

 意外なところに話が飛んだ。ワンテンポ反応が遅れる。

 ええと……。それはどういうことかしら……。

「実は貴女に頼まれて彼の事務所へ向かっているときのことです。私は何者かにつけられていました。それらはすべて振り切れたと思いますが、私にまで目を向けている人がいるのです。彼がそれに対抗できるとは思えません」

「だからね、言いなさいよ……そういう事実は……」

 あたしは頭を押さえた。つけられていたなんて初めて聞いたわ。

「振り切れたので問題ないと判断しました」

「わかったわよ、もう。それで?久保田さんの評価が低い理由は?」

「私が目的の建物に到着するその直前に、ちょうど彼は現れました。どこかから丁度戻ってきたところだったようです。上下スウェットに、手にはコンビニ袋。予め写真で顔は確認済みでしたのですが、その姿でまず私は一抹の不安を感じました。そしてその男の力量を測るため、気配を殺して近づき、なにも発せずに渾身の力を込めて殴りかかったのです。その数秒後、あの男は振り向きました。私はその顔面すれすれのところで力を静止させ、遅すぎる、と。この男では駄目だと瞬時に判断したのです」

「…………」

 一番長いおしゃべりを聞いた。余程がっかりしたんだと思う。

 そして、久保田さんがあそこまで不機嫌そうに現れた意味が解った。そういう試され方をされるのも嫌いそうだ。

 そんな状態で、よく来てくれたと感謝しなければならないのかもしれない。

「――ですので、私は反対です。貴女はいざというときの為にあの者を呼び出したのでしょうが、あの者に貴女を守れる技量があるとは思えない」

「あなたにしては珍しく自発的な行動ね。なぜ試そうと思ったの?」

「勝手なことをしたと罰せられても構いません。ですが我らでは力不足だと言われるなら……余程の」

「誰も力不足とは思ってないわ。罰する気もないから」

 あたしは最後まで聞かずに被せた。

 そこは嘘ではない。あたしはお祖父様とは違う。

 あたしの期待したいところを千石さんに伝えていないわけだから、彼にとっては不本意なんだろう。自分より強いと思われている、久保田さんという存在が。

「貴女はあの者にどんな期待をなさっているんですか」

「期待?」

「調停役にあの者を選んだ。そうとしか思えないのですが」

 お祖父様の想いを、ただひとり共有しているこの人だから言えることだ。そう想像するのも頷ける。

 実際には調停役なんて、久保田さんには向いてない。

「違うわ。ただここの一族以外の人間を、近くに置きたかっただけよ。あたしの自己保身のためにね」

「玲華様から見れば、私も他の護衛の者も信じられない。そういうことですか?」

 静かに、でもはっきりと千石さんから疑心を感じた。

 ここで怒るということは、この人は信用していいのかもしれない。そもそもお祖父様が近くに置きたがる人だ。初めからそこは視野に入れていたのだけれど。

「あなたがそれに不服だろうとそこがあたしの狙いよ」

「ですが……それでは……」

 千石さんの言葉尻が濁る。

 さすがに言いすぎたかなと反省した。

 しかし本来の目的とは別にもうひとつ、危険因子をはらんでいる人を浮き彫りにするのもあたしの役目だと思っているのだ。

「あたし自身はあなたのことをまだよく知らない。最初から他人を信じるのは難しいわ。でもこれから知っていくのよ。千石さんも思うとおりに動いてくれていいの。その行動の中で徐々にあたしは信用できてくると思うの」

 初めから他人を信じてしまえる人もいるのだけれど。

 そう、悠汰みたいな人が。

 申し訳ないけれど、あたしはそういうふうになれないように育ってきた。この家で。

「千石さんなら素質があると、あたしはすでに思ってることだしね」

 そう補足をしてあたしは微笑んだ。

 長すぎる前髪の隙間から、僅かに照れが含まれた彼の目が見えた。


   * * *


 あたしが久保田さん以外にこの件と関係ない、つまりこの家以外の者を連れてきたのはその次の日だった。

 そう、頼んでいたことの三つ目だ。

 その人のために時間を空け、自分の部屋に招き入れている。

「相続人の廃除?」

「ええ。遺留分、つまり親、配偶者、子供に保証されている制度ですが、その対象となる人を被相続人―――つまり源蔵様の意思によって相続権を奪う制度なんです」

「ああ。そこが相続の欠絡とは違うところなんですね」

 呼んだのは恰幅のいい六十代の弁護士の飯田(いいだ)雅孝(まさたか)先生だ。

 いまここ、応接スペースでは弁護士相談が行われている。いや、勉強会というべきだろうか。これまでと比べて空気が和やかだ。

「そうですね。欠絡は法律上のことで欠絡者は遺贈も受け取れません」

 飯田先生はもうそんなに暑くないのに、汗をかきながら黒い鞄からA4サイズの紙を数枚取り出した。

「分かり易く判例をお持ちしました」

「ふうん、表立って該当しそうな人はいないわね」

 一通り見てから、つい思ったことが口に出た。同じやるなら、該当者を少しでも減らしたかったのだ。

 久保田さんが遠巻きに見ている。どこかから帰ってきたかと思えば、コーヒーを自分で入れて、そのままキッチンにとどまっているのだ。でも関わってこようとしない。

 とりあえず無視することに決めた。貴重な時間だ。そんなことに囚われてはおられない。

 飯田さんはハンカチを握り締めて、はあ、と呟いていた。

 この人はお父様がこの家から出たときにもいろいろ助言をくれた人だと聞いた。見た目にそぐわずやり手な人なのだ。

 そして悠汰の兄、惣一(そういち)さんの事件も担当した弁護士さんだ。

「しかしこの家にはこの家のルールがあるようですね。それがどこまで国会権力に通用するかは私にはわかりません」

「構いませんわ。覆すのにもそれ相応に失うものもあるもの。足枷にはなるはずです」

 そうでなければ困る。しかし毅叔父様あたりならば、あまり意味は無いかもしれない。

 お父様も血族に宣言したものの、法的には放棄してない状態だそうだ。被相続人、つまりお祖父様が亡くなって初めてその権利が生きるからだという。

 あたしとしてはそこは問題ではない。必ずお父様はそのとき、放棄の手続きをするだろうと思えるからだ。

(それより問題にしていそうな人がいる、ということが問題なんだけどね……)

「源蔵様が遺言を残さなければ法定相続人のみの問題で済んでいたでしょう。正式な配偶者は死別なさっておられますので、お子様だけです。しかしあのような遺言を残されるおつもりでしたら、あなたが署名した者にも遺贈をするということになります」

 飯田先生の勉強会は続く。

「孫は代襲相続で含まれるはずの者だけですが、それ以外でも適用されてくる。いや孫だけでなく、源蔵様の内縁の方たち、兄弟姉妹、果てはその子供、そしてその孫……すべてですね。内容によっては、まったくの他人でもあなたが認めた者には遺贈すると、そういうことになってしまいます。つまり争う者が増えるだけです」

「あたしも内容までは見てないのです。でも祖父はそういう意図でしょうね」

「いったい、何の為に」

 初めて飯田先生は踏み入ったことを聞いてきた。

 確かに、理解できないだろう。これだけを聞いたのであれば。

「それは分かりませんわ。祖父の胸中に触れるのは何者にも赦されていませんので。それより、こういう遺言は有効なのですか?」

「見ていないのでなんとも……。しかし源蔵様であればわざわざ無効なものは作成しないでしょう。二十日すぎて書き直すということも可能ではありますし……」

「――ああ、そうですよね」

 このとき、ピクリと久保田さんが反応したのが見えた。

 なにか気づいたのかもしれない。あの人は鋭いから。

 それから、数十分経って授業は終わった。いろいろ聞いたけれど、今回のことにあまり役には立ちそうにない。それでも今後のためにはなりそうだった。いち知識として。

「ごめんなさい。飯田先生。お忙しいときに、わざわざお呼びして」

 飯田先生を扉まで見送ってそう締めくくる。

「いいえ。彼の方ももう終わりました」

 にこやかに皺を作ってほっとした表情をしていた。

「あー、そうなんですか?どうなりました?」

「保護観察処分に」

 あえて軽く尋ねると、極秘に短く、答えてくれた。あたしが気にしていたことを知っているからだろう。

「――そうですか」

 あたしもほっと一息ついた。

 これで、少なくても悠汰はお兄様と離れなくてすむ。あの家にはあの人が不可欠だから。

 飯田先生が出て行って、扉を閉める。

 それからずっと不可解そうな顔をしている久保田さんを見た。

「惣一さんのことよ」

 この人も無関係ではない。

 こういう人だからなにも言わないけれど、きっと久保田さんも惣一さんの判決を気にしていたと思う。

「お嬢、本当はそれが聞きたくて呼んだんじゃないのか?」

 また素直に喜べばいいのに、そんなことを言ってかわしてくる。

 あたしは不敵に見える笑い方をした。

「弁護士呼んだのよ。法律のことに決まってるじゃない」

 あっそ、と久保田さんは呟いて(くう)を見た。

「それよりどうしたの?途中から入ってきたと思えばそのまま残って」

「ちょっと一時離れさせて貰おうかと思ってな」

「そうね。今はまだそんなに激化してないし、そろそろあなたも準備が必要よね」

 状況も流れも見えてきて、やっと久保田さんは自ら行動を起こしたくなったようだ。なにか思うところがあって、必要な防具(アイテム)がほしいと考えているんだろう。

 あたしがそういうと複雑そうな顔を向けた。

 考えを読まれたのが嫌だったのだろうか。

「……ん。まあ、そういうわけだから数時間貰うわ」

「祥子さんによろしく」

 わざとそう付け足したら、今度ははっきり辟易の色をその顔に浮かべた。

「そのままオレが逃げるとかは考えないのか?」

「逃げたら一生言い続けるわ。みんなにもチクるから」

「あのなああー」

 久保田さんが脱力してる。

 それにはお構いなしで、あたしは部屋に戻ってメモ帳とペンを持ってきた。テーブルにおいてサラサラとペンを走らせる。

「ついでにこれを用意してきて」

「子供のお使いか、オレは」

 ぶつぶつ呟きながらも久保田さんは受け取る。

 そして読むとため息を吐いた。

「――――」

「手に入る?」

 挑むような上目遣いで、真面目に聞く。

「当たり前だ。オレを誰だと思ってる」

 半分呆れながらも、頼もしい一言を久保田さんは放つ。

 これだから期待しちゃうのよね。

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