第一章 ・・・ 6
いままででは考えられないほど、拓真が隣にいる。
「大丈夫?頭痛くない?吐き気は?」
一定の時間を置くと、思い出したようにそう聞いてくる。俺の目を覗き込みながら。
なんか変な使命感を持っているみたいだ。
兄貴に無理をいって外に出してもらえたけれど、それは条件つきだった。
必ず誰かといること。そして少しでも頭痛や吐き気がしたらすぐに言うこと。
(子供じゃねえんだから)
信用されていないんだと思う。
確かにそれに値する行動を、これまで俺も出来ていなかったわけだから、文句は言えないけど。
「頭痛も吐き気も殴られる前からあったけどな」
事実を話すと拓真が睨みつけてきた。
「それって風邪の症状じゃないの?」
「そんなんは俺は知らねえけど……」
俺が目覚めて更に二日。
拓真はなんと朝わざわざ家にまで来た。俺が療養を兼ねて学校をサボろうとしていたら、ウチまで来て「出掛けるつもりならボクをつれて行かないと駄目だよ」と言ってきた。
それで出掛けるのはなんか癪に障って、意地でも部屋にいたら、そのまま自然に拓真も居ついたという流れだ。
まるで見張られているみたい。
居心地が悪くなって、仕方なく出掛けるころには、昼をとっくに過ぎてそろそろ夕方という時間帯だった。
というか、やることないんなら家に来なよ、と拓真は言ったのだ。
ずっと家にいても本ばかり読んでいたくせに、俺がつまらなそうにしているのとでも思ったのか、そう気を遣ってきた。
「知らないって……呆れた。そういう返しするかな、ここで」
テーブルを挟んだ俺の前で拓真はぼやく。
「つうか、いいのかよ。おまえも結局学校サボってんじゃん」
「ボクは体調不良で休みなんだよ。親から学校に話がいってるからさぼりじゃないよ」
「なんだよそれ。甘やかされてんな」
サボりは親公認かよ。
本当に甘いと思う。
拓真が呼んだ拓真んちの車でここまで連れてきてくれたし、来てみたらやっぱりこいつはお坊ちゃんって感じで、玲華んちには劣るけどすごい豪邸だし。テレビで見るお宅拝見の家みたいに広い。
(俺が知らないだけで、使用人ってのはどこの家にもいるものなのか?)
ついそんな勘違いを起こしそうになる。
いや、まて。確か中学時代の友人、純平の家には誰もいなかった。
そうだ、一般的なのは紛れもなくあっちだ。
家にも数ヶ月前にはいたけど、あれは両親が家事を放棄したのと、子供を見張るためだった。確実に存在意義に違いがある。
拓真の部屋は俺の部屋の二倍はあった。様々なジャンルの本が埋まっている本棚が学習机を囲っている。
漫画とかCDとか、置き場が無くて仕方なく置いているような、よく分からない置物とかで占めている俺のただひとつの本棚とは訳が違う。……違うところばかりだな。
「そんなに本読みたいなら俺帰る」
話しかけたら答えてはくれるけれど、すぐに本に集中してしまう拓真に、俺は申し訳なさと拗ねたような気持ちからそう言う。
すると一瞥睨んでから、拓真はドサドサと本をテーブルの上に十冊くらい置きだした。俺の目の前に題名が見えるように重ねて置かれる。
下から『最先端セキュリティ住宅編』、『金持ちから防衛方法を学ぼう』、『凶悪化する泥棒』、『あなたの危機管理大丈夫?~隙は必ずできる~』、『センサー回路の秘密』、『真似しちゃ駄目よ、泥棒になる方法』……そんなタイトルの本がずらりとあった。
「ボクが好きでこんな本読んでると思わないでよね。君が目覚めてから買ったものだよ」
「……拓真」
俺は感動してしまった。
ただの本好きの暗い奴かと思ったのに……。やっぱりこいつには敵わない。敵う奴も少ないけど。
「まだ諦めてないんだろ?だったら知識がいるじゃないか」
「そうだよな……。俺は人に頼ってばっかりだな」
人に話を聞いて安心しようとしたり、今回の事だって比路がいなければ自分は独りでなにも出来ないで、ただ苛々していただけだ。
動いている分、少しでも成長している気になっていたけれど、違う。
なにも変わってない。変われていない。
「そのことなんだけど、前回はどうやって忍び込もうとしたの?何かヒントがあるかもしれないから教えてくれる?」
「…………」
失敗したことがヒントになるか分からなかったけど、俺は話すことに決めた。
比路に悪いとか、話すことで拓真に迷惑かけるとか、いろいろと頭を掠めたけれど、ここまでしてくれようとしてくれる拓真にもはや黙ってはいられなかった。
徐々に拓真の顔が険しくなる。
「その比路って人、信用できるの?」
「なんだよ、おまえまで」
世羅も久保田さんも比路と関わるなと言った。
俺には彼のなにがそんなに警戒させるのか解らない。
「だって彼はその家に住んでるんだろ?友達を連れてきたとか言って、堂々と入れさせてくれればいいじゃないか。なんか、わざわざ危険な方を選んでるみたいだ」
「んなことねえよ。あそこはいま他人に神経質になってるからって。だからこれしか入る方法がなかったんだ」
無理やりに侵入する方法しか。
「それってどこまで本当なのかな?だって神経質になる理由って財産のことだけだろ?玲華さまに関係ある人だってバレれば拒まれるだろうけど、比路って人は端っこの分家だっていうし。あ、じゃあ久保田さんはどうやって入れたの?」
「さあ?」
俺に聞かれたって知らない。
玲華と比絽では許されている範囲が違うのかもしれない、ということしか思いつかなかった。
「なんか釈然としないな……」
拓真は難問を突きつけられたみたいに考え込んでいる。
俺は不愉快に思えた。
最も不安を感じていたときに助けてくれたのは比路だから。比路に会えた事で道が進んだことは確かなのだから。
「やめろよ。比路を疑うの」
「神崎くんは信じてるんだね?」
「ああ、そうだ」
すんなり言葉が出た。信じるとか、そんなに大袈裟に考えてなかったのに。
なんの躊躇いもなく肯定できた。
(そうか。俺は信じてるんだ)
比路を疑う、という選択肢すらいままで無かったから、頭になかっただけで。
「でも玲華さまはその人に関わって欲しくないと思ってる」
「なんだよ。なにが言いたいんだよ」
「そう言ったんだろ?世羅さまを通じて」
まだ拓真は眉根を寄せて難しい顔をしている。
「どうせ玲華の言うことの方が信じられるって言いたいんだろ!おまえも!」
なんだよ、みんな玲華玲華って。
確かにあいつは頭も良いし完璧だし、みんなに信頼されてるけど。
「拗ねないでよ。ここは大事なところなんだよ」
「誰が拗ねるかよ!会ってもないくせに人を疑うってどうなんだって言ってるんだ!」
「ちょっと神崎くん、落ち着いてよ。どうしたんだよ、そんなムキになって」
……どうした?
どうかしてるのか、俺は。
気持ちの整理がつかない。殴られる前の、病院で拓真と話した以前の自分に戻される感じがあった。
はっきりしない、ふわふわと揺れ動き一定に留まらない心情。そのくせ頑固にひとつのところから根っこが動かないで……。
(ムキ?)
向きになっているだろうか。
(比路はなに?)
前にも一度陥った意識。
俺にとっての比路はなに?
友達じゃない。計画の協力者か、共犯者なのか先導者なのか……。どれも違う。
(だったらなに)
「とりあえずボク考えるよ。だから一人で動かないでよね」
「なんで……玲華が望んでないことを、おまえはしてくれるんだ?みんなただ待ってろって言ったのに……」
周囲の人と同調するところがあるくせに、ここだけは違う。そんな拓真は理解ができなかった。
拓真はひとつ首をかしげ、高く積まれた本から顔を出しながら言った。
「っていうかさ、周囲に君たちの事がモロバレだっていう、そういう事実はもうどうでもいいわけ?」
「……あ……」
そういえば、とくに誰にも付き合ったことを報告なんてしてない。
それなのに噂が出てもクラスメートたちに気を遣われていた事実だとか、美山の言い方も知っていたなだとか、そんなことにも俺は気づかずにいて……。
あれ?
そういえば世羅にも綾小路にも京香にも言われた。玲華が選んだ相手みたいなことを――。
「あれ?」
比路もあらかじめ知っていたから、俺に協力してくれたわけで。
兄貴もいつの間にか当然のように彼女の話を……。
「なんで?」
混乱した後、ようやく拓真に聞いたら彼は信じられないって顔をしてから、すっごく長いため息を吐いていた。
「まあともかくボクは君の友達だからね。助けたいって言ったのも嘘じゃないし」
「……玲華に心酔してたくせに」
「それとこれとは別だろっ!あいかわらず腹立つな!」
ぷりぷり怒って拓真は本を片付けだした。
それでようやく無神経なことを言ったと自覚する。
「友達だと思ってていいんだよな!」
それから真っ直ぐな目で訴えられて、謝る間もなく俺は勢いに押されて頷いた。
すると満足そうに拓真は笑って、残りの本も本棚に収める。
なんか……こいつこそ本当は騙されやすいタイプじゃないのか?
「それで?なにかいい方法は見つかったか?」
話の筋を逸らしたくて、本筋に戻った。
なんか嫌な汗をかいたな。
「何個かあるけど、どれも確実じゃないね。もう少し待ってよ。絶対完璧なの見つけるから」
立ったまま俺を見下ろしてして言う拓真は、とても精悍な面構えをしていた。
いつも爽やかなやつだと思っていたけど、こいつはそれだけじゃない。俺より断然深く物事を考えている。
初めて悔しさを覚えた。
同年代でいつも身近にいる拓真だからこそ、敵わないのが悔しかったんだ。
* * *
次の日、俺は学校へ行った。
これ以上休んだら拓真まで休ませることになってしまうと思ってのことだ。
父親も兄貴も、一人になられるよりマシだと考えたのか、学校へ行くことを止めたりしなかった。
久しぶりに教室に入ったら周囲はざわついていた。
俺の頭にはまだ包帯があって、好奇な目を向けられた。
そんなことになるとは思ってもみなかった俺は、ようやくそこで包帯を取る。
トイレの鏡の前で取ったら、傷口は髪に隠れてそんなに目立たなかった。こんなことなら初めから取ってくればよかった。
(なにやってんだ、俺は)
何度目かになる自己嫌悪に陥る。
一時間目と二時間目の間。一年生の教室が並ぶ二階の男子トイレ。
……だよな、と確認したくなる。
俺が包帯をゴミ箱に棄てていると、なんと個室から美山が出てきたからだ。
なんでコイツがここにいるんだろう。
「おい。やっと目が覚めたか?」
手も洗わずに俺に絡もうとする。
「クソした手でさわんなよ」
「それそれ。あー良かった。つまんなくならなくて」
俺が睨みつけながら言ったら、すごく可笑しそうに鼻で嗤った。
やっぱりこいつはムカつく。
自然に人を見下すようにできているみたいだ。
「なにしてるんですか?こんなところで」
「ちょっとこれからつき合ってくんない?」
俺は美山の言い出した言葉に眉をしかめた。
こいつが絡むと碌なことがない、となぜか心髄で感じる。
「いやだ」
「うわっ即答。馬鹿じゃねえのおまえ」
「この流れでついて行くと思う方がどうかしてる」
あまり相手にしないようにしてるのだが、ブツブツとぼやいてしまう。
「そーんなこと言って良いのかなー。おまえの願いが叶うのに」
「……は?……」
いまなんと言った?
(俺の願い)
それはあの家に行き玲華に会うこと。一刻も早く。
「だからーこっちについてくれば、今夜またチャンスがあるんだってさ」
なんで美山がこんなことを言うんだろう。
それでも一瞬、確かに俺は迷ってしまった。
拓真の顔が浮かんだ。今まで頑張ってくれた拓真に悪い、という想いから首を横に振る。
「……それは、こっちでなんとかするから、いらない」
「はあ?ったく……相変わらず頭でっかち」
普段いないはずの美山がいるせいか、男子トイレには誰も近寄ろうとしない。何人か同級生が入ろうとしたけど、気まずい顔して出ていった。
こいつがいたら迷惑になる。
俺は強引に外に出ようとした。俺が出ればこいつも出るから。
だけど美山は行く手をふさいだ。
「待てよ。しょーがねえな。こういう手は使いたくないんだけど……これ見てみ」
そして美山は内ポケットからデジカメを取り出した。画像が見えるように俺の前にかざす。
「!」
俺は息が止まりそうになった。
屋上で京香とサボっていたときの、画像。顔が最も近づいていた瞬間。
なんでこんな物が……。
背筋が凍って、だけどすぐに怒りがこみ上げた。
「おまえ!」
「怒んなよ。俺もこれは後味悪くてさ、後悔してんだ。隠し撮りなんてサマになんねえ」
「後悔している奴がこういうタイミングで出すかよ!」
「だよなー。だからー、おまえはただ黙ってついてくればいいの」
全く悔やんでる感じもなければ、謝ろうという気配もない。それどころか脅しの道具に使う。
ムカつくなんてもんじゃない。
こういう奴は許せない。
「こんなもので脅されない。別に悪いことはしてない」
「あっそう?でもさ、あのお嬢さんに見られたら誤解されるんじゃないの?ちょうどいい角度だろ、これ。本当にしてるみたいだもんな。さっすがオレサマ」
未遂だと分かっていて脅しているのか。
玲華?
彼女がこれを見たら……なんだって?
もう愛想をつかれている可能性もあるのに。
あるけど、もし傷つくようなことになったら?
それは駄目だ、と咄嗟に思う。
俺はあの家に行く。それだけで玲華に迷惑をかけているのに。これ以上は余分なところで玲華に負担をかけたくない。
「わかった。その代わり俺の目の前でデータを消すと約束してくれたら、だ」
「ああ、いいぜ」
ニヤリと笑って美山は、あっさりとその場でデータを消した。
迷いのない手つき。これには俺の方が驚く。
「いま消していいのか?」
「おまえ変なところで頑固だろ?一度した約束は破らない。違うか?」
「…………違わないけど」
少し、意外だった。
こういうことを美山が言うとは思わなかったのだ。
「じゃ、いーじゃん。行こうぜ」
それから美山は俺の肩を叩いた。
兄貴に言われたのは一人になるなということだけだ。拓真じゃないと駄目とは言われてない。
言い訳のように頭の片隅でそう思った。
「あっ!おまえ、手ぇまだ洗ってないだろ!」
思い出してすぐ口に出したら、美山はちょっと面食らってた。きたねえ奴だ。
* * *
美山は学校を出て、そのまま電車に乗った。その間、どこへ行くのか何度聞いても教えてくれない。
「面白いとこ。着いてからのお楽しみだ」
そんなことを繰り返すだけなのだ。
まだ平日の午前中で、こんな時間に制服姿でいると少し目線を集めてしまった。
電車の中が居心地が悪い。俺たちは座らずに出入り口付近で立っていた。
俺は少しでも目立たないようにしたかったけれど、美山は慣れているのかまったく気にしている素振りがない。
「あんたんちには、お抱え運転手はいないのか?」
玲華の家の運転手、眞鍋さんの車に送られることが増えてしまって、お陰で俺まで車に慣れてしまっている。
駄目なところで影響を受けているのかもしれない。
上を知ったら降りられなくなりそうで怖いのに。
「あんなの見張られてるみてえじゃん。俺んちの家訓はそれぞれ自由に生きろだもん」
「ふうん……」
自由の結果がこれか。
多少の束縛は子供には必要かもしれない。あくまで、多少だけど。
「うちは放任主義だけど、その代わり他人様に迷惑かけたのがバレたらすっげえキレられるんだ」
「迷惑かかってるんだけど?」
俺は美山を睨む。
「バッカ。こんなんは迷惑の内に入らないだろ?愛だよ愛」
「はあ?」
まったく話が通じない。っていうかこんな軽い男だったのか……こいつ。
ちょっと悪寒が走ったけど、風邪の名残ではないはずだ。
「俺は群れるのは嫌いだから友達とか少ないけどさ。代わりに気に入った奴は近くに置きたいんだよな」
「はあ……」
「おまえには素質がある。だからだよ」
「なにがだから?」
「愛ってやつだよ。おまえは気に入った」
「はあ?」
同じ反問をしてしまう。何を言っているんだ?こいつ……の世界だ。
今度は鳥肌が立つ。けれどこれも風邪ではないだろう。
「綾小路と仲良かったよな?確か……」
「ああ、やつはダチ」
「俺は?」
「手下」
「…………」
やっぱりそういうオチか。勘違いする前に確認出来て良かった。本当に良かった。
こいつの手下なんて冗談じゃない。百害あって一利無しだ。
「あ、おまえいま迷惑だと思ったろ」
「手下なんて言われて誰が喜ぶか」
馬鹿にするのもいい加減にしてもらいたい。
俺にだってプライドがある。
「バッカだなー俺の手下になったら恐いもんなしだぜ」
「おまえのその考え方が怖い」
「はあーおまえ、なんで亨がおまえのこと嫌ってるか全然自覚ないんだな」
「玲華のことだろ?」
好かれたいとも思わないけど、嫉妬してるんだろう。綾小路は。
(あ……)
確かもうひとつ、本人から理由を聞いたな。
俺は今頃思い出していた。いや、少し前までは気をつけようとしていたはずなんだけど……。
「そうデシタ。あなたは先輩デシタね」
「てめえ、ムカつく」
慣れない敬語を使ってやったのに、美山は余計に不機嫌になった。
おっかしいなー。
久保田さんは怒らなかったよな、確か。
タメ口聞いても敬語をつかっても怒られんなら、タメ口でいいんじゃねえの?と思ってしまう。
「おまえには敬意が足りないんだよ。人を人とも思わないところあるだろ」
「それをあなたから言われるとは思いませんでしたけど」
「それだよ、おまえ。丁寧語話せばいいってもんじゃねえんだぞ。ココロが伴ってないんだよ」
「…………」
なんでこんなに真面目に叱られてるんだ、他でもない美山に。
「あいつ言ってたぜ。礼儀知らずだとずっと注意してるのに直らないって。そういうところを改めてくれないと好感なんて持てるはずがないってさ」
別に綾小路に好感なんてもたれなくてもいい。
そうは思うが、そんなことを他人にわざわざ言ってるっていうのは意外だった。
「そういえばおまえ、綾小路に変な伝言しただろ」
俺はようやく思い出していた。確かあいつ、目を覚ませとかなんとか言ってたような……。
「っへ?あいつマジで伝言したの?律儀なやつー」
「どういう意味だよ、あれ」
「ああ。もういいんだよ。あれでとは思えないけど……一応ましになったみたいだしな」
電車内のモニターを見ながらぼそぼそ美山は呟いた。
突っ込んで訊こうとしたときに、電車が駅に止まった。扉が開くと美山がなにも断らずに先に降りる。
五駅ぐらいすぎていた。
(ここは……)
最近も来た場所だった。
比路の大学が近くにあるはずだ。比路と会うとき、決まって俺はこの駅に降りた。
(なんでここに……)
美山のこれまでの関わりが俺の頭を巡った。
京香とのあのタイミング。あんなに狙ったように写真が撮れたのはなぜだ。
いやそもそも美山は“今夜もまた”と言った。それは前回の失敗を知っているってことだ。
(また、いまごろ気づくなんて)
本当に俺は鋭くない。
でもなぜだ、と思う。なぜ美山が比路や京香と関わりがあるんだ。
「まだ何も訊くなよ。着いたら全て解るからな」
俺の考えを読み取ったのか、美山は先手を打つ。
ホームから改札に出て、ずっと美山の後についていく間、俺はなにも言えなくなっていた。
なにか嫌なことが起こりそうな、そんな予感がする。
そして、こういう予感はかなりの高い確率で当たるってことも、俺はどこかで知っていた。
だから。
震えがくる。
見えない何かが迫っている時が一番恐いのはどうしてだろう。
「おい、なんつー顔色してんだよ。おまえ、もっと気楽に生きろよ」
一度だけ美山は振り向いてそんなことを言った。
気楽?
簡単に言ってくれる。そんなふうにできたら、とっくにしてると思う。
「おまえは気楽そうだよな」
何も言えないのも悔しくて、つい口から出た。
「バーカ」
だけどもう、美山は振り返らなかった。ただずんずんと歩いている。
その道筋も俺が歩いたことのあるところだった。徐々に気持ちが塞いでいく。
理由はまだ解らないけれど、確実に落ちていた。
「ここだ」
そして辿り着いた場所は。
玲華のところへ侵入する日に比路に連れてこられた場所だった。
アングラな店名もなにも記されていない扉。
美山が先に入って、中が開けるとこんな時間でもここは暗かった。
「比路」
やっぱり、中には比路がいた。カウンターに座っていたけれど扉が開く音で、椅子ごと回転させてこちらを見ている。
その隣には京香。カウンターの奥にはあまり顔を覚えてないけれど、あのときの男性が今日も煙草をふかしていた。
「あれっ!こんなところでも会うとはね。びっくりー」
京香は俺の気も知らないで、満面の笑みを向けた。
やっぱりこの三人はつるんでいたんだ。少し考えれば分かることだ。まったく頭が働かなかった自分に腹が立つ。
「いいから座れよ」
立ち尽くしてる俺の背中を美山は押した。
それがきっかけのように俺は動けた。やつの手を弾く。
「どういうことだよ!これは」
肩をすくめて美山はカウンターに近づいた。答えようともしない。
その代わりのように比路が立ち上がって俺のところへきた。
「なに怒ってるの?ぼくはきみの事が心配だったんだよ。それで、もともと友達だった美山くんに、きみが学校に来たら教えて欲しいって頼んであったんだ。あれからきみがどうなったのか気になっててね」
「え……あ……そう…………」
そういえばそう、だった。
あれから初めて会うんだ、比路とは。
病室ではずっと会って聞きたいことがあったはずなのに。
どうして俺はこんなに恐かったのか、それ自体がわからなくなっていた。
「窓から見てたよ。玲華の護衛に殴られてたよね。酷いね、彼。きみの気持ちなんか全然無視しててさ」
久保田さん。
すごく恐い顔をしていた。俺に怒っていたのが嫌なくらい伝わって。
「おい。別に俺と比路さんは友達じゃねえぜ」
不意に美山がカウンターから遠い声を放つ。それに比路は答えなかった。
「でも大丈夫だよ。今度は失敗なんかさせないから」
力強い言葉。相手に安心感を与える笑顔。
「なあ、比路はバレなかった?あの日、誰かに怒られたりしなかったか?」
「うん。大丈夫。ばれてたら今頃ここにはいられないよ」
「そうなんだ」
良かったと思う。それだけが気がかりだったから。
これで思い残すことはない。
「だったら比路。もうしなくていい。俺は俺で玲華に会いに行くから」
拓真と一緒に頑張る。そう決めたから。
あいつが必死になってくれて、俺は心を取り戻せた気がするから。まだ完全ではなくても、確かに動いたんだ。
「なにそれ?」
比路は眉を寄せながら首をかしげた。
少し今までの比路からは違和感のある仕草だった。
「えっと……悪い。でもこれ以上迷惑かけらんないし」
「困るな。今更そんなこと……」
それから俯いた。
もしかしたら傷つけたかもしれない、と思った。俺はよく無意識に人を不快にさせるから。また失敗したのかと思った。
だけど、次に顔を上げた比路は……。
笑い方が変わっていた。細めた目の奥は鋭くて、今までの柔らかさが嘘みたいで。
「比路?」
「きみはぼくの言うことに従ってもらわないと困るよ。じゃないと玲華が助からない。それでもいいの?」
「なんで比路はそんなに玲華を助けたいんだ?」
玲華を救える人だから俺に協力したいと、比路は前に言った。そもそも根本的に、なぜ比路が玲華のためにそこまで動くのかがわからない。
それよりこの変化はなんだろう。
動機が速くなった。
「悠汰くん。雰囲気少し変わったね」
比絽からひととき笑みが消えた。
変わったのは比路ではなく俺?
「あの探偵と話したせいかな?それともお兄さん?」
「なに?」
彼が何を言いたいのか掴めなかった。変化があるのかどうかも自分ではわからない。
「ダチだろ」
なぜか美山が間に入る。美山には何の話か解ってるようだ。
「友達?ああ……いるよね。きみにも友達は。そうか、その影響か」
「萩原拓真くんよね」
京香も椅子から飛び降りて、近づいてきた。比絽の一歩斜め後ろで止まる。
俺の話をしているはずなのに、三人が別次元で会話しているみたいだ。遠くて核がみえない。
「拓真くんっていうんだ。どんな子?」
「可愛い好青年って感じかな。明るくて男女問わず友達がたくさんいるタイプ」
俺への質問になぜか京香が答える。拓真と、面識があったのか。
「ああ。なるほどね。そのなかの一人が悠汰くんか」
「悪いかよ」
「もちろん悪くはないけど。そういう子にきみは合わないかな。そうは思ったことない?価値観違うなって。その子にはきみの苦しみは理解できないと思う。きみは感受性が強いから、そんな気がなくても影響を受けてしまう。その子と離れた方が、きみは穏やかでいられるんじゃないかな」
比絽の言うことは、いちいち俺の心に刺さってきた。
焦燥感が湧き上がる。
納得できるところがあった。拓真は優しいやつだからこんな俺にも協力しようとしてくれる。
だけどあまりに立ち位置が違う。共通するところがひとつもないのは確かだ。
(友達になる資格がないのは俺……)
だからあいつといると悔しくなる。俺より円滑な人間関係をあっさり築けてしまえる同級生のあいつには。
「これ見て、もらっちゃった。よく撮れてるよね」
「京香!」
唐突に京香は一枚の写真を取り出した。それに鋭く比絽が制止をかける。
はーいと言いながら渋々しまったけれど、一瞬でもわかった。あれは美山が撮った先ほどの写真だ。
「美山!おまえっ」
「怒んなよ。別に俺、嘘はついてないぜ。データ消去もマジだし。ただそのまえにプリントして渡しただけ」
相変わらず悪びれもせず、美山はカウンターに頬杖をつきながら言う。
「まさか……京香が俺に近づいたのって」
このためか。こういう写真をとるために、京香は好きでもない俺と?
「誤解しないでね、悠汰くん。これは玲華のためなんだ」
悲しげな表情を浮かべて、なぜか比絽が答えた。
「玲華のため?」
「そうだよ。玲華を外に出すにはきみの力が必要だったんだ。玲華を早くあの家から出さないと、どんどん彼女は狂っていくからね。でも今彼女は完全に閉じこもってしまっている。この写真を見せても完璧に平然としてたよ。すでにあの家に侵食されてるみたいだ」
「玲華に、見せたのか?すでに見ているのか……玲華は。……美山の脅しに乗る必要はなかったんだ……」
いろんなことが頭をよぎった。
玲華は動揺しなかった。傷ついたりはしなかった、のか。
ならば良かったと思うべきなのだろう。なのに、なぜか喜べない。
「美山くん、どう言って彼を連れてきたの?」
「しょうがねえだろ。そいつ俺に警戒心バリバリなんだから」
「日頃の行いが悪いんだよ、真人くんは」
「京香にだけは言われたくねえ」
三人の会話が上滑りする。
どういう関係だとか、もうどうでもよかった。
ただ視界が暗かった。玲華のことでいっぱいになる。
「まったく、仕方ないね。とにかくそういうことだから。友達に任せないほうがいい。拓真くんだっけ?彼は部外者だよね、関わらせない方がいいよ。本当に危なくなるまえに」
「拓真は……比絽が友達として俺をあの家に迎え入れたら良かったんじゃないかって言った……玲華のことを隠して。そうすればあんな危険なことをする必要はなかったんだって」
なにを言おうとしているんだろう。
どうすればいい?俺は。比絽と拓真とどちらに着いて行くべきなんだ?
そんな迷いから出た言葉だった。
「違うよな?わざと危険な方を選んだんじゃないよな?」
「それはぼくも考えたよ。でもぼくは彼処に居させてもらってる身分だ。いまはね。だから安全性より確実な方を選んだだけだよ。結果、失敗してしまってきみには申し訳なかったと思ってるけど」
「そんなこと……」
「あー……もういい」
俺が否定をしようとしたところで美山が遮った。
ウンザリ感を遠慮なく出して、頭を掻きながらこちらに素早く歩いてくる。
「もういいだろ。帰ろうぜ、神崎」
スレ違いざまに肩を押された。そのまま俺を連れて出ようとする。
変わり身の早さに、直ぐにはついて行けなかった。
「美山くん、どういうつもり?」
「どうもこうもねえよ。もう用は済んだだろって言ってんの」
美山はなにやら機嫌が悪そうだった。
それはわかる。いや、それしかわからないというべきか。
「裏切るのは許さないよ」
「はあ?初めから仲間じゃねえよな、俺ら」
「悠汰くん!きみもだよ!ぼくを裏切らないで。今夜ここでまた待ってるから」
比路からどこか切実さを感じ取った。
すぐには展開についていけなくて、茫然としているうちに、美山は俺を外まで連れ出してしまった。
「ちょっ……待てよ!まだ俺は比絽と話が!」
「あいつの話は聞くな!」
こちらの言い分を一切聞かずに、美山は切り捨てるように言い放った。
こいつまで、そう、言うのか?
なんで?
少なくても今の会話の、なにが豹変させる要因となったのか分からなかった。
「てめえ、なんの分際で……」
「おまえがなんで腑抜けになったのか見ていてわかった。つーか戻んなくていいだろ、もう」
「何の話だよ?連れてきたのおまえだろ?説明しろよ!行けば全部解るって言ったじゃないか!これじゃ、全然わかんねえよ!」
「言われないとわかんないのか?てめえはっ!」
「わかるわけないだろ!俺たちは他人なんだから!何を考えてるかなんて知らねえよ!」
人の心が簡単に読めたら、こんなに苦労はしてない。玲華のことでこんなに取り乱していない。
それよりももっと昔。
子どものときだって、親の気持ちが読めていたらもっと、うまく……。
「あーわかったよ!俺が悪かった!だからそんな顔すんな」
「俺はまだわからない……」
「ったく、もっと根性ある奴だと思ったのに」
「悪かったな」
根性なくて。
すぐマイナスに針が触れて。悪かったなと思った。
「あーもう。つまり!おまえ比路に操られてんじゃねえよ。あいつはおまえが思ってるような奴じゃねえから」
操られてる?誰が?
そんな気はさらさらないし、俺は自分の意志でついて行っただけだ。
だけど、それよりもいまは、目の前のこいつが何を考えてるのかっていうほうが重要だった。
「おまえが、良い奴なのか悪い奴なのか判らない」
「はあ?おまえの頭ん中、そのどっちかしかねえのかよ」
「他に何があるんだよ」
「だからおまえは比路に騙されんだ」
「おまえ!」
なんでこんなこと言われなければならない?
全く説明もしないで、一方的に!理不尽だ。
「あいつは奥が深い。俺らじゃ辿り着けないところまで堕ちていて……歪んでる」
そのとき言った美山の目がすごく怖くて、先ほどまでの軽さがなくて、俺はゾクリとした。
しばらく頭の中で、ずっと今までの比路と自分のやり取りを思い返していた。無意識に。
それでも、なぜだか比路のことは悪く思えない。
これが操られてるってことなのだろうか、とちょっと考えた。




